本当はね、英雄
糸師 悠
青年A
信号が赤から青に替わり人々が歩き出す。
スーツに身を包んだ男。母親に手を引かれながら待ち遠しさを抑えきれずにスキップする女の子。学生の象徴ともいえる学ランに制服の集団。
欠伸でも出そうなくらい平和な街並みだ。
木々の隙間から漏れている光の粒を浴びているパンプスの音が響く。カツカツと鳴る黒のエナメルが光を反射して、俺の目を細めさせる。鮮やかな青のワンピースと緩くまかれたセミロングの髪が規則正しく揺れる。
すれ違う男たちを振り向かせるほどの魅力を備えている女。その前方だいたい20メートル。地面からはみ出ている地下鉄のホームへと続く階段に、ぎこちなく右足を引きずって登ってくる男がいる。日に焼けた浅黒くも瑞々しい健康的な肌とは程遠く、色白の肌は血液で滲み、目の中も白一色だ。辺りには放置した生魚ような生臭さが漂っている。実際に腐っている。死体となったはずの彼はどういうわけか、再び起き上がり動き出した。まあつまり、ゾンビなのだ。その男は。
地下鉄のホームはどのような事態に陥っているのか。そもそも、なぜゾンビが現れることになったのか。気になることを挙げたらキリがないが、最も気掛かりなのは、その腐った死体と青のワンピースの女との間が徐々に近づいていることだった。
階段からゾンビの頭が覗いて、当然のことながら女は目を見開く。そして、驚いた時のお決まりとでもいう様に、尻餅をつく。
どうして突然吃驚する出来事に直面すると、体を釘で固定されたように動けなくなってしまうのか。
高いところから見下ろしたとき足が竦むのは、本能的に危険を察知してそこから落下しないように身構えるからだと聞いたことがある。これと似た原理だろう、と自己解決した。脳の仕組みとか神経とか、自分の体の中にあるけれど、よく理解できないものの影響なのだろう。
そんなストーリーや世界観が本当に存在していたかは不明だ。ゲームのストーリーの部分は悉くスキップしているので、正しいストーリーがどういうものかはインターネットで検索してみないと今はわからない。
でも、正しいストーリーなんて俺にはどうでもいいのだ。画面の中の俺が、青いワンピースの女を庇いながら迫りくるゾンビの群れを打倒していく。そんな状況に違和感なく、かつ、俺が彼女の窮地を救って人類のヒーローとなれるストーリーならばそれでいいのだ。
ヒーロー。発するだけで体の内側から何か得体の知れない力が湧き出てくるような響きが心地よい。俺はヒーローになりたいと思っている。そう、この今も。
大抵、ヒーローになりたいだなんて夢は、小学生を卒業する前までには言わなくなる。
現実を考えるから。
小学生ながら知識を蓄えて、社会や現実を見る。「あいつの将来の夢、ヒーローらしいぞ」と噂されることもあるだろうし、進路調査にでもなれば教師に苦笑いされることも目に見えている。公にすると恥ずかしさを感じる機会が自然と増えるのだ。
実際、俺はそれをすごく気にしていた。だから誰にも、もちろん親にも言えず、自分の心の内に大切に保管していた。悟られないように、悟られないようにと続けていたら、大学の一年目が終わろうとしているこの時になっても、まだきれいな状態で残っていた。その夢から生えている触手のようなものは、俺の心に複雑に絡みついていた。
ゲームの世界では誰だってヒーローになれる。攻略のコツを掴んでゲームの腕を磨けば。派手な帽子とオーバーオールを身に着けた、大工だか配管工だかの男が、ピンクのドレスを着た金髪の王女様を救い出すこともできる。
自分がそうなのだって思い込んでいれば、何者にでもなれる。そういう世界であると思っている。だから俺はゲームがやめられない。
現実世界の俺はというと、優れた身体能力があるわけでもなく、明晰な頭脳を持っているわけでもない。自分の凡人さ加減を嘆きヒーローになれないと絶望した時期もあったものの、考えに考え抜いた結果、俺にでもできる人助けの方法をみつけた。
それは、話を聞くこと。見守ること。敵にならないこと。簡単に見えることでも人を救えるのだ。
時計をちらと見ると、13時30分を指そうとしていた。15時に大学の友人の家に行く予定があるから、そろそろ支度を始めなくてはいけない。
テレビゲーム機の本体の電源を落として、入力切り替えをすると、淡々とニュース番組が流れ始めた。
「都内でひったくり多発」というテロップが映って、きっちりと髪をまとめたアナウンサーが、硬すぎなく柔らかすぎない表情で情報を滔々と伝えている。
ひったくりか。
買い物帰りの主婦が被害に遭ったようだ。今月に入って四件目。犯人は共通してバイクを使っているらしい。
必要なものとそうでないものを選別し、リュックに突っ込みながら、勝手に耳に侵入してくる言葉の束を復唱する。
俺は男だし狙われることはない。
赤の他人が鞄をふんだくられたくらいでどうして心を砕かれなくてはいけないのか。他人事だろう。と冷たい声が耳元で囁かれたような気がした。
いやいや、可哀そうだろう。鞄には大切な何かが入っていたかもしれない。被害に遭ったことでうまくいくはずだった人生のピースの欠片も、一緒に奪われてしまったかもしれない。きっとショックを受けたに違いないよ。と温かい希望の声も聞こえたように思えた。
混ざり合った生ぬるさが少し気持ち悪くて、洗面所までゆっくりと移動して、蛇口をひねった。冷たい水を顔にこすり付けても、すっきりはしなかった。たっぷりと時間を使って服を着て、コップに冷えた緑茶をなみなみと注いだ。
もうこんな時間か。咽るのを覚悟して一気に飲み干し、わだかまりがあるまま玄関の扉をあけた。
一人暮らしをしているアパートから、最寄り駅までは歩いて十分もかからない。大学からは少し離れているけれども、実家のある田舎町とは違って、電車が次々とやってくる。だから、乗り遅れて大学に遅刻するなんてことは、そうそうなかった。
硬いコンクリートを踏みつけて、川を渡って、小学校へと通じるやや大きな道路の端を歩く。
公園が見えてくる。その公園は、広大な敷地を持っているわけではないが、定番の遊具だけでなく木製のアスレチックエリアがあり、いつも元気いっぱいの子供たちが声を上げて遊んでいる。それを見るたび思う。
若いっていいなあ。ああ、俺もまだ若いや。
遊具から少し離れたベンチは、樹木の影で覆われていた。ベンチにはスケッチブックを広げた男が座っている。絵を描いているようだ。彼は外界をシャットアウトしているのか、完全に自分の世界に閉じこもっているように見える。「没頭」という言葉が、まさに今の彼にふさわしい。そう思った。そして、俺も時間を忘れて打ち込めるものがほしいと羨んだ。
スケッチブックを見ている顔が少し笑ったような気がした。そしてすぐに顔を上げたので、俺は目が合う前に俯きがちに再び歩き出す。
駅に近づくにつれて、行き交う人も増える。日曜日ということもあってか、親子連れが多い。
ある子供は駄々をこねているようだ。
その親子連れを目を細めて見ていた中年の男性が突然苦しみだした。ふっと脚の力が抜けたのか、倒れこんでしまった。俺を含めた複数人が駆け寄る。顔は蒼白で、痙攣していて、不規則にぶるぶると動いていた。
さて、こんなときどう対処すればよかっただろうか。自動車の免許を取ったとき、応急救護は学んだはずだったが、覚えていない。
いざという時に使えなくては意味がないではないか。
俺は何の解決にもならない独り言をつぶやいたが、駆け付けた中の誰かが声を上げた。
「あなた、救急車を呼んでください。あなた、AEDを持ってきてください」
人差し指を取り囲む誰かに向けて指示を与えていく。そうだこれだ。まさに彼が今負っている役目を思い出そうとしていたのだ。
しばらくすると、救急車が到着して、悶えている男を運んで行った。
まあでもこれは、俺の妄想であって、中年の男は何事もなくドラッグストアへと入っていった。もし現実だったら、中年の男からしたら、あの動いた男は、命の恩人となるのだろう。中年男性にとってのヒーローだ。
いやあ、かっこいいなあ。
改札を抜けて、丁度よく到着した電車に乗り込んだ俺は、すかさずスマホを取り出して「応急救護の仕方」で検索をする。
チャイムを押すと、少し間があって、鍵の開く音がした。
「よっ、久しぶりだな。ようこそわが部屋へ」
大学生にしては少し老けているように見える男が、少しだけ空いた扉の隙間から、ぬっと顔を出した。
「
ふざけて言ったつもりだったが、少し眉を落としたので、申し訳ない気持ちになる。本人も多少は自覚しているのだろう。
洋介は大学に入ってから知り合った友人で、入学したての頃、ガイダンスでシャーペンを貸したところからずっと付き合いが続いている。
当時は、ガイダンスに筆記用具を持ってこないとは何事かと思った。でも今考えると、あれは会話をするきっかけになったし、洋介自身それを狙っていたのかもしれない。
半年前のことだったか、洋介は突然短期留学をすると言って、日本を離れていった。だから会うのは半年ぶりで、付き合いもまだ入学から夏休みが終わるまでのだいたい半年間だ。
部屋に入ってリュックを壁に寄り添わせる。
洋介の部屋はかなり散らかっている。ごみはひとまとめにされているが、服は脱ぎ捨てられているし、テーブルも本やプリントで混雑していて、ろくにパソコンも扱えなさそうだった。
「そのうち片付けようとは思っているんだけどな」
洋介は俺の心を察したのか、そう言って少し口元を緩めた。そして「そのうちとか言っているうちは絶対やらねえ」とも続けた。
「いつ帰ってきたの?」
当たり障りない質問をすると、無表情でグラスに麦茶を注ぎながら「一か月半くらい前かな」と素っ気なく答えた。
一か月半も前に帰ってきていたのか。もっと早くに連絡してくれればよかったのに。
そうそう、と何かを思い出したように洋介が立ち上がった。「ちゃんとお土産買ってきたんだぜ」にやにやしながら小さな袋を投げてきた。キャッチした透明の袋には、色とりどりの四角形が四つ詰められていた。緑、茶色、ピンク、白。アルファベットでそれぞれ、ジャスミン、シナモン、ダリア、さくら、と書いてある。
「石鹸だぞ」と洋介は得意げに言う。それは見ればわかることだ。
「随分と派手な色だな。それにしても、海外でさくらの石鹸が買えるのか。これじゃ、四分の一が国内土産だな」
ちょっと意地悪するつもりで、わざとらしく不満を浮かべてみる。
「いいじゃねえかよ。四分の三は海外土産なんだから。それに、外国にだって桜はある。派手なのだって問題ないだろ。泡立ててしまえば、ほとんど白なんだから」
確かに、と頷く。どんなに派手ななりをしていたって、肝心な時には、皆同じような姿にまとまってしまうものなのだ。
「もう、春休みも終わっちまうな」
「終わるも何も、お前は春休みが始まる前から学校に来てなかっただろうが」
留学だ、と口を尖らせる洋介を尻目に部屋の壁にもたれる。
初めての大学の春休みが始まる前は、この長い期間をどう消費していこうか想像をふくらましていた。でもその長いと思っていた期間は、あと一週間で終わろうとしていた。暇に時間を使ったこの時間を誰かを助けることにも使えたはずだが、目を瞑ることにした。過ぎた時間は戻せないから。
人間は自分には甘いものだ。蟻が寄ってきても、おかしくないなあ、なんてくだらないことを考えていた。
講義の終わりを知らせるチャイムが鳴った。その時には、もう図書館へと足を踏み入れていた。キリがいいからと教授が少しだけ早めに講義を切り上げたのだ。一限分コマが空くとき、だいたい俺は図書館で机に突っ伏して昼寝をするのだ。
例に倣って、今日も壁際の隅の席を確保して、机の上で腕を組み頭をのせる。
目を閉じてから時間が経過する。
人の気配がして目を開ける。そこには、名前も知らない女子大生がいた。可憐さを極めたような俺の理想が隣に座っていた。俺が起きたのを感じ取り、ちらと目線を向けると「寒そうでしたよ。風邪をひいてしまいますよ」とうっすら微笑みながら言ってくる。俺の方には見慣れないブランケットがかけられている。「ありがとう」と返事は妙味に乏しいものになってしまったが、胸の内では現実に天使が現れたも同然だったので、半ばパニックを起こしていた。
そんな彼女の、俺にはもったいないほどの優しさがきっかけで出会い、やがて俺たちは付き合い始め、文句の付けどころもなく充実した大学生活を送るのである。
常軌を逸した想像をしているうちに眠りに落ちた。
起きた時、実際に隣にいたのは洋介で、まあそうだよなと落胆し「なんだ、お前か」と言ってみせた。同時に、なんでお前がここにいるのかと理不尽な怒りが湧いた。
ポケットに入っていたスマホがバイブを鳴らしたので、洋介の「なんだ、ってなんだよ」は聞き流した。SNSの通知が来ていた。
「(どうも、初めまして!フォロバありがとうございます!僕は普段は都内の大学に通っているのですが、普段は何をされている方なんですか?)」
昨日だったか、一昨日だったか、YASUという名前のアカウントから、フォローされて、気まぐれで、フォローを返したのだったな。
「(自分も都内の大学に通っています)」
「(同じですね!僕は今、大学に通いながら、英会話スクールの運営や、海外留学の支援等をさせてもらっています!
ユウさんは、海外や、英語を学ぶことに興味はありませんか?)」
ユウというのは、俺のアカウント名で、本名が
俺は調子に乗って返信をする。
「(実は最近、友人が外国に短期留学に行っていたんです。英語も嫌いではないので、どちらかといえば、興味はありますよ)」
今日の講義を全て受け終えて、ホームで帰りの電車を待っていた。スマホを明るくすると、YASUからメッセージが届いていた。
「(そうなんですね!海外に関心のある方と繋がりたいと思っていたので、もしよかったら、近いうちに都内のカフェでお話でもいかがですか?)」
面倒なことになった。これは会ってしまったら、何か買うまで帰してくれない始末の悪い商売人ではないか。
海外や英語に関係がない高いブレスレットとか。処分に困るだろう水晶玉とか。
強面で肩幅の広い、スキンヘッドの男が、押し売りに近い形で売ってくるのではないか。「このブレスレットをつけているだけで、あっという間に英語をペラペラ話すことができるようになります」とか、小学生でさえ見破れる嘘を平気な顔をして言ってくるのを想像した。
迷った末、俺は会うことにした。好奇心を抑えられなかったのだ。もし、本当に脅迫や詐欺に発展しそうになったら、ガツンと一発叱りつけてやろう。これもヒーローへの一歩かもしれない。被害に遭っている人たちは、いるのだ。屈強な敵だとは思うが立ち向かわなければならない。
俺は「(いいですよ!)」とだけ返信してスマホの画面を真っ暗にした。
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