第22話


 バイトの休憩時間になった。

 

 休憩は、高山さんと一緒だった。

 俺たちは長机をはさんで、少し離れたパイプイスにそれぞれ腰掛ける。

 

 事務仕事をしている社員もちょうどおらず、事務所には二人きりだ。

 柏崎なんかは、こういう時気まずいからどこかに逃げる、とかなんとか言ってたが、俺としては他の人間と休憩が被るよりよっぽど気楽だ。

 高山さんは基本、こっちから話しかけない限りは向こうから話題をふってくることはない。

 だから話したくなければ、何も話しかけなければいいだけのことだ。

 聞いてもいないのに興味のないことを延々と話してくる奴らより、はるかにマシ。

 それに高山さんが黙っているのは、コミュ障で会話ができないというわけではなく、単純に気を遣ってるだけだと思う。

 

「今日、けっこう忙しいっすね」

「そうですね、今時期は飲料が売れますし、穴だらけですからねぇ。なんとか時間内にストック補充とエンドの展開まで終わらせたいですけど」


 その証拠に、こうやって話題をふるときちんと返ってくる。

 俺が話しかけたのも別にこれといった意図はない。なんとなくだ。


「あの、前も言いましたけど、別に俺に敬語とか使わなくいいっすよ」

「はは……いやぁ、早坂さんだけですよ、そうやって言ってくれるのは。でもいいんです、これで統一したほうが楽なんで」

「はあ……」


 高山さんはそう言って軽く笑い、痩せ気味の体をすくませる。


 この人は俺より二回り近く年上だし、ここでの勤務も俺より長い。

 俺にしてみれば敬語を使われる言われはないのだが……今のですんなり納得できた。

 単純に人によって使い分けるのが面倒なのだろう。言葉遣い程度に、余計な神経を使いたくないという意思が見て取れる。

 そういう理由があるなら俺が意見することもないと、それ以上つっこまずに話題を変える。


「なんか最近忙しいし、マジでやってらんないっすよね。時給が変わるわけじゃないし……」

「いやぁ、はは……。でもまあ、たとえ時給900円でも、働けば確実にお金が入ってくるってことはいいことですよ。私が独立して自営をやっていたころは、いくら働いても必ず収入になるなんて保証は、ありませんでしたから」


 予想外の返答が返ってきて、とっさにあいづちに困る。

 てっきり木下や柏崎なんかと同じように、高山さんも同調してくると思っていたからだ。

 俺がなんて返せばいいか言葉に詰まっていると、高山さんは手で身振りを交えて、頭を下げてくる。


「あ、すみません、なんか説教っぽくなってましたかね、はは……これだからおじさんは……」

「いやそんな、謝らないでくださいよ、別に、俺は……」


 高山は空気読めない、だとか木下あたりに陰口を叩かれているのを、やはり知っているのだろうか。

 だが俺はそうは思っていないし、木下は自分の意に沿わないことを言う奴をそう呼んでるだけだ。

 俺は思わずそれをそのまま口に出してしまいそうになるのを、なんとかこらえた。

 それでも何かしか言ってやらないと気がすまなくなっていた俺は、代わりに誰にも話したことない自分の考えを口にしていた。


「……実は俺ここのバイト、やめようかと思って。さっきあんなこと言っといてなんですけど、仕事自体は嫌いじゃないんです。時給だって高校生のバイトならそんなもんでしょうし。ただ、他がちょっと面倒で……それって変ですか?」

「いえ、変ではないですよ。むしろ、一番多い理由だと思います」

「高山さんはここ、いつまで続けるんですか?」

「私は……この年になると、よそでイチからというのはなかなか厳しいですからね……。他にもかけもちはしてますが、これ以上収入が減るのは厳しいので、しばらくは……」


 高山さんは目線を落として、うーん、と大げさに首をうなだれてみせる。

 バカなことを聞いたと思った。俺みたいにちょっとした小遣い稼ぎ、なんてノリじゃないのはわかっていただろうに。

 年下のガキがウザイからやめる、なんて選択はできないに決まっている。

 一瞬空気が暗くなりかけたが、高山さんはすぐに顔を上げて、再び笑顔に戻った。


「でも早坂さんなら、どこに行っても大丈夫ですよ。本当、仕事の覚えが早いし、要領もいい。若いのにすごく頑張っていて、素晴らしいと思います」


 上からの物言いではなく、真摯に他人のことを評価する言葉。

 それは単純に迷っている俺を、勇気付ける意図があって……。



 ――うまくなったなぁ、本当に朋樹は頑張り屋さんだ。


 その時、突然脳裏にフラッシュバックする。

 優しく語りかけてくる、あの人の声が。

 

 ――すごいぞ朋樹、今日は大活躍だったね。

 

 優しく頭を撫でてくれる手の感覚が。

 優しく見守ってくれる屈託のない笑顔が。

 

 あの頃の、満たされていた時の気持ち。

 すごく、嬉しかった。

 とても心地よくて、幸せで……。

 

 

 

 ……違う。

 騙されるな。

 あれは嘘だ。

 全部、嘘だったんだ。

 

 頭の中が黒く染まっていく。

 生まれた黒いよどみは、血液のように全身を駆けめぐり、激しく胸を締め付ける。

 痛みに耐え切れなくなった俺は、行き場のなくなった黒い感情を吐き出すように、ひとりでに口を開いていた。


「……俺のことはいいんですよ、どうでも」

「え?」

「それよりも、高山さんのほうこそそんなんで……大丈夫なんですか?」


 得体の知れない黒い渦が、メチャクチャに思考をかき乱してくる。

 これから自分が何を言うつもりなのかも定かでないまま、勝手に口が動いていた。


「高山さんって独身ですよね。結婚とか、考えてないんですか?」

「あ、ああ……実は私一度離婚、してまして、しばらくそういう気には……」

「離婚ですか。子供はいなかったんですか?」

「ええと一人、息子がいたんですが……妻のほうが引き取って……。いやはや、息子とさほど変わらない年の子に、心配されるのは本当、情けないです……」


 責めるような俺の口調に、高山さんは少し驚いた顔をした後、申し訳なさそうに目線を落とす。

 それを見てもなお、俺を突き動かす謎の衝動は止まらなかった。


「息子さんとは今も会ってるんですか?」

「いえ、最後に会ったのは、しばらく前ですかね……はは……」

「息子さんは高山さんのこと、どう思ってるんでしょうね」


 そんな言葉が口をついて出ると、高山さんは苦笑いをしたまま黙ってしまった。

 いつしか頭の中は真っ白で、バクバクと心臓が嫌な音を立てて止まらない。


 

 事務所内に、沈黙が流れる。

 張り詰めた空気の中に、店内放送の陽気な音楽が漏れ聞こえる。

 その間俺は荒くなった呼吸を必死に抑えながら、長机の木目をじっと見下ろしていた。

 

「……あの、早坂さん?」


 やがて高山さんは、いつもの声の調子で俺の顔を覗き込んできた。

 俺の暴言に腹を立てた様子はない。ただ心配そうな顔で、見つめている。

 俺はそんな高山さんの顔を見て、はっと我に返った。

  

 俺は……何を言ってるんだろう。

 俺は一体何を……。


「いや、今のは……」

「大丈夫……ですか?」

「ご、ごめんなさい、俺……。すいません、ちょっと、トイレ行ってきます」


 俺はガタっと勢いよく席を立つと、逃げるように裏口のドアから外に飛び出した。

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