第14話 ジーンとの出会いは言うなればビッグ・バンだった
# 14
ジーンとの出会いは言うなればビッグ・バンだった。
僕たちは気が付けば恋人のような関係になっていて、毎週のように手を繋いで新宿の街を歩いた。
新宿。はっきり言って、そんなに面白い街ではない。情緒も趣きもない。ただただ、何もかもがあって、そして何もかもがあり過ぎている。過剰なんだ。過剰包装されたジャンクフードみたいな街だ。それでも、僕はこの街のいたるところに彼女の面影を見つけることができる。彼女はいつも色の褪せた五〇一を履いていて、アンニュイな顔をしていて、でも時折、ほんの僅かな時間の隙間(それはきっと五円玉の穴のような大きさで、一円玉くらいの重さの時間だ)に垢抜けない少女みたいな笑顔を見せた。
「どうしてかしら? キミといると余計なことを考えなくて済むの」
世界は新緑の季節だった。
彼女といると僕の方も大抵のことは忘れられた。彼女といることに一生懸命だったのだ。本を読んだり、何かを書き綴ること以上に。人生にはそういう時間がある。粗削りで、非計画的で、それ故に何もかもが強い引力で凝縮されたような時間が。彼女と会わないでいる六日間、僕はその爆発の破片を掻き集め、一つ一つ検分するように言葉にしてノートに書き記し、自分の至らなさ、不完全さを嘆き、その欠落を埋めるように本を読んだ。この胸に眠る何かを繙こうと。だが、僕の渉猟の日々は終わらなかった。読み終えた本だけが積まれていく。埃を被った重たい本棚の沈黙。それは僕の心のように思えた。
僕はある日思い立って、車輪のついた旅行鞄を転がして、図書館に駆け込み、ありとあらゆる種類の辞典を借りた。言葉を渇望していた。世界をもっと知りたかった。僕のような、干からびた海藻のような人間には言葉が必要なのだ。言葉の海に溺れて世界を漂流する。いや飲み込まれ、沈没していく。そこにこそ、僕に必要な何かがあるのだと、そう信じていた。
僕らはよく紀伊國屋の裏手にあるジャズ・バーで酒を飲んだ。靖国通りを地下に入ったところにある小さな店で、店内にはいつも古いジャズが流れていた。
「こんな店よく知っていたね」
「素敵なところでしょう?」
タンカレーのジン・トニックを片手に彼女は顔を綻ばせた。
「ああ、よく来るの?」
「ううん」
「よく来ていた?」
「少し前までね」
彼女はいつもジン・トニックをオーダーし、半分飲み切ったところでアボカドと胡瓜のベーグルサンドを頼んだ。
「どうして来なくなった?」
「お酒を飲むと、いろんなことを思い出すじゃない?」
「うーん。まあそうかもしれない」
「実際、そうなの。楽しいことはより楽しく、悲しいことはより悲しくなる。お酒ってそういうものよ」
彼女の横顔を見ながら、僕はヒューガルデンの白いビールをグッと飲んだ。なるほど、確かにアルコールにはそういう力があるのかもしれない。
「それでね、いろんなことを思い出すと、隣にいる人にそれを話したくなる」
「話せばいいさ」
「わたし、好きな人とじゃないとお酒は飲まないの」
「尚更、話せばいい」
「楽しい話ならいいわよ。でもわたしの場合、そういう時思い出すのは決まって悲しいことなの。何故かしらね? 悲しいことは出来るだけ話したくない。話したら余計に悲しくなりそうで。もし泣いちゃったりなんかした日には最悪よ。そうじゃない? 次会うときに『そういえば、アイツは悲しみを抱えている人間だったな』なんて思われたくないもの。そんなのは絶対に嫌」そう言って、彼女は口一杯にベーグルサンドを頬張った。
「それにね、誰かに話しても結局何も変わらないのよ。その時だけはなんだか少し事態が好転したような気持ちになるけれど、実際は何も変わらない。むしろ悪くなっている。幸せになった分だけね」
「そうか……」
店内にはケニー・バレルの『ミッドナイト・ブルー』のLPがかかっていた。バッキングギターの音が密かに夜の移ろいを啓示する。なんとも抑制的でクールな演奏だ。「ブルースはどんよりと曇った寒い日のようなものばかりでもない。そして、そんな天気が一晩中続くというわけでもない。ブルースは行くあてのない恋の片道切符である」たしか、デューク・エリントンがこんなことを言っていた。そうだった、僕はいつも忘れてしまいそうになる。時間はいつもそこにあるのだ。それに目を遣り、どんな意味を与えるか、それが僕らに許された時間との付き合い方であり、つまり生き方なのだ。
「それならキスをしよう」勢いよくヒューガルデンを飲み干すと、僕はそう言った。
「何言ってるの?」
「キスをするんだ」僕にはそれが正しいことだと思った。彼女と僕の間にある何かを越えるための。
「こんなところで?」彼女はそう言って、あたりを見回した。ケニー・バレルのギターが響いている。そこは煉瓦の壁に囲まれた、新宿の地下のジャズ・バーの片隅だった。「嫌よ」
今はもう店はない。僕たちが向き合って座っていたテーブルも。あのベーグルサンドも。酒を飲んだり、本を読んだり、懐かしい話に花を咲かせたりしていた大人たちの姿もどこか別の場所に消えた。
「……そりゃそうだ。それなら酒を飲もう。お酒は好き?」
「嫌いじゃない」
僕は店員を呼び、ウォッカを二つ頼んだ。カウンターの奥のバーテンが素早くメジャーカップで酒を切り分け、ショットグラスにライムを添える。「馬鹿みたい」と言って呆れながら、彼女はそれを口にした。音楽はいつの間にかソニー・クラークの『クール・ストラッティン』に変わっていた。
「キミって、ちょっと変よ」
「そうかな?」
「そうよ。それも何ていうか、ちょっとおかしな変わり方をしている。自覚はない?」
「さて、僕にはわからないなあ」
「少しは自覚した方がいいわよ。そういうのって、知らないうちに誰かを傷つけたりするんだから」
「わかった。もう少し考えてみるよ」
相変わらず『クール・ストラッティン』が流れていた。ソニー・クラークのピアノがコツ・コツと靴音を鳴らして街を歩いていく。僕はこの曲を聴くと、いつもあのジャケットのことを思い出す。どこか暗喩的なハイヒールとスカートのスリット、そして白い車のタイヤ。
「でも、わたしはね。そういう所嫌いじゃないわよ」彼女は目を伏せ、チェイサーの水の入ったコップの水滴を細い指でなぞりながら言った。「つまり、その……好きなの」
時間が停止する。
彼女の右手の指先が僕の頬に触れる。水滴が灰色がかった彼女のフレンチネイルの光を乱反射している。そして、彼女はそっと僕の頬にキスをした。短いキスだった。店内はおろか、新宿のすべての人間が、いやこの世界の誰もがそれに気付くことはないだろう。ソニー・クラークもケニー・バレルもきっと。煉瓦の壁に囲まれた、新宿の地下の片隅で僕らはキスをした。そのキスはその夜にどうしても必要なキスだった。空になったウォッカのグラスに添えられたライムのように、テーブル席に運ばれていくプリン・ア・ラ・モードの天辺に乗る桜桃のように、ローレルにおけるハーディのように、そのキスは僕らに必要なものだったのだ。
「キミは……まるでおとぎ話みたい」彼女は囁くようにそう言った。そして、鞄からカメラを取り出し、レンズを僕に向けてシャッターを切った。
「可笑しな顔!」
そう言って、悪戯な笑みを浮かべながら燥ぐ彼女。その時の表情が今でも瞳の奥に焼き付いて離れない。僕たち二人だけの世界。そこは完璧な場所で、余計なものなんて何一つなかった。何一つなかったのだ。
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