第2話 その秋はチェット・ベイカーばかり聴いていた

# 2

 その秋はチェット・ベイカーばかり聴いていた。彼のアンニュイな歌声が、柔らかいトランペットの音色が逡巡を続ける季節にぴったりだったから。

 日本から飛行機で十二時間、僕はサンフランシスコのテレグラフヒルにいた。


 早朝、ドミトリーを出て、チープなコーヒーと一欠片のチョコレートを手に坂道を登る。毎朝、毎朝、決まった時間に目を覚まし、決まった時間に家を出た。そして、生活者が行き交い始める頃には、日本の初夏のような陽射しに包まれたワシントン・スクエアのベンチに寝転がって、ひたすらノートと睨めっこをしていた。

 何かに溺れず、書き続けるためにはそうすることが最善だった。焦らないこと。自分に期待し過ぎず、かといって見放したりはしないこと。同じ一日を複製し、頭の中身だけを更新、つまり入れ替えていくこと。それが大切だった。僕は小説を書いていたから。


 小説を書く。それは誰かに話しかけることに似ている。「ねえねえ」「なんだい?」といった具合に物語のドアーをノックするのだ。

 話し相手は自分自身であることもあれば、特定の誰かだったり、あるいは概念としての誰かだったりもする。よく話を聞いてくれる者もいれば、簡単な相槌だけで済ませるような者もいる。それでも、話を聞いてくれるなら良い方だ。中には無視を決め込んだり、もっと酷いと、まるで違う方面に僕を引きずり込もうとする者だっている。それは大抵、過去というやつだ。過去は現在や未来より多くの言葉を持っている。だから口が上手いのだ。話をしているうちにどんどん引き込まれてしまう。深いところへ。僕らは一生懸命にそれを追いかけようと潜っていく。もちろん、ある程度までなら、それは有効な手立てにもなると言える。だが深入りはまずい。あまりに深いところまで行ってしまうと、自力では戻ってこれなくなるからだ。過去ってやつは自分を知って欲しくて、できるだけ近くまで僕らを連れて行こうとする。誘惑するのだ。魅惑的な言葉を並べ、妖しい光を放ちながら。


 記憶の深い海の底、そこには宝石のような小説の原石が山のように転がっている。それは大量発生した雲丹を思わせる。黒くて棘のある、あの雲丹を。僕はそれを一つ一つ網に放り込んでいく。豊穣の海底だ。雲丹はどれも大ぶりで形がよく、その質については検分する必要もない。だから、手当たり次第に無心で放り込んでいく。やがて網の中はいっぱいになる。十二月二十三日のサンタクロースの袋を思わせるほどに。「今日は随分と獲れた。大漁だよ」僕は礼を述べる。だが、返事はない。水先案内人は忽然と姿を消している。ブクブクと立ち込める水泡の中、僕はすべてが手遅れになっていることを悟る。当たり前のことだが、海には地図も標識もない。どちらが出口なのかまるで見当がつかない。そうしているうちに息が苦しくなってくる。「ああ、今回もまた駄目だったのか……」その時になってようやく、自分が何度も同じ過ちを繰り返していることに気付く。どれだけ美しいものも名前を付けなければ消えてしまう。殻を剥かなければ、雲丹の身にありつけないように。僕はサンタクロースにはなれない。そして、誰も知らない所で溺れていく。後には何も残らない。


 これは教訓だ。

 だから、ある時から僕は今を書こうと決めた。今、目の前で起きていることを見つめよう。今、この場所に吹いている風に身を預け、今、泣いている鳥の囀りに耳を澄まそう。絶え間なく動き続ける今を言葉にしよう。そう胸に誓ったのだ。シュレディンガーの言うように、そこには少なくとも僕がいる。例え世界が虚無であろうと、それに触れ、確かめることのできる僕が。

 さあ、目を覚ましペンを取ろう。ベンジャミン・フランクリンの銅像は、今日も「ようこそ」と言って人々を迎える。僕はもう一度、いくつかの時間の渦の中に手を差し出してみる。水面に触れ、その冷たさを、その暖かさを確かめるように。そして、今この瞬間の自分の声に耳を傾ける。「君の探し物は見つかったかい?」と。ジョン・レノンもウォーホルもケルアックもギンズバーグもいない二十一世紀、僕らの時代。そこはテレグラフで、世界はどうしようもなく二十九歳の秋だった。

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