第29話


 手首に痛みを感じて、反射的に腕を振る。だが圧迫感は消えない。

 

 ――誰かに、手首を掴まれている。

 

 とわずかに遅れて脳が理解した。さっと体中から血の気が引く。

 身の危険を感じた左手が、防衛本能のままに動き、その何者かの手を力任せに引き剥がした。

 

「痛っ……」


 暗がりから飛んできたのは、高い女の声。

 影は払われた手を引っ込めると、大事そうにもう片方の手で撫でながら、詰るように口を開いた。


「痛ったいなぁ、もう」

「お、お前……」

「おかえり。遅かったね」


 声の正体に気づくのに、若干のラグがあった。

 まさか、と思った。その可能性はゼロではないが、相当なまでに低かった。


「んふ、びっくりした? おもしろーい、今の顔」

 

 それと理由がもう一つ。

 よく聞き慣れているはずだったが、その声音はまるで別人のようだったからだ。

 

 かつ、と小さく足音がして、影が動いた。すると届いていなかった街灯の光が当たって、体の輪郭が浮かび上がる。

 明るい薄手の上着に、ガラ付きのスカート。そこからすらりと伸びた手足が、照り返しを受けて光る。


「ねえ見てこれ。初めて二人でデートした時の格好だよ」


 そう言って純花は微笑みかけてきた。

 作り笑いでもなんでもない、いたって自然な笑み。

 だが俺はその笑顔に、言いようのない薄ら寒さを感じて、ただ絶句していた。


「もう、あたし迎えに行くって言ってたのに。どこ行ってたの? せっかくの休みが台無しだよ」

「お、お前、何やって……、今何時だと思ってんだよ?」

「来たらともくん家にいなかったから、ずーっと待ってたの。待ちくたびれちゃったよもう。携帯に連絡はつかないし……それにしてもともくんひどいなぁ。あたしのことブロックするなんて」


 口ではそう責めながらも、純花はどこか楽しんでいるような口ぶり。

 それがいやに不気味で、厳しく非難されるより、はるかに気分が悪くなる。

 俺はそれには答えずに、


「……なあもう、いいだろ? あと少しで一週間だ」

「そだね。ちょっと早いけど……もうお互い、限界みたいだし……ふふ」


 純花は意外にも素直に、俺の言葉を受けとめる。

 だがその表情には、微塵も悲壮感はなかった。

 それどころか純花はくすくす、と静かに笑い出した。

 

「何がおかしいんだよ」

「だってともくんの顔がおかしいんだもん。どうしたのそんな怖い顔して」

「どうしたも何も……もういい、これで本当に最後だ。お前とはお別れだ。じゃあな」


 俺は吐き捨てるようにそれだけ言い放って、純花の横を通り抜けようとする。

 だが純花はすかさず俺の前を遮って通せんぼをした。


「待って。別れる、ってどういうこと?」

「何言ってんだよ、お前言っただろ、一週間待って欲しいって。それで、俺の気が変わらなかったら別れるって……」

「なにそれ? そんなの知らないよ? ……ふふ、だってあたし、一言もともくんと別れる、なんて言ってないよ?」

「は?」

「よーく思い出して? あたしは言ってないから。別れる、っていうのは、ともくんが勝手にそう解釈しただけでしょ?」

 

 別れる、という単語。

 そう言われて思い返すと、ほのめかすような言動はあれど、確かに純花の口からは直接出ていないのかもしれない。

 とはいえその記憶だって曖昧だ。そもそも細かい発言の端々まで、はっきり覚えているわけがない。

 第一、そんな揚げ足取りのようなふざけた詭弁に付き合う必要はない。


「そんなのが通用するかよ、はっきり言ったか言ってないかとか関係ねえよ! 少なくともお前は俺がそう思ってるって、わかってたんだろ? なら同じじゃねえかよ!」

「くすくす、ともくんおかしいよね。勝手に一人で早とちりして」

「いい加減にしろよお前……。じゃあいい、仮にそうだとして……一週間たったら、なにをどうするって言うんだよ!?」

「ふふ、それはね……一週間たって、ともくんの気持ちが変わらなかったら……」


 純花はそこで一度言葉を飲んだ。

 ためらっているのではない。純花の視線は、まっすぐに俺を見て離さない。

 俺の反応を、表情を伺っているのだ。わずかな動揺を、ささいな変化も見逃すまいと。


「あたしも、ともくんとの接し方を変えようと思って」


 そう言って、純花はまたにこりと微笑んだ。

 上っ面とは裏腹に、全くその真意が見えない。


「……どういうことだよ?」

「あたしずっと勘違いしてたみたい。ともくんってすごくプライドが高くて、俺様って感じで、偉そうで……。だからひたすら褒めてあげて、逆らわずにおとなしく言うことを聞いてたほうがいいのかなって思ってた。きっとそういう子が好きなんだろうなって。けど……そうじゃないんだね」

 

 純花はまるで同意を得るように間を開けたが、俺が肯定も否定もせずに黙っていると、一人でさらに続ける。


「だってともくん、カッコいい、とかすごーい、とか言われても、全然うれしそうじゃないもんね? こうやって彼女がいて、かっこよくて背も高くて、運動もできて、勉強だってきっとやればできるし……それはお世辞じゃなくて、本当だからね? それなのに、ともくんってちっとも楽しそうじゃないし、幸せそうに見えない。それどころかいっつもイライラしてるよね」

「なんだよ……? 何を急にわかったような口利いてんだよ? お前、俺のことなんか何もわかってねえくせに」

「わかってるよ。本当はともくんって、かわいそうなんだ。あたしと一緒で、かわいそうなんだ」

「お前と一緒にすんな。俺のどこがかわいそうなんだよ」

「だってともくん、本当はお父さんのこと……」


 純花の口から突然こぼれ落ちた単語に、びくり、と体が硬直する。

 急に頭が真っ白になり、とっさに返す言葉が出てこない。

 代わりに強く拳を握りしめながら、やっと出てきたのは絞り出すようなかすれた声。


「……関係ねえよ、あんな奴のことは……」

「ふぅん……? でもほら、あたしが初めてギターを見せてもらった時……。これ親父にもらった、って言った時のともくんの顔……すごく、うれしそうだったよ?」

「何言ってんだよ、そんなわけ……」

「自分で気づいてないんだ、かわいそう。やっぱりともくんかわいそう」

「さっきからかわいそうかわいそうって、なんなんだよ! だからなんだよ、勝手に言ってろ! もう俺とお前は関係ない!」

「あたしのこと捨てるの? それじゃ、お父さんと一緒だね」

「はあ? 捨てるとか何大げさ言っちゃってんの? ただ別れるだけだろ? 彼氏彼女なんて言ったって、しょせんそんなたいそうな間柄でもない……。これからいくらでも、他のヤツと好きにくっつきゃいい話だろ」

「そんなことしないよ。だってあたし、ともくんのこと好きだから」


 じっと俺の目を見つめたまま、純花が一歩近づく。

 その顔に当たっていた街灯の光が、俺の影に遮られて陰った。


「それが言いたくて待ってた。今日は遅いしもう帰るね。ずっと待ってて疲れちゃった」

 

 影の中で、かすかに口角の上がった口元が動く。

 それと同時に、音もなく伸びてきた冷たい手のひらが、俺の頬を軽く撫でた。


「バイバイ。また明日」


 そう言って長いまつ毛が瞬かせると、純花は踵を返して、小走りに路地をかけていく。

 俺は呆然と立ちつくしたまま、徐々に遠ざかっていく足音を聞いていた。

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