第2話


 その翌日。

 朝から俺は最高に機嫌が悪かった。長い休みでだいぶ夜型にずれこんでいた体は寝不足。

 九月になったというのに、朝からやたら暑くてすでにシャツが汗でべとつく。学校へ向かう道すがら、俺は何度も頭の中で舌打ちを繰り返していた。

 今日は半日で終わりだが、明日から通常通り授業が始まると思うと、もはや憂鬱を通りこして苛立ちしかない。

 三十分ほど混雑した電車内で立ちつくして、やっと学校の最寄り駅に降りたった時、このまま向かいの電車に乗って帰ってやろうかとすら思った。

 

 きっと今の俺は赤の他人が見ても一目でそれとわかるほど、相当不機嫌オーラを発していることだろう。

 俺の機嫌が悪い時は極力近寄りたくないと、周りのヤツらも言う。こういう時はあれこれ話しかけられたくないので、こちらも望むところと不機嫌を隠すことはない。

 駅のプラットフォームから階段を上がってくると、気分をリセットする意味もこめて、やや細い通路の先にあるトイレに入った。

 

 トイレに入ってすぐ、どこの学校か知らないがバカそうな男子生徒二人組が、洗面台を占領している姿が飛び込んできた。

 水をジャージャー流しっぱなしにして、大声でゲラゲラ笑いながら鏡の前で髪をしきりに気にしている。

 そのおかげで二つある蛇口の一つが使えないので、手を洗って出て行く人の邪魔になっていた。

 

 二人組は俺が用を足して出ようとするときもまだやっていた。

 去り際に軽く睨みつけると、向こうもガンを飛ばしてきたので、俺はいっそう不機嫌になった。


 やりどころのない怒りを覚えたままトイレを出て通路を曲がると、突然二の腕のあたりに強い痛みが走った。

 何事かと顔をしかめると、バランスを崩して通路の壁に手をつく人影があった。どうやらこいつの肩が俺の腕に当たったらしい。

 女子だ。うちの制服、長いスカート。もっさりとした黒髪に、メガネ、マスク。

 そんな相手の姿形をざっと見て取った俺は、反射的に口走っていた。


「痛ってぇーなコラ!」


 これまで溜まった鬱憤をぶつけるように、怒鳴りつける。

 なにを急いでいるのか知らないが、実際、結構な勢いでぶつかられた。

 仮に機嫌のいい時だとしても、果たして怒鳴らずにいられたか。


 あせってどもりながら小さい声で謝るか、無言で逃げるか。こういうい場合、この手の輩はほぼこの二択しかない。

 だが女子生徒の反応は、そのどちらでもなかった。あろうことか、真っ向からこちらを見上げて俺を睨み返してきた。


「……どいて」

「あ? なんだ……」

「いいからどけ!」


 鋭い語気と、メガネごしの異様にでかい瞳が俺を射抜く。

 一体なんだというのか、凄まじく必死な形相だった。

 その勢いに押され、俺の体は硬直する。 

 

「ふ、」


 ふざけんな、が出てこなかった。あまりの想定外の反応をされて、うまく声にならなかった。

 どう見ても悪いのは向こうだ。謝られることはあれど、逆ギレされる言われはない。

 俺が固まっていると、女子生徒はするりと横を抜けて、小走りに行ってしまった。


 なんだよあれ、マジかよ。ああ、頭やべーやつか。

 今のはビビったんじゃなくて、予想外の反応に驚いただけ。

 大体あんな顔でいきなりどけ、なんていわれたら、誰でも驚くだろう。

 

 などと考えながら、そんな言い訳をしている自分に気づく。

 キレる相手を選んで、下に見たはずのヤツに逆に凄まれて固まってしまう。

 それも170後半はある自分の身長より、一回り小さい相手にだ。


「だっさ……」 


 俺は急激に冷めていた。さっきまでの不機嫌や怒りも、どこかに消えてなくなっていた。

 そしてかすかに手汗のにじむ手を握りしめて、改札のほうへ歩き出した。

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