僕らの恋は酒の味がして

北金 智雨

1杯目「ビールその①」

午後23時過ぎ、ようやく仕事から解放された俺はいつものように定期を片手に最寄り駅へ向かう。靄がかかったような頭で、鉛が付いたように重い体を引きずっている行ける屍。1人夜の通りを歩く土曜日。明日はようやく日曜日。つまりフリーな日だ。この疲労感には睡眠が一番の薬だということは百も承知だ。だが……


「酒……飲みてぇなぁ……」


明日が何もないということは、別に終電で帰る必要は無いのだ。適当に始発近くまでやっている店に転がってしっかり酔うというのも今の死に体の俺には必要なことではないだろうか。逆に今日はそれが許された唯一の日でもある。夜も遅ければ、朝も早い毎日。酔う程酒は飲めていない……決めた今日は飲むぞ。


握りしめた定期をすっと鞄にしまうと、俺は飲み屋の方向へと足先を向け直し歩き出した。


行きつけの店と呼べる店はない俺ではあるが、多少通い慣れた店はある。最寄り駅から反対側へ、路地を一つ抜けて右へ。その先に規模は小さいが揚げ物が旨い飲み屋がある。あそこはたしか……2時過ぎまではやっている筈だ。どうしてもあそこの唐揚げが食べたい。始発までの時間は過ごせないが仕方ない。そう思った俺ははしご酒することを決め、一軒目をそこに決めた。


先程まで屍だった俺だが楽しみを見つけると多少は体が軽くなってしまった。我ながら単純な人間だ。しかし唐揚げのじゅわりと広がる肉汁と、サクサクの衣とちょっと濃いめの塩味……そこにビールを流し込むのだ。これはもう犯罪級だろう!想像しただけで垂涎ものだ。

そんなことを考えているとあっという間に店の前に着いてしまった。

ちょっとした建物の小さな入り口をくぐり階段を上り二階へ。すると木で造られた和式のスライド式のドアが見えてくる。

店の暖簾と明かりを確認してさっそく店へ入った。先にある小さな幸福に期待を抱きながら。


ガララ、と扉が開く。


「いらっしゃいませー!……って先輩じゃないですか!!」


若い女の店員を出てきたかと思えば、彼女は俺を先輩と呼んできた。ん?……確かに見覚えがあるような……


「お前……宮下か?」


「そうですよ!先輩が大学卒業して以来ですね……まぁ、ここで話すのも何ですし中へどうぞ!」


二年ぶりに会う後輩に導かれ俺は飲み屋の暖簾をくぐった。



「「乾杯!!」」


「元気でしたか?……やっぱり仕事……忙しい感じですか」


「まぁそれなりに」


「ふぅん」


ビールとジンジャーエールで乾杯した俺らは他愛のない話を始めた。こんな遅くまで働いている彼女は、今更ながらにもらった休憩時間と賄いを利用して俺と相席している。閉店業務も任されているからと酒に手を出す素振りは見せず、俺の話に相槌を打ちながらに賄いに舌鼓。栗色の髪を一つに纏めている飼い主の前にいる犬のように人懐こい笑顔を見せる彼女は宮下華奈。俺の大学の頃の二つ下の後輩だ。

俺はかつてその大学の経済学部に所属していた。そして彼女は文学部だった。文理の壁こそないが、大学内の他学部というのはまず関わることはない。そんな一見関わりを持ちそうにない彼女と俺とを繋げるきっかけになったのがサークルだった。


「懐かしいなぁ……沢山一緒に演奏しましたね……」


「……そうだな」


「覚えてますか?先輩の卒業前最後のライヴの時のーー」


宮下は楽しそうに俺とのサークルの思い出話を語る。そう俺は軽音サークルに所属していた。俺がギターボーカルで、こいつがベース。好きなジャンルがお互い所謂ハードロックってやつで何かと気が合いバンドを組んでいた。こいつのベースに合わせて弾いて、歌って。思い出すと胸の辺りで何か熱いものが込み上げてきた。


「ーーそれで、先輩が急にアドリブ入れるから必死に合わせたんですよね私。覚えてますか?」


「もちろん」


忘れる訳がない。あの日のことは曲のセトリから自分の機材のセッティングまで全て覚えている。何といっても俺が大学生活の全てを捧げたといってもいいライヴだ。客は手を挙げ、声をあげ、俺は光に照らされている。赤、青、緑、黄色、白、紫……目まぐるしく代わる照明と、会場を包み込む、体も頭の中も燃やしてくれる熱気。ふと客から目を離し、メンバーを見ると笑いながら俺を見つめてくれる。あの一体感。高揚。全てが一つになるあの感じ。最後の音が切れて、挨拶して、歓声貰って……そして、終わった後の今日で終わりだと泣き合った控室。その後の打ち上げ。何杯も飲んで、いつもの何倍も酔って……それでも結局最後まで泣いたっけ。


「本っ当に……楽しかったなぁ……。あの頃は最高でした」


「……そうだな」


「また先輩としたいな……」


「ありがとよ」


そうこうしてる内に俺のもとに件の唐揚げが来る。それにかぶりつくかどうかというところでアイツがしゃべった。


「もう……歌わないんですか?」


俺は箸で掴んだ唐揚げを皿に戻して、代わりにジョッキを掴んで中身を飲み干した。そしてーー


「もう……歌う気はねぇよ」


ーー短くそう切って捨てた。

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