第13話 九番室、つまり僕の部屋の向かいにはランドロマットがあった

# 13

 九番室、つまり僕の部屋の向かいにはランドロマットがあった。ちょうど一部屋分のスペースに、黄ばんだパネルとつまみが付いた古いギターアンプのような洗濯機と乾燥機が三台並んでいる。朝になると、誰かがそれを回す。汗に濡れた下着やらティーシャツやらがそこに放り込まれて。壊れかけの洗濯機はぐるぐると回転し、世界の終わりみたいな音を立てる。

 アルコールに溺れた明け方、眠っていると、薄い部屋の壁の向こうからよくその音が聞こえてきた。それは次第にボリュームを上げ、僕の心を掻き乱す。耳を塞いでも、布団の中に潜り込んでも、その音は消えない。世界の終わり、僕はぐるぐると回る渦の中にいる。その中心で仰向けになって海中へと落ちていく。そこは魔法がみんな解けた世界の果て。

 いつからか、眠る前になるといつもその音が聞こえるようになった。渦は大きな口を開けて待ち構えているのだ。僕が一人ぼっちになるのを。眠りの淵で。僕はぎゅっと目を閉じ、必死に眠ることだけを考える。余計なことは忘れて、ただただ眠る瞬間のことを考える。ブラックアウトのまさにその瞬間のことを。だが、音は消えない。むしろボリュームをあげる一方だ。未来は僕に手を差し伸べてはくれない。だから、僕は別のことを考える。例えば、昔読んだ小説の筋書きとか、昔観た映画の台詞とか、そんなことを。ゆっくりと自分の呼吸に耳を傾けながら、虚構の世界の空気を吸い込む。するといつしか音は消え、僕は眠りについている。


 「雨を降らせるつもりなんでしょう。知ってるんだから」

 だが、その日は違った。雨が降っていたのだ。この世の終わりみたいな酷い雨が。そのせいか、僕の試みは失敗に終わった。

 「結局、あなたにはわからないのね。本当の雨の冷たさも、誰かの言葉の意味も」

 ノートの言葉が氾濫し、洗濯機の濁流がすべてを飲み込む。そして音はいつの間にか深い海の騒めきに変わった。身体が水圧を感じる。耳に水が入り込んでくる。それは蛞蝓のように全身を這いずりまわる。

 「あなたは涙しない。あなたは笑わない。あなたは……」

 僕は水が苦手だった。どうして? 胸の奥にいくつかの記憶が浮かび上がってくる。ぬるぬるとした岩場、鼻腔を突き抜ける塩辛い痛み、その向こうで揺れる黒い人影。僕は溺れているのだ。そこで僕は溺れている。幼い日に海で溺れたのだ。八月。長崎の海で。もがきながら、自分がなぜ溺れてしまったのか、その理由を考える。視界が記憶の奥深くと結びつく。

 「ねえ……いつまでそうしているの?」ノートの彼女が尋ねる。気が付くと朝が来ていた。そこはドミトリーのベッドの上で、僕はテレグラフにいた。

 「魔法はなかったんだ。僕の言葉には」僕はそう言った。結局そうだ。どこにいようと、八月の匂いが僕を追いかけてくる。平気なふりをしている僕の髪の毛を掴み、地面に叩きつける。どんな言葉も、どんな芸術も、その時の音や冷たさ、水泡の欠片を描くことはできない。


 僕は小説を書く。

 名前のない、名前をつけられない感情を統べ、いつか猛獣使いのように操ることのできる日を夢見て。

 そこには風景がある。物語がある。いくつかの時間の流れがあって、それを僕たちは広く人生と呼ぶ。人生。いかなる創作物よりも素晴らしいもの。洗っては汚され、クタクタになっていくもの。

 例えば、誰かの強い悲しみを垣間見た時、僕はそれを書く。その悲しみを想像し、悲しみと悲しみの間にある楽観を想像し、そのさらに奥に巣食うもっと強い悲しみを想像する。涙に濡れた瞳に映る景色を思い描く。涙を拭った右手の指の温度を思い描く。その指の湿りを乾かす風の色を思い描く。そして、その間に存在するものや空間、音や色を事細かに書き綴る。一頻り終える頃には、僕は着衣水泳の後のようにヘトヘトになっている。自問自答の果てに何もわからなくなっている。ただ、何かを掴んだんじゃないか、という感触だけが僕の手に握り締められている。それはその瞬間において何よりも確かなものに感じられる。だけど、君は言うかもしれない。「わたしはこんなにも、悲しくはなかったわよ」と。「たしかにあなたの書いた悲しみは、写実的で暗喩的で感傷的で、そのうえどこかユーモアもあって、一般的な悲しみよりもいくぶん上等なものかもしれない。だけどわたしの悲しみとは違うの。決定的に。だってそうでしょう? それを決めるのはわたしなのだもの……」結局そういうことなのだ。僕にできるのはそこまで。何かの仮象、比喩を作るところまで。でも、そんなものに何の意味があるのだろう? そんなもので何に寄り添えるのだろう? そんなもので喜ぶ人はいるのだろうか? 結局のところ、そんなものは無意味で、無価値で、何の役にも立たない余計なものなのだ。

 「余計なもの」

 余計なものを僕は生み続ける。膨大な時間とそこで得られたかもしれない何かを犠牲にして。そして、耳を塞ぎ、頭で追いかけては美化し、正当化し、感覚を麻痺させる。なんて虚しい試みだろう。

 ノートを閉じる。ティーシャツのお詫びにと、奴がくれた絵葉書みたいなドローイングの紙切れを栞がわりに挟んで。そして、コーヒーを買いに街へ出る。雨は上がっていた。雨雲は去ったのだ。何もかもを攫って。そこに何があったかなんて誰にもわからない。僕にさえも。


 「僕はいつまで生きて、いつになったら死ぬのだろう?」

 気温が上がり、路上に残った雫からは強い夏の匂いがした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る