プロトコールが鳴り響く

朝田さやか

追いかけた夢

「ミーンミンミン……」


 暑い。とにかく暑い。家の外に植わる木という木から聞こえてくる蝉の声。そのあまりのけたたましさに、音として放出された熱量ジュールによって蒸し暑さが一層酷くなっているように感じる。


 二〇二〇年、夏。高校三年生、受験生の私たちにとって大事な時期に差し掛かった。受験本番に向けての追い込み期間。ここからどれだけ自分に厳しくできるかどうかで、志望校合格か不合格かの分かれ道となる。


 だから、ライバルたちに負けないように必死に勉強しなければいけないのだ……けれど。


 昼ご飯を食べて一息ついて、数学の問題集を広げて三十分。有名大の生協で買ったシャーペンは指の上でいとも容易く回るのに、私の頭はちっとも回転してくれない。


 後から後から流れてくる汗、肌に纏わりつくような蒸し暑さ、暑さに侵される頭。大問一つ解くことすらできない。用意した真新しいノートには罫線も入っておらず、文字通り真っ白いままだ。


 省エネに気を遣うせいで二十八度設定のクーラーは使い物にならないわ、おまけに扇風機の風でページが捲れてイライラするわ。


 暑くて、暑くて、煩くて、汗でベタつくシャツもインテグラルもベクトルも、何もかもがうざったくて仕方がない。こうして机の前に縛られて一日中問題を解かされるのが、嫌で嫌で堪らない。受験生という肩書きが上からのしかかって退いてくれない。


 頭沸きそう。


 いや、もう既にイライラはピークに達して、頭は使い物にならなくなっていた。


「ああぁああぁぁあ、もういや」


 ついにシャーペンを放り投げ、奇声を発しながら髪の毛を両手でかき回してぐちゃぐちゃにした。大して手入れもしていないベリーショートの髪の毛は爆発したかのように悲惨な状態となった。


 しかしそれだけでは腹の虫はおさまらず、そのままの勢いで赤ペンを掴んでノートに大きなバツを書きなぐった。ビリッと、ページが破れた音がしてもお構いなしだ。


 バツ、バツ、バツ……とまるで何かに取り憑かれたかのようにバツ印を重ねていく。真っ白だったページが、だんだんと赤色で埋めつくされていった。


 ザッ、ザッ、ビリッ、という音が切れ間なく自室に響く。ノート一ページを丸々無駄にしたあたりで、ようやく溜飲を下げた。


「はぁあ」


 大きなため息を一つつきながら魂が抜けるように脱力して、だらりと机の上に俯せた。私の手から放たれて机の端に着地していたシャーペンが右腕に押し退けられて床に落ちた。


 カタッと音を立てて、数センチ先へ転げていく。拾う気もさらさら起きず、落ちたシャーペンの軌道を目だけで追いかけると興味を無くして目を伏せた。


 バレー、したいなぁ。


 怒りが飽和していた状態から幾分か気持ちが落ち着くと、当然のようにこの思考に行き着いた。


 レシーブ練でしごかれたい。爽快にアタックが打ちたい。ブロックでシャットアウトしたい。


 目蓋の裏には、体育館で必死にボールを追って駆け回る自分の姿がありありと浮かんでくる。


 私の専門は机の前じゃなくて体育館のコートの上だ。追い込むのは頭じゃなくて身体がいい。追いかけるのは数式でも文字列でもなくて、ボールがいい。


 私は高校に入学してから今まで、いや、小学二年生でバレー部に入った時からずっと、バレーのことしか考えていなかった。


 春夏秋冬、三百六十五日、練習できる日は動けなくなるまで練習した。活動時間と一日のパワーの大半を部活に費やした。汗水垂らして時には涙も流しながら一生懸命に、自分の全てを捧げてプレーしていた。





 インターハイ、出場したかったな。


 一通り自分がプレーしている妄想に耽って、鋭いアタックを相手コートに叩きつけたところで急に我に返った。そして、自分の消化不良な想いを引きずり出してしまったことに気づく。


「はぁ」


 また一つ、口からため息がこぼれていた。最近、ため息をつく回数が以前より格段に増えている。ずっと私の中で何かが足りない感じがして、活動するためのエネルギーが全く湧いてこない。それは、食事ですら億劫だと思ってしまうほどに。


 ——何かが?


 その答えはもう、分かり切っている。体の中に本来あるはずの活力はたぶん、数ヶ月前に体育館に置いてきてしまった。


 本来ならば今日はインターハイの開会式が行われるはずだったのだ。だから普段にも増して、より一層何もやる気が起きない。


 蓋をして、鍵をかけて、胸の奥底に封じ込めたはずの気持ち。途端に湧き上がってくる悔しさとやるせなさ。向き合わない方が楽だから気づかないふりをして、体育館を去って、今机の前に座っていたはずだったのに。





 私がバレーというものを知ったきっかけは、小学生の時にテレビで見たインターハイの中継だった。元々私の父はスポーツ観戦が趣味で、小さい頃から様々な競技の試合がテレビに映っていた。


 父がバレーボールの試合を観ていたのだって、その日が初めてじゃなかったはずだ。だけど、そのときだけは何故か、私は目の前で繰り広げられる一進一退の攻防に興味を惹かれたのだ。


 普段はどのスポーツ中継にも微塵も興味を見せない私が食い入るように画面にかじりついている様子を見て、父は驚いていた。


 ルールも何も分からずにテレビを観ていたけれど、ワクワクして、キラキラして、ドキドキしている自分の気持ちだけははっきりと分かった。


 どうしようもなく、胸が高鳴った。


 私が憧れたのはプロの選手でも、オリンピックや世界バレーの試合でもなかった。街を歩けばすれ違うような、近い存在だった。


 きっとあの時テレビに映っていた人も、普段は近所で見かける高校生と何も変わらないんだろう。だけど、決勝のセンターコートの上でボールを操るその瞬間だけは違った。


 凛々しい目で指示を飛ばし、必死になってボールに食らいつき、一点をとったら満面の笑みでガッツポーズをする。


 眩しかった。


 私が初めてバレーに出会った日の奮い立った気持ちは、今でも鮮明に思い出せる。思い出すだけで武者震いしてくるような高揚感。今も変わらず胸の中にある強い憧れ。


 そして私はその時、眩い光を凝視するのと同時に、テレビの前のお姉さん達のようになりたいと思ったのだ。そして、


「バレー、してみたい」


 と、気づけばそう、呟いていた。






 あれからもう、七年が経つ。私の七年間の日々はバレーのおかげで濃密で刺激的だった。ただしこの数ヶ月を除いては、の話にはなるが。


 ポタリ、と気づかぬうちに私の目からは弱々しい涙が一筋、流れていた。


 朝から着替えていないパジャマの袖で涙を拭う。重い目蓋を開けて体を起こすと、目の前には大して意味もなく浪費されたノートの一ページ。そして、そのページをめくると現れる、真っ白な次の一ページ。


 白は何色にもすぐに染まってしまう、未熟な色。


「何も書いてないようにみえるでしょ? 先生、でも白には無限の可能性が広がっているからこれでいいんですよ!」


 ふいに、昔、宿題やらない魔の男子が先生に注意されたとき、いつもしていた言い訳の言葉を思い出した。


「無限の可能性、か」


 ふっ、と溢れた笑みは、決して思い出し笑いなどではなかった。自分を嘲笑する醜い笑いだった。


 想定の解法でも別解でも、時間がどれだけかかっても、みんなノートを文字で埋めて試行錯誤しながら答えに辿り着くのだろう。


 あの男子のように解く気がなくて真っ白いままでも、真っ白いままにすることを自分で選択してるならいいんじゃないか。


 私は解きたいのに解けなかった。手を動かさなきゃいけないのに、ペンを持つ気力が起きなかった。白いままで置いておきたくなかったからってイライラして赤ペンのインクを無駄にして、自分は何をしているのだろう。


 目の前の空虚なノートは、解法を見つけようとしない限り——次の一歩を踏み出そうとしない限り埋められず、ずっと白いままなのだ。

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