第22話 頼む、あと一週間だけ待ってくれないか

# 22

 「頼む、あと一週間だけ待ってくれないか」痩身の男が声をあげている。

 「ダメだ。これがうちのシステムだ」小窓の向こう、カウンターの内側にいる男が冷たい口調でそう言い放つ。

 「お願いだよ。母親が入院しちまって、今すぐ金が必要なんだ」痩せた男はひれ伏すように懇願する。だが、カウンターの中の男はまるで聞く耳を持たない。もう話は終わったという様子で煙草に火をつけ、冷房を効かせた部屋でテレビに目を遣る。

 「なあ、お願いだ。今回限りなんだ」痩せた男は、カウンターの中の男に掴みかからん勢いで懇願を続ける。画面の向こうでは、サンフランシスコ・ジャイアンツとシアトル・マリナーズの試合が行われている。八回を終えて、三対三。セーフコ・フィールドでは手に汗握る投手戦が繰り広げられている。

 「なあ、話を聞いてくれよ!」叫ぶような男の声を受け、カウンターの中の男は気怠そうに立ち上がり、「今夜のうちに荷物をまとめておけ。明日には空っぽにする。それがうちのシステムだ」と熱のない声で言った。

 ドミトリーの玄関にあるカウンターには、毎月二十五日になると小さな行列ができる。大家がやって来るのだ。長期滞在者はこの時にまとめて金を払わないといけない。大家は横柄な人物で、金がない者や彼の意にそぐわない者は容赦無く排除された。彼はそれをシステムと言った。ドミトリーの平和と秩序を生むためのシステムだと。

 「来月分の金だ」そう言ってアールは、カウンターに封筒を置いた。大家は睨むように奴を一瞥してそれを受け取り、札束を数える。

 「まだいるのか?」

 「ああ。俺はここを気に入っているんだ」

 「秋には出ていくと言っていたな」

 「どの秋かは明言してない」

 「おい、そりゃあないよ。お前のせいでうちの風紀は滅茶苦茶だ。今世紀一乱れている」

 「絵が完成したら出ていくさ。俺の絵があれば、この見窄らしい建物も少しはマシになるよ。なんなら、この薄汚い壁に直接書いてやってもいい。あんたには世話になったからね」

 「黙れ」大家は金を数え終えると、手で奴を追い払った。

 「あんたは?」

 「僕もひと月分だ」

 「あんたは奴の連れかい?」

 「いや、最近知り合ったんだ」

 「そうかい。あいつはとんでもない奴だよ。浮浪者さ。このあたりの宿からはみんな見放されて、ワシが引き取ってやったのに。まったく腹立たしいよ。あの芸術家気取りのスクワッター野郎には本当に困っているんだ。悪いことは言わない。あんな奴とは付き合わない方がいいよ」そう言って大家は顔を赤くした。資産家で恰幅が良くて、太った鳩みたいな男だった。きっと豆を食べ過ぎたのだろう。

 「見たことあるかい? 奴の作るごみを。あれはとんだ欠陥品だね。頭のネジが飛んでいる」大家の口からは奴への不満が念仏のようにとめどなく溢れ出た。「規律とか秩序ってもんがないんだ。芸術って奴はもっと厳かで繊細じゃないといけない。だいたい……」僕は急いでいるふりをしてその場を後にした。

 「金がないのか?」エレベーターホールに出ると、先ほどの痩身の男にそう尋ねる奴の姿があった。

 「ああ、おふくろが酷い病気でな」

 「そうか」

 「でも、寝床がないと……働けない」それを聞いて、奴はおもむろにジーンズのポケットを裏返した。だが、飛び出したのは数枚の硬貨とレシートのクズだけだった。

 「あの男にもう一度頼んでみるさ。どれだけ蔑まれようと、惨めな目にあおうと、俺には守るべき俺の箱庭がある」男の顔にはどこか吹っ切れたような精悍さがあった。奴は暫くそれを見つめると、何を思い立ったのか勢いよく階段を駆け上がって行った。

 「なんだいアイツは?」

 「気狂いの道化師さ」

 「道化師?」

 「あるいは、あんたよりベテランのルンペン」そうしているうちに奴がドタドタと階段を降りてきた。

 「くれてやるよ」

 「本当か?」金だと思ったんだろう、痩身の男は目を輝かせ奴を見上げた。だが奴が携えていたのは金ではなく、例の滅茶苦茶な絵だった。

 「……これは?」

 「俺の描いた絵だ」そう言って、奴は小窓ほどの大きさの絵を差し出した。

 「売れるのか?」男は尋ねた。

 「さあな。ろくに人に見せたことがない」

 「これはなんの絵なんだ?」

 「さあ?」

 「タイトルは?」

 「ないよ。名前なんてあんたがつければいい。もうこれはあんたのものだ」

 「そうか……気持ちは嬉しいが、絵は置いていくよ」男は悲しそうな笑みを浮かべて言った。そして、野球に夢中になっている大家の元へ向かった。

 「おい! ちょっと待て」そう喚く奴を僕はそっと制した。奴の声を聞いた男は振り返るとこう言い残した。「俺はね、この絵が好きな気がしているよ。何でかわからないけどね。学がないからうまく言えないんだ。でも、俺はこの絵が好きな気がしている」

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