リトルシングス

@yappi123

第1話 生者奴隷

 一月の最終週。

 気温が一桁を下回る極寒が続く冬も最中。多種多様な防寒着を着込もうが、寒さの猛威から逃れるには厳しい日々が続く。

 可能な限り外出を控え、出不精よろしく自宅に引き籠り暖房器具で温まっていたいこの頃であったが、僕こと大里綾瀬おおさとあやせは大学に通う学生の身分であるため、それは儚き願いと散ってゆくのであった。

 さらに付け加えれば、今月の最終週は二学期のテスト期間であり、我が身可愛さに自宅の布団に潜り続けていれば、大学生活が詰む。

 そんな生活と自然環境の試練を今日で乗り越え、晴れて春休みに突入した僕は、バイトの帰り道に近所のコンビニへ立ち寄った。

 ……結局は艱難辛苦を突破しようと、褒美を享受できる訳でもなく、いつも通りに夕飯を調達し、細々と帰宅するだけである。

 入店すると自然と雑誌コーナーに足が向いてしまうのは最早癖だった。読んでいる漫画の単行本は本誌でも追いかけてしまう性格である。

 「あ、」

 漫画の週刊誌の表紙を見ていると、冊子がゴムで縛られていることに気づいた。先週まではこのような細工はされていなかったが、立ち読み防止の手段であろう。

 少し肩を落とした。

 卑しい性格をしている自分に胸中で嘆息する。さっさとこの場を離れようと思ったそんな矢先、視界の端で気になるフレーズを捉えた。

 それは世間のニュースを纏めた週刊誌で、表紙の上方部分に——日本で復活した現代の切り裂きジャック。殺人事件の行方。と記してある。

 なんと安っぽい文句だろう。

 普段なら興味すら湧かないが、この日は多少なり接点があったので、僕はそれを手に取り頁を捲っていく。この週刊誌は立ち読みする人がいないからか、他と異なり細工が施されていなかった。

 目当ての頁に到達すると思わず読み耽ってしまった。

 内容を概ね整理すると、

 ——今回で四件目となった縦砂市の殺人事件は過去の例に漏れず、犯人は家内へ侵入し一家全員を殺害。リビングの窓が割れておりそこから侵入したと思われる。家内はひどく荒らされていたが、またしても金品などが奪われた形跡は非ず、愉快犯と推測される。凶器は現場に落ちていた果物ナイフと判明。指紋は確認されず。その他にも犯人特定に至る痕跡は一切発見できず、依然として警察の捜査は難航している。

 こんなところだろう。

 数分で掲載部を読破し顔を上げると、遠巻きに視線を感じたので振り返った。そうすると、レジに立っていた中年男性の店員がこちらを酷く睨んでいたので、素早く雑誌を元に戻してその場から離れた。

 食品コーナーへ逃げ込んだ僕は、当初の目的であった夕飯調達を完遂する傍らで、件の事件について思案して見た。

 事件の発生地である縦砂市とは僕が生活している街であった。犯行内容は四件共に同様で、なによりこの事件の肝は犯人が全く不明な点である

 現場からは犯人特定に繋がる証拠は見つからず、人物像や動機すら予測がつかない。だからこそ、国境を跨ぎに跨ぎまくって切り裂きジャックの再来などとイギリスから遠く離れた日本で言われている。

 だが、殺害人数もその凄惨さもこちらが圧倒的でより残虐だった。一件目の被害者の遺体には刺傷が計五十ヵ所もあったという話しだ。二件目以降、被害者の状態は報道されなくなった。

 そんな悪鬼の足取りは判然とせず……、

 「この事件は犯人が直接殺している訳じゃないから、警察じゃ犯人を逮捕することはできないだろうな」

 バイト先のオーナーである芦谷あしやさんは、優良との会話の最中にそんなことを言っていた。僕には二人の会話内容の半分以上理解することはできなかったが。

 だから、この事件はそっち絡みということなのだろう。

 ……そんなことより、晩御飯の献立が悩ましい。嘆かわしいことに、貧乏学生であるため節約の精神で考えなくてはならない。

 悩んだ挙句に毎度購入する辛味噌麻婆麺とおかかおにぎりに決めた。

 レジでは先程の中年男性から不愛想に接客され会計を済ませた。胸元のバッジを一瞥すると、金色の枠縁に飾られて、中央に名前が記してあった。その左上には店長と添えられていた。

 

 二ヵ月前、芦谷さんのつてにより、アパートの一室を格安の家賃で借りることができた。

 ようやく念願の一人暮らしを始めた学生の自宅というのは、最低限の生活必需品及びライフラインが整っていれば、しっかりしている方ではないだろうか。

 僕の場合、ガスと電気、水道。湯を沸かす鍋に、まともに睡眠をとれる布団がある。そして贅沢なことに、一人暮らしのお祝いとして、処分する予定だったバイト先の事務所のテーブルと椅子を、芦谷さんに押し付けられた。

 テレビや洗濯機なんていう家電三種の神器など揃える余裕はない。……原因としては親とほぼ絶縁状態であるため、一切の仕送りを絶たれていることにある。

 光熱費や水道代、その他諸々の支払いを済ますと、口座の残高は悲惨な状態に陥る。そんな苦しい日々を凌ぐ僕にとって、コンビニのカップ麺は食事の生命線と言えるのであった。

 沸かしたお湯をキッチンで注いでいると、ラインの通知音が鳴った。

 画面には『優良ゆら』と表示され、新着メッセージと添えられている。

 急いで手に取ると、素早くスクロールして通知を開いた。

 『夜ご飯食べに行こ』

 簡潔な文を読んで、溜息交じりに言葉が漏れた。

 「もう少し早く言ってほしかったわ」

 不満を吐露しながら、カップ麺の蓋に液体スープを乗せてリビングのテーブルへ運ぶ。だが、所詮液体スープに蓋を支える重量は存在しないため、割りばしで器用に蓋の開け口を挿んで固定する。

 通常より二分も長い待ち時間を要求してくる生意気なカップ麺が出来上がるのを待ちながら、僕は心境とは裏腹な文を返信していた。

 『いいけど、場所は?』

 送信と同時に既読がつく。

 どうやら優良は僕とのトーク画面を開きっぱなしのようだった。

 『近場がいい』

 『じゃあ杉屋のファミレスは?』

 『いいよ、何時に来れる?』

 眼前で出来上がりつつある晩飯を眺めながら黙考する。

 『9時半かな』 

 『わかった』

 連続して文が送信されてくる。

 『じゃあまた後でね』

 手短にやり取りを済ませると、スマホは静かになった。

 そうして、僕は嘆息する。

 当然だが外食に費用を回すなんて贅沢な所業はできない。

 それが叶うのならば、毎日カップ麺生活なんて不摂生なことはしていない。

 悲嘆な金銭事情を考えながら、ツイッターとインスタをサーフィンする。 

 これから夕飯を食べ始めるとこだったとか、預金が底をつきそうだとか、結局はそんなこと関係ない。どんなに事情や建前を並べようと、所詮はその感情の前に瓦解するものだと僕は思う。

 通知が届いた瞬間の胸の高鳴りには敵わないのだ。

 そうして、おかかおにぎりは明日の昼食に早変わりした。朝食は摂らない派である。賞味期限は早朝までだがきっと問題ないだろう。

 箸を割って、カップ麺の蓋を勢いよく剥がし液体スープを注いだ。軽くかき混ぜ麺をほぐすと、そのまま掴んでずずっと吸い上げる。

 麺は少し硬かった。生意気なんだよ、五分も待ってあげない。

 

 

 杉屋駅。ファミレス前。

 黒のトレーナーに同色のズボン。その上に茶のロングコートを着込んで、待ち合わせ時間の十分前に到着した。

 ここら周辺は商店街で、夜になると酔っ払いが増加する。居酒屋はこれでもかと軒を連ねており、学生や会社員らで溢れていた。

 さらに最近では、駅に併設された商業施設の階段前で路上ライブをやっていたりと、意外にも活気がある街である。

 冬の寒さと歌に当てられながら彼女の到着を待つ。

 待ち合わせ相手、華月優良はならぎゆらは時間ぴったりにやってきた。

 「寒い、早く中入ろう」

 優良はそそくさと店内に入って行く。僕はそんな彼女を観察しながら後を追う。

 肩口まで伸びた黒髪、整いすぎた可憐な顔。白のコートを羽織い、下はカーキ色のスカートを穿いている。靴は黒のブーツ。

 身長は平均的で、男性なら誰でも見惚れるようなそんな女の子だと思う。

 だから本当に彼女の誘いを無下に断るなんて選択肢は端から存在しないのだ。

 店員に案内された席に着いて、優良は早速メニュー表を開いた。

 「お腹すいた、どれにする?」

 忙しなくコートを脱ぎながら、上目遣いで彼女は僕を見る。コートの下は白を基調とした花柄の襟付きシャツに黒のベストを併せたお洒落な格好をしていた。

 全身が真っ黒人間である僕とはセンスが雲泥の差で引け目を感じる。

 僕はメニュー表を見ないで答えた。

 「ハンバーグステーキかな」

 「決めるの早っ、ちゃんと悩んだ?」

 「サイドメニュー以外で一番安いのこれだから」

 それに、カップ麺をまだ消化しきれていないし、これくらいが調度いい。

 「貧乏学生」

 「しょうがないだろ、学生の一人暮らしなんて最初はそんなもん」

 優良はこういう時優柔不断なのでかなり時間を要する。数分メニュー表と睨み合った末、アラビアータに落ち着いた。

 ドリンクバーを注文し、飲み物を注いで要約一段落着く。

 「テストどうだった?」

 烏龍茶が注いであるコップに口を付けながら優良が聞いてきた。

 「微妙かな、マクロとかミクロとか単位取れてるか怪しい。あと英語も」

 言ってオレンジジュースを口に含む。

 「優良は?」

 「完璧。『A』が幾つ貰えるかはわからないけど」

 「へぇ、それじゃ、単位落としたら夕飯奢って」

 「えー、なんで。てか、単位取れるか取れないかなんて、だいたい見極めつくでしょ。むしろ、フル単取れそうかなって分かってるのに危ういとか保険掛けたら嫌味じゃない。それふまえた上で、実際はどうなの綾瀬は」

 「……そう言われると、取れてると思う」

 「ふうん、じゃ取れてなかったら夕飯驕りね」

 「なんでそうなるんだよ」

 「そもそも、私だけそんな条件って不公平すぎると思う」

 「じゃあやめよ」

 「うーわ、せこっ」

 「貧乏学生だから」

 「せこせこせこせこせこ、けち」

 注文したハンバーグステーキとアラビアータが運ばれてきたので、本日二度目の夕食に舌鼓を打った。今晩は久しぶりに腹が膨れそうな気がする。

 そうして、食事と与太話をしているうちにふとスマホ画面を覗いたら、時刻は二十三時に差し迫ろうとしていた。

 追加でティラミスを注文した優良が、食後の珈琲と共に口腔内を苦味で満たしていたところ、タイミングを見計らって声を掛けた。

 「そろそろ出ようか」

 「あ、もうそんな時間か」

 僕は頷いて、伝票に手を伸ばしたその時、

 「綾瀬、この後暇?」

 彼女はテーブルに頬杖をつき可憐二重瞼で見つめてきた。そして口角が吊り上がる。

 その仕草にドキリとする。

 魅惑、魅了、誘惑。その表情にはこれらの単語全てが凝縮されていると思う。

 「なんで?」

 「明日から春休みなんだし、帰りが遅くても大丈夫でしょ」

 それは答えになっていない。

 理由であって目的ではない。

 「行きたいところがある、着いてきてよ。どうせ暇でしょ」

 にやりと笑っている。

 凶器的で猟奇的だ。

 優良はそうして僕に幻想を抱かせる。

 「わかった」

 そして、彼女はそれを叶えてくれる。

 

 大通りを歩いている。

 もうじき日付を跨ごうとしているが、車道の交通量や歩道を行き交う人々の数はそれなりにあった。

 仕事終わりの会社員に飲み会後の若者。その他にも、歩道にまで客席を広げた居酒屋なんかがあり、その席で宴会をしている集団は寒空の下で身体を火照らせていた。

 だがそれも住宅街に入れば途端に居なくなる。

 足音が反響するほどの静謐、街灯の微かな明りに照らされながら歩を進めていく。

 優良はスマホを覗きながら先頭を進む。

 僕は黙ってその道筋に従うだけだった。

 胸の鼓動は、段々と早さが増していく。

 恐らく、この先に待ち受けていることに期待して、それに興奮している所為だ。

 「連続殺人事件ってわかる?」

 唐突に優良が聞いてきた。

 静寂の場で放ったその言葉は、遮られる雑音など存在せず、僕の耳に刺さるように触れた。

 顔はスマホ画面に向いたまま、彼女はファミレスを退出してから初めて口を開いた。

 僕は縦砂市で発生している件の事件のことだろうと認識した。

 「うん、知ってる。昼間、優良と芦谷さんが話してたし、なんなら、コンビニで週刊誌を立ち読みまでした」

 縦砂市に住む人間なら全員は知っているだろうなと胸中でぼやいた。

 すると、優良は顔を上げて目を見開き、驚いた様子で振り返り立ち止まった。

 「え、立ち読みしちゃうほど興味あったの」

 「ん、さすがにあれだけ会話が聞こえたら気にはなる」

 「ふうん」

 優良は再びスマホ画面に視線を戻して歩みを再開する。

 周囲の住宅の大半は明かりが消灯しており、進む道は薄暗い。

 既に深夜だ。ほとんどの人間が眠りについている時間帯。なんて早い就寝時間だろう、もう少し夜更かししてみればいいのに。

 などと感想を馳せていると、再度優良が話しかけてきた。

 「じゃあ、犯人はどんなやつだと思う?」

 僕は懸命に記憶を手繰って、バイトのオーナーが言っていた言葉を反芻する。

 「犯人が直接殺してる訳じゃない……だから、魔術師?」

 魔術師なんて単語を会話で使うと、少し間抜けな感じがして恥ずかしくなる。

 「そうだよ」

 一拍空けて優良は続ける。

 「それで、私たちは今そいつのとこに向かってる」

 心臓がドクリと飛び跳ねた。

 優良は嘘をつかない。

 「まあ、より正確には、その魔術師の使い魔が飼育されている場所」

 「使い魔って例えばどんなの?」

 「えー……、ペット的な」

 「ああ、だから飼育か」

 「それは物の例え」

 半年前に知り得た事だが、優良は魔術師であった。

 魔術とは主に人間が到達しうる技術の過程を簡略化した代替品らしい。魔法とは明確な違いがあるらしく、魔法は人間では不可能な事象を可能にする奇跡であり、多くの魔術師の目標は己の魔術を魔法に昇華させること、と優良は言っていた。

 華月家は古くからこの土地に居を構える歴史ある魔術家系で、優良はその跡取りらしい。

 僕は普通の一般人。

 本来ならば一般人に魔術の存在を認知させることはタブーであり、それ故に僕は一度優良に殺されかけているのだが、それはまた別の機会に……、

 古くからこの土地で魔術の研鑽をしてきた華月の家系は、この土地に足を踏み入れた魔術師を取り締まる管理者の役割も担っているらしく、縦砂市で魔術絡みの事件が発生すればそれは彼女が処理する案件ということになる。

 つまり、件の事件も彼女の管轄ということだ。

 僕は優良に憧れていた。

 魔術は自由奔放で不可能を可能にする奇跡みたいだ。魔法に昇華させるという明確な目標もある。

 僕とは真逆だ。

 目的のない生活、将来の不透明さ、日々を無為に消化している気がして嫌気がさす。それでも何をしていいのか、何をしたいのか己で理解できていないから、周囲の環境が一向に発展しない。

 だから、憧れの隣に立つ。

 そうすれば、その一時はすべてを忘れられるから。

 「ここかな」

 優良が立ち止まった視線の先にはマンションが屹立していた。

 そこは真っ暗で人の気配が、生活感がまるで感じられない。

 そのマンションは廃墟化していた。

 

 

 「この事件は犯人が直接殺している訳じゃないから、警察じゃ犯人を逮捕することはできないだろうな」

 ニュース番組の報道を聞いていた芦谷は煙草を吸いながらポツリと言った。

 彼女が座っているデスクの上には幾つもの書類とビー玉のような球体で散らかっていた。

 私はその一つを手に取ってじろりと眺めてみる。

 真っ白な球体はその中心にさらに漆黒の球体を内包しており、その感触はぶにぶにとしていて気持ちが悪かった。

 「これは?」

 「見てわかるだろう。眼だよ」

 案の定予想していた回答が返ってきた。

 芦谷は紫煙を燻らせながら、

 「華月が持っているのは魔眼用で、えっとこれか……これが人形用の眼だな」

 言って、適当に拾った眼球を渡してきた。

 人形用と称するその眼球は硝子玉のように硬質であり、落とせば簡単に割れてしまいそうだった。

 魔眼用とは質感がかなり異なる。

 人間か人形、どちらに嵌め込むか、ハードウェアの違いに合わせているのだろう。

 ここは芦谷入央あしやいおの経営するドールショップの事務所兼人形及び魔術工房である。

 個人経営で人形専門店を営む彼女は、きりっとした凛々しい顔立ちで長い黒髪は一つ結び。華奢な体に長い手脚。青のジーンズに黒のニットをインしたシンプルな服装だが、抜群なスタイルと相まってモデルのように格好良かった。

 「これ、どの人形の眼になるの?」

 「んー、こいつかな」

 デスクの隣の棚から一体の女型の球体間接人形を持ってきた。球体関節人形とは間接部が球体になっており、自在なポーズをとらせることができる人形のことである。

 まだ胴と頭は別れていたが、胴は裸体で美しい女の線が出来上がっており、頭は顔立ちが綺麗に整っていた。

 「眼、入れてあげてよ」

 「嫌だが」

 「えー、なんで」

 「誰かに見られながら作業するのは嫌いなんだ」

 芦谷は人形をそそくさと棚に戻してしまった。

 「けち」

 仕方ないので悪態をつきながらソファに腰掛ける。

 「綾瀬も見たいよね、眼入れるとこ」

 「これやってるから」

 黒髪の青年はこちらに一瞥もくれずに答えた。

 秀でた特徴のない彼は、私の背後のデスクで事務作業を淡々とおこなっており、パソコン画面から目を離さない。なんだかイラっとする。

 「なにしてるの?」

 「ペティカが作ってた店のパンフレット途中だったから引き継いでる」

 「へー、珍しい、見せて」

 「お前は遊びに来たのか?」

 芦谷の声に制止させられた。

 彼女は私と向き合うようにソファに着席すると、咥えていた煙草を灰皿に押し付けた。

 「綾瀬、珈琲淹れてきてくれ」

 「わかりました……優良もいる?」

 「うん、」

 彼は珈琲メーカーのもとへすたすたと歩いていく。

 本来はこういった雑用が綾瀬のバイト業務の中心であり、デスク作業はペティカの担当である。

 「それで、今回の一連の事件、おまえはどのように推察する。華月」

 灰皿で鎮火された煙草のか細い煙を眺めながら芦谷は言った。

 一連の事件とは縦砂市で発生している連続殺人事件のことだ。

 土地の管理者として、この案件は私が取り締まらなくてはならない。

 「これは魔術師の犯行だ。では、その動機は? 華月は古い魔術家系だ。長い歴史があれば他の魔術師にその名を周知されることは明白。他人の土地を踏み荒してまで好き勝手一般人を殺す理由はなんだ?」

 彼女は訥々と疑問を列挙する。

 芦谷が言った通り、華月家は三百年以上の歴史を持つ古い家系だ。その家名は海を越えた先の魔術師も一度は耳にすることだろう。

 魔術師は勤勉であるから、魔術世界の情勢を常に把握している。

 それに、魔術師にとって一般人を殺すことはデメリットでしかない。

 魔術が一般人に漏洩する可能性があるからだ。

 基本的に魔術は隠匿されており、それは、世間にとって魔術師という存在は危険であり、逆もまた然りであるからだ。

 魔術師は少数であり、そして魔術は代替品だ。

 他者を隔絶した超越者という印象を抱くだろうが実際はそうではない。

 例えば、火を操る魔術はライターを使えばいい。水を操る魔術なら水道を捻ればいい。電機は発電できる、風も同様。魔弾は銃で事足りる。

 つまり、魔術で成し得る事象そのほとんどは、既に人類史が追い越しているのだ。魔術は過去の産物。人類の技術力の発展速度は凄まじい。

 簡単に言うと集団の暴力や現代銃器には敵わないのである。

 それでもやはり魔術は未知の側面が多い。

 未知は恐怖であり必ずそれは排斥され淘汰される。

 その主だった事例が魔女狩りであったりする。

 そういった歴史を危惧する魔術師は無暗に人を犯す行為をしないのだ。

 だから——。

 「余程の無智か、そうするしかなかったか……それとあまり考えたくないけど、単に喧嘩吹っ掛けられているか」

 この辺りだろう。

 「魔術師は夢追いの連中だ、闘争に意味を見出すやつは稀だろうな。それにそれが目的ならおまえの家に直接殴り込みに行けばいい、回りくどすぎる」

 「うん、それに無智でもない。それなら、遺体に必要以上に刺傷を残さない」

 「報道規制か」

 「うん。市民の不安を煽らないように、凄惨すぎるこの事件は報道規制が敷かれている。そのせいで、私は気づくのが遅れた」

 私が調べた限りで被害件数は報道されている件数の倍以上だった。

 報道された一部も恐らく規制を敷くことが難しくなりやむを得ず報道したのだろう。

 「他の工作も人間味を演出するためだと思う。だから、そうするしかなかったが理由」

 「ふむ、土地の管理者の目を盗み、人を殺すしかなかった、か」

 「……手負いの魔術師?」

 魔術師であること隠す、また犯行に勘づいてほしくない、ということは何か準備しているのだろう。

 デメリットを負ってまでしなければならない準備。恐らく可及的。

 つまり、回復だ。

 「ふうむ」

 「珈琲淹れましたよ」

 ここで綾瀬が戻ってきた。

 「ご苦労」

 彼は、小さな人形の柄模様が入ったカップに珈琲を注いで配膳してくれた。

 不思議の国のアリスみたいな女の子の人形でめちゃめちゃ可愛い。

 皿の縁には懐中時計を持った小さな兎が一匹いる。

 「やらんぞ」

 「なんも言ってない」

 多分頂戴ってねだってたろうけど。

 芦谷は珈琲で唇を湿らす。

 私も芦谷もブラック派で、湯気の立つ珈琲を漆黒のまま私は口に付けた。

 「あっっっち」

 「当たり前でしょ」

 デスクに戻った綾瀬に呆れて言われた。

 「舌火傷したー」

 「……んで、殺人が回復に繋がるということは黒魔術の類か?」

 なんで、こいつは熱々の珈琲を平然と口に含めるんだろう。

 「白々しい、ペティカが最近妖精を見かけたって言ってたの忘れた?」

 「すまない、とぼけただけだ」

 芦谷は悪気など全く感じさせないすまし顔で平然と謝罪した。

 「妖精の使い魔でしょ、それも人工の」

 妖精は天然と人工の二種に分けられる。

 前者は西洋の伝説や物語に出てくる超自然的な存在を指し、後者は死者の魂に妖精の概念を埋め込んで創った、魔術師の産物。これはネクロマンシーの派生であり、私たちは彼らを妖精師と呼ぶ。

 こういった魔的を狩れるのは魔術師の特権だ。

 「まあ、あれは便利よな。天然と違い妖精のずるがしこい性格が多少なり消失されている。高い魔力も有しているし使い魔にはもってこいだ」 

 「……それでそいつの居所はわかったの?」

 「昨日からペティカに探させている、順調に進めば今夜にでも見つかるはずだ」

 「そう」

 「まあ、こんなところか」

 推理して憶測を重ねようと、相手は魔術師だ。ある程度予測を立てて対策できれば、あとは探偵ではないのでどうでもいい。

 熱々の珈琲にもう一度口をつける。

 舌が火傷したせいで、あまり苦味を感じない。

 ていうか、ちっとも冷めてない。

 「——妖精師ってなに目指してんの」

 大して真剣に聞いた訳ではない。

 「さあ、妖精卿にでも旅行したいんじゃないか。妖精は超常の生き物だ、そこに行けば無限の魔力でも得られるんだろう」

 「仲良くなんなきゃ無理そう」

 「そこまで到達して、コミュ症でしたはさすがに悲惨だな」

 「人付き合いはめんどくさいからしょうがないでしょ」

 

 

 二人は住宅街に建てられている廃墟化したマンションのエントランス入口前に居た。

 それは漆黒のヴェールに覆われていて、とても人が住んでいる感じがしない。不気味といった言葉がとても似合う様子である。

 優良は頭上を仰いだ。

 夜空は雲で覆われており、その雲の間隙から星と月明かりが時折漏れる。

 だから余計に目立つ。

 それは潜むことはせず堂々と闇夜の下を翔んでおり、緑に発光するそれは廃墟の屋上で何匹も視認できた。

 妖精だ。

 人型のシルエットに蝶のような翅がついた、妖しく光る魔術神秘の結晶。

 (……蟲め)

 優良は再度スマホ画面を覗いて確認をする。

 それには位置情報マップが開示されており、これはペティカから送信されてきた情報だった。つまり、件の事件の犯人——彼女の予想とは少しずれたが、妖精師の使い魔が飼育された建物ということだ。

 (妖精師は別の場所か……ん?)

 「大丈夫?」

 「頭痛が、する」

 綾瀬は苦渋に顏を染め、手で押さえている額からは脂汗が滲んでいた。

 二人は廃墟化したマンションのエントランス入口前に居る。

 だが、それを正常に認識しているのは優良だけであった。

 「ああ、結界。人払いの結界」

 彼女の唇から零れた言葉こそは、この建物が廃墟化して尚取り壊されず住宅街に聳え立つ理由であった。

 人払いの結界。

 それは、他者の認識を阻害し無意識に対象から逸らさせる、文字通りに人を払う、寄せつけない結界である。

 魔術抵抗力を備えていない者が無理に対象へ意識を集中させれば、在ると無いの矛盾に脳が異常を示す。

 「目瞑って」

 「目?」

 綾瀬は言われたとおりに視界を閉じた。

 その彼の手を取って彼女はマンションの敷居を跨ぐ、そうしてぱっと手を放した。

 「たぶん大丈夫だと思うよ、目開けて」

 「……ここどこ?」

 「エントランスの中、頭痛は?」

 「あ、治ってる」

 だが、結界内に侵入してしまえばその効力は消え失せる。

 「よかった、行こ」

 「どこ向かうの?」

 「屋上」

 照明など一切ない筐体の部屋だった。

 優良はスマホのライト機能をオンにして周囲を照らす。

 白色の光が郵便受けを捉え、その全ての表札に名字が振ってあった。では、ここの住人はどうなったのだろう。

 二人はエントランスを通過して、一階踊り場に出た。オートロックのドアはロックが掛かっていなかった。

 「あ、エレベーター使えない」

 「使えても乗りたくない」

 「確かに、階段で行くか、あっちの」

 優良は踊り場から伸びている廊下の奥の階段を指して言った。

 「こっちの階段は?」

 綾瀬は踊り場の階段を指す。

 「だって絶対真っ暗でしょ、向こうのほうがまだ明るいし」

 廊下は微かに、鼻を突くような異臭がした。

 嗅いだことのない不快な臭いに、綾瀬は鼻孔を塞がずにはいられなかった。

 「部屋のドア、開けないほうがいいよ」

 「言われるまで考えもしなかった」

 「あ、ほんとに、ごめん。(……これは、マンションの住人は皆殺しにされてるな)」

 101号室から105号室を通過して階段に到着した。

 歩を休めず階段を上っていく。

 マンション内はとても静かで、風が吹き抜けることもない。異質なまでに無風だ。

 そして異様なほどに空気は重く、べっとりとした不快感がある。魔術師であるならば、その正体は瞭然であった。

 濁っているのだ。残留した魔力に人間の血が。だから淀んでいる。

 ひどく悪臭で、蟲が食い散らかした残骸。

 ここの住人は餌とされ、血肉は荒らされ、死者の魂は妖精の概念によって固定され、同胞とされる。

 まるで異界だ。

 外界から隔絶された小さな世界が確立してしまっている。

 ここは、妖精の城なのだ。異分は人間だ。

 「もうじき屋上に着くんだけど、なにか聞いておきたいことある?」

 「——ペットってどんなペットがいるの」

 「妖精」

 「ティンカーベルてきな?」

 「ふっ……、あはっ、確かに似てるけど、そんなんじゃない……ふふっ」

 「そんな笑うか?」

 「だって魔術師だったら絶対そんなこと聞かないし」

 「そうなんだ」

 「……え、それだけ?」

 「うん、魔術の世界とかどうせ聞いてもわかんないから、優良を見てる」

 「そう」

 マンションは五階建ての設計でそこまで上ると、鉄網で生成された屋上の立ち入り防止ドアは破壊されていた。

 はたして、屋上に出るとそこは小さな妖精卿だった。

 幾匹もの妖精が中空で踊るように飛んでいる。

 目算で明らかに百匹以上。

 それらの動きがぴたりと止まる。

 それらに眼球は確認できないが、二人は視線を浴びせられているように錯覚する。否、錯覚ではないだろう、妖精は確かに凝視している。

 己らの楽園に侵入してきた二つの異物を。

 そんな楽園の住人を睥睨しながら優良はぽつりと呟いた。

 「気持ち悪」

 

 「綾瀬、コートと鞄持ってて」

 鞄の中から幾つかの薄い長方形の物体と、一本のナイフを取り出して綾瀬にそれら以外の荷物を預けた。

 長方形の物体をスカートのポケットに入れ、一歩前進する。

 「さっむ」

 「その恰好でやるの?」

 「これ以外ないでしょ」

 中空に群がる妖精たちの一匹が二人と同じ高さまでゆっくり下降してくる。

 そいつがなにを思考しているか計り知ることはできないが、確実なことは観察しているということ。そこに感情の色を読み取ることはできない。そいつらは皆一様にのっぺらぼうだからである。

 「とりあえず、私の近くに居て。離れたら死ぬから」

 「うん」

 『死』という言葉を聞いても、彼は顔色一つ変えずに頷いた。

 それは決して状況を楽観視している訳ではなく、彼女を信頼している故であろう。

 刹那。

 優良の足下へ緑の閃光が放たれた。

 それは屋上のコンクリートを容易く穿つほどの威力を有した弾丸だった。

 彼女は被弾を免れたが、数センチずれていれば抉られていたのは彼女の足であった。

 優良の顔つきが変わる。魔術師の顔に変わっていく。

 「——。」

 穿孔から一匹の妖精が現れる。弾丸の正体は妖精であった。

 それはその小さな体躯に似合わない、凄まじい速度で滑空して彼女を襲ったのだ。

 先程から無風であったこの場に突風が吹いた。

 だが優良の髪は揺れない。

 ——ケタ、ケタケタ、ケタケタケタケタケタケタケタケタ。

 ケタケタケタケタケタ、ケタケタケタケタケタ。

 ケタケタケタケタケタケタ————。

 嗤い。哂い。嘲い。

 嗤っているのだ。

 風は妖精の嘲笑だった。

 眼前の妖精と、弾丸と化して襲ってきた妖精が手を取り合って踊っている。

 そうして彼女は気づく。

 やつらは故意に着弾を逸らしたのだと。

 「ふうん」

 嘲りを浴びながら、優良はポケットに手を伸ばし薄い長方形の物体を一つ取り出す。

 それは長方形に切った、ただの石材であった。

 「それじゃ、お返し」

 それを右手の人差し指と中指の間に挟んで、子どもの手遊びのように拳銃の形を象る。そしてくるくると踊る二匹の妖精に照準を合わせた。

 「バン」

 彼女の擬音が引き金となり、石材は魔弾となって放たれる。それは二匹の妖精に着弾すると、胴を抉り瞬く間に絶命させ墜落させた。

 嘲笑が止んだ。

 同胞の遺体が無残に床に転がる様を見て、妖精の群れは停止した。

 なにが起きたのか理解ができていないのだ。

 その隙に、優良はポケットからもう一つ石材を掴み、弾を装填する。

 前方斜め上方、妖精の群れに親指で照星を合わせて、二発目を撃った。

 弾丸は群れの一匹に着弾すると回転し、中空に真空の刃を帯びた渦を生成する。

 それは一瞬で旋風へと変貌し、その周囲の妖精を悉く呑み込み原型を失わせた。

 そうして、それが開戦の狼煙となった。

 仲間の半数を殺され、ようやく異常に気付いたのだ。

 これまで殺してきた人間とは異なる。こいつは、明確なる敵だ……と。

 認識を改めてからの動きは俊敏だった。

 妖精は周囲に散開し陣形を整え始めた。

 敵魔術師を四方から囲むと、一斉に緑の閃光弾となり彼女の肉体を貫通せんと翔んでくる。

 だが、魔術師が一手先を制した。

 優良は石材を足下へ落とすと、それは長方形の結界となり優良と綾瀬を囲う防壁となった。

 その四角形へ閃光が着弾する。

 だが、コンクリートを粉砕させた弾丸は結界に亀裂を入れることすら叶わなかった。

 妖精は衝突と同時にぐちゃりと音を残してひしゃげていく。結界の表面に緑の液体がべっとりと付着しまくったところで弾丸の雨は止んだ。

 彼女は足下の石材を踏み砕き結界を消失させる。

 そうして、顔を上げると前方に異様な光景が出来上がっていた。

 「……気持ち悪」

 それは人型。男性の平均背丈ほどの、人の形を模倣した緑に光る発行体であった。妖精が溶け合って完成した集合体。

 「最初に半分、さっきので二十三匹だったから、約三十匹くらいか」

 妖精は中腰の姿勢で両手を構える。

 殺された魂が記憶しているのか、それは人の戦闘態勢だ。

 「綾瀬、絶対動かないで」

 妖精が二本の脚で疾駆した。と、同時、優良はその右足を狙って魔弾を撃ち込んだ。

 二発装填し放った弾丸は妖精の腿と脛に着弾する。体重を支えられなくなった右足が折れ、妖精は姿勢を崩したが転倒はしなかった。

 常人とは並外れた人体能力を有している結果だ。

 だが、その一瞬の隙。

 優良は妖精の頭上を跳躍し背後を取る。装填、構え。

 妖精が振り向いた瞬間、その頭蓋を吹き飛ばした。

 緑の液体が飛散する。

 彼女もまた、人体強化の魔術で常人とは逸しているのだ。

 「ぐっ」

 が、繰り出された右足の蹴りを、優良は左腕で防いだ。

 妖精は止まらない。頭を失おうとこれは集合体である。腕が、脚が、胴がその箇所で生きているのだ。

 単体で凄まじい威力を有する妖精の弾丸、それを上回る蹴りの威力に優良は態勢がよろけ、左手に握っていたナイフを零した。

 妖精はそのまま左足を軸に回転し、今度は頭蓋を狙って脚を振り下ろす。

 かろうじて仰け反って躱したが、その瞬間、腹部に鈍痛が奔った。

 妖精の右手の突きが炸裂したのだ。

 「……かはっ」

 その華奢な体がコンクリートに打ち付けられる。後方へ殴り飛ばされ、幾回か撥ねた後に転がり伏した。

 「優良!」

 「……痛ったあ、今ので魔具全部使ったんだけど」

 彼女のポケットに入っていた長方形の石材が全て砕けていた。

 右手の拳が直撃すると同時に、彼女は結界を何層も張ったのだ。

 生身で喰らっていれば腹部は妖精の腕に貫かれていただろう。

 「あ、ナイフ」

 妖精の手には優良のナイフが握られていた。

 そして、腹が開いた。口と言わんばかりに、口角を吊り上げて開いた腹から嗤い声が響く。

 「コロす、ニんゲん、キリきざム、ケタケタ」

 再び疾駆した。

 殴り飛ばした距離を一瞬で詰め、魔術師に迫るとナイフを振り下ろす。

 優良は瞬時に立ち上がり、紙一重で回避した。

 「綾瀬! Suicaか、クレカ……あと、キャッシュカード、なんでもいいから持ってない⁉」

 「持ってるけど!」

 「ちょっと貸して!」

 妖精は攻撃を緩めず追撃する。

 「あーもうっ、人が話してるでしょうが」

 「優良は持ってないの⁉」

 「女の財布勝手に開けんな! 殺すぞ!」

 綾瀬は自分の財布からSuicaを出すと優良に向かって投げた。が、飛距離は伸びず目の前で落下した。

 「届いてない!」

 瞬間、妖精は魔術師を見失った。眼前で防戦一方だった魔術師は突如として姿を消したのだ。すかさず辺りを見渡すと、魔術師は人間の男の前に居た。

 彼女は妖精が知覚できない程の疾さで移動したのだ。

 「足痛った……」

 優良は綾瀬のSuicaを拾って、それを装填した。

 「何に使うの?」

 「クレカとか交通系のICカードって黄金比なんだ、だから私にとって魔具になる」

 黄金比。

 それが魔術師——華月優良の魔術の正体であった。

 それは人間が最も美しいと感じるこの世の比率。

 自然界に組み込まれた比率という解釈もあり、地球上には黄金比を内包した生物も数多に存在する。

 縦と横が黄金比となっている長方形を『黄金長方形』という。そこから、最大の正方形を除くと残った長方形が黄金比となり、さらにそれを繰り返すと、それに終着は在らず永遠に黄金長方形が出来上がる。

 その正方形の中心を点で繋いでいくと螺旋ができる。終着のない螺旋。

 彼女はそこに魔力を込め魔術を行使する。

 先程使用した長方形の石材は『黄金長方形』。簡易用の魔具だった。

 魔力は自然界に満ちて流れている。地球が創造した黄金比とは相性がいい。

 魔術師が爆ぜた。

 その刹那、妖精のナイフを持った腕が千切れ飛んだ。

 微かに聞こえた魔弾の射出音と体の部分箇所消失によって、妖精は腕が撃ち抜かれたと理解する。体では、だ。思考では理解できない。

 故に、空を切る程の高速でナイフを奪い返した魔術師に、正面から刃を突き立てられたと気づいたのは、己の体が、命が、死滅した後だった。

 「魔的殺しのナイフ、刺した対象の魔的要素を全て殺す。集合したことが仇になったね」

 崩壊した妖精の死骸を眺めながら言った。

 「ただ、一度使うと壊れちゃうんだよな、借り物なのに……」

 彼女から溜息が漏れた。

 ナイフの刃は折れてしまっている。相当上等な代物だったのだが、こうなってしまえば最早がらくたである。

 「ああぁ、明日は筋肉痛だな」

 「おつかれ」

 綾瀬の微笑んだ顔が優良の瞳に映った。

 「綾瀬……楽しかった?」

 「そりゃ勿論、羨ましいくらいに」

 綾瀬は表情を崩さずに答える。

 普通の人間にとっていましがたの光景は非日常的だろう。スクリーンに映らない映画だ。しかし、フィクションのようで、実際はノンフィクション。

 彼は異世界に没頭する。

 多くの人が悩みを抱えて、それを趣味や娯楽、酒や薬で誤魔化すように。

 「ふうん」

 綾瀬は彼女を拠り所としているのだ。

 だが、他人を拠り所にすることは危険だ。

 それは一方的で相手には関係ないのだから。それ故、いつ消えるかわからない。

 「じゃ疲れたし帰ろ」

 そして互いに、それは気づかない。

 

 

 成し遂げたい目標があり、それに向かって邁進していく人生は幸福であろう。例えそれが達成できなくても、歩んできた道程には素晴らし価値があると思う。

 僕にはそれがない。

 ただ与えられた役割に忠実に従って生きているだけだ。学生なら友達と遊んで、沢山勉強して、社会について学んで、大人になる。

 世間が定めた一般路線。

 それに従って日々人生を進んでいく。

 まるで、生者の奴隷だ。

 己が定めた未来を、それに対する意思を持ちたい。

 妖精は人間が死して尚、その魂を魔術師に隷属され使い魔にされた。

 そして、それらは同胞を増やし、魔術師の為に使われる死者の奴隷。

 僕と変わるだろうか。

 生きているか死んでいるかの些細な差異で本質は同じだ。

 僕は進むべき道を探したい。

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