第27話
「明日、また食事に呼ばれてて、遅くなるから」
夕飯の食卓。
あらかた料理を並べ終わった母が、対面に腰を下ろしながらそう言った。
俺は「うん」とだけ呻くと、椀を取って箸の先を味噌汁の中に沈ませた。
別段珍しいことではない。
明日は夕飯を用意できないから、自分でなんとかしろ、という意味だ。
どこで、誰と、だとかは特に詮索はしない。会社の役員の男性と親しくしている、とだけ前に言われからだ。
それきり、言葉をかわすことなく二人きりの食事は進む。
つけっぱなしで放置されたテレビの音だけがやかましい。騒がしいバラエティ番組が流れているが、母はほとんど見ていない。俺も見ていない。
やがて母が一度箸を置いて、リモコンを操作すると、テレビはニュース番組になった。
「明日も暑いか……」
母が独り言を言って、赤く縁の付いた眼鏡を、すっと通った鼻筋へ押し上げた。
レンズの奥では、切れ長の利発そうな瞳が油断なく光っている。
母親似だとはっきり自覚できるぐらいには、俺の顔つきはこの人に似ている。
俺は早々に飯を平らげて食器をかたすと、テーブルを離れソファに背をもたせながら、テレビを横目に携帯をいじりだした。
北野がやたら勧めてきてインストールさせられたゲームをやってみるが、すぐに飽きた。
邪魔だから消そうかと操作を続けると、携帯が震えた。また純花からの着信だった。
だが俺は今の状況で電話に出たくなかったので、反射的に拒否のボタンを押した。相手が誰であろうと関係がない。
箸を置いた母が、今度こそテレビを消した。代わりに、小ぶりのノートパソコンを立ち上げる。
とたんにリビング全体が静かになり、ときおり母がカタカタとキーボードを打つ音だけが響く。
俺は自分の部屋に引き上げようと思って、立ち上がった。
「朋樹」
母が俺を呼び止めた。
珍しいことだ。嫌でも足が止まる。
「もう半分、終わったけど……どうするか、考えてるの?」
質問は端的だった。
余計な会話はあまりしない人だ。
だがそれだけでも、母が何を言わんとしているのか十分理解できた。
「いや……別に」
「そう」
無機質な声が返ってきた。
怒っているのか、呆れているのか。
そのどちらでもない気がした。
「別になんか……スーパーの店員でもいいかなって」
「朋樹がそれでいいなら、別にいいと思う。なんにしろ、後悔のないようにすればね」
俺は母の反応を伺うため、思ってもいないことを口走った。
さすがに怒るかと思ったが、口調はいぜんとして冷めたものだった。
「つうか、進学するにしても……どっちにしろ金、ないし」
「お金があったら、したいの?」
「いや……」
母の素早い返しに口ごもってしまう。
本当は何も考えていないだけだった。ある時を境に、何事もやる気がなくなった。やりたいこともなにもない。
それを環境のせいにしようとしたのを、見透かされたのかもしれない。
だが金が無いというのも事実だった。
「まだ……わからない」
俺は母の顔を見ずにそれだけ小さく口にすると、逃げるようにリビングを後にした。
二階の自室に戻る。
携帯をベッドの上に放って寝そべると、ブーブー、と小さく振動音がした。
再び携帯を手にとって確認すると、メッセージが来ていた。
『電話、でて。おねがい』
純花だった。
どうするか迷っていると、再度携帯が震えだし、着信を告げた。
俺はなぜか苛立っていた。
それが先ほどの母とのやりとりのせいなのか、こうしてしつこく電話してくる純花のせいなのか、自分でも釈然としない。
だけど今現在、俺を急かすように、責め立てるように鳴り続ける呼び出し音がとても不快だった。
俺は、半ば湧き上がってきた怒りに任せる形で通話ボタンを押した。
『もしもし……?』
「なんだよ」
おそるおそる呼びかけてくる純花の声に対し、俺はぶっきらぼうに答える。
『あっ、ご、ごめんね? しつこく電話して……』
「……ああ、それで?」
『あ、えっと……ごめんね、今日、休んじゃって……』
別に俺が謝られるいわれはない。
休みたければ勝手に休めばいい。
そう頭に浮かんだ言葉が口をついて出かけたが、すんでのところで飲み込んだ。
俺が黙っていると、間を嫌ったのか純花が一人で続ける。
『何も言ってなかったから、ともくん心配してるかなぁ、って思って……』
「……なんで休んだって?」
俺は純花を遮って尋ねる。
さっさと電話を終わらせたかった。
だがその意図に反するかのように、純花はたっぷり間を開けてから言った。
『……ちょっと、体調が、悪くて……』
「風邪か? 電話なんてしてないで、薬飲んでさっさと寝ろよ」
わざと冷たく突き放す。
虫の居所が悪かったおかげもあり、すんなりと言葉が出た。
それきり電話を切ろうとすると、
『待って!』
受話口から飛び出た結構な音量が、耳を突き刺した。
携帯を耳に当てた手が、ギクっと固まる。
『ともくんひどいよ……』
今度はうってかわって、小さく聞き取りにくい声。
だが俺は耳を離すことができず、携帯を押し当てたまま息を呑む。
『あたしは……あたしは誰にも言ってなかったのに……ともくんは、秀治くんに言ったんだね』
その言葉の意味を理解するのに、さほど時間はかからなかった。
なぜなら、こうなるかもしれないということは、俺の中にすでに想定としてあったからだ。
その予感が当たっただけ。
やはり秀治は、俺たちが別れるつもりである、ということを純花に確認したのだろう。
覚悟はしていた。責める純花の口調にも、俺はあくまで態度を崩さない。
「……それが?」
『秀治くんに言ったら、何とかしてもらえると思った?』
「何をだよ? 俺が秀治に何か頼むとでも? ……お前、秀治と話したのか?」
『……うん。昨日の夜、電話で……。秀治くん、ちゃんと私の話聞いてくれたよ? 色々、気にかけてくれて……。ともくんとは大違いだね』
「……そりゃ、よかったな」
『秀治くん優しいよね。いつもみんなの中心にいて、気遣いができて、人望があって……本当すごいよ。そりゃ女の子からもモテるよ」
何をいまさら、わかりきったことを。
傍目には、俺と秀治は同じ人種に見られがちだが……俺とあいつは根本的に違う。
秀治は本当に、文句のつけようのないヤツだ。それは認める。認めざるをえない。
それでも、こうして誰かがアイツを褒めるたび、心のどこかで反発しそうになる。
それはただの嫉妬、と言われればそれまでなのかもしれないが……。
だが次の瞬間、俺は自分の耳を疑った。
『でもあたしは、あの人のこと嫌い』
純花は、これまで聞いたことのない平坦な口ぶりで言った。
純花が誰かを嫌いだとか、そういう類のことを口にしたことはこれまで一度もない。
工藤や小林がウザイ、というのなら気に留めることもないが、その相手が秀治となると話は別だ。
「……お前それ、どこでも言ってんのか?」
『まさか。秀治くんのこと、そんな風に言ったらどうなるかなんて……ともくんが一番よくわかってるでしょ?」
秀治は自分が陰口を言われるのを極端に嫌う。
敵だとみなした相手には、とことん容赦がない。
まあ実際はそのほとんどが、敵にすらならないが……。
『あ、でもともくん、心配してくれてるんだ? うふふ、うれしいな』
純花の声が、急に弾みだした。
先ほどとはうってかわって、声音に情感がこもっているのが不気味だった。
『ね、明日休みだしデートしよ? ともくんの好きなところ、どこでもいいから!』
「……体調悪いんじゃなかったのかよ」
『なんかともくんとしゃべってたら治っちゃった! もう元気元気! ……あ、出かけるの嫌だったら、ともくんの家でもいいよ? あたし、行くから!』
「ふざけんなよ、勝手に決めんな……」
『じゃあまた、部屋で二人で……ね?』
電波越しにでもわかるような、艶のある吐息。
それがひどく俺の神経を逆なでした。ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
俺はそれ以上言葉を発することなく通話を切り、そのまま携帯の電源を切った。
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