白髪愛好家の葛藤

wagasi

春が来て、また春が来て、更に春が来る

 春が来て、また春が来て、更に春が来る。

 俺はどうしようもない辛さを胸に秘めながら、この坂を上っている。横幅の広い坂道の脇には満開の桜が一列に並んでいて、ピンク色のアフロ頭の集団が前ならえしているように見える。陳腐な表現だなと自分を嘲笑する。

 本日は四月八日、私立『神林高校』の入学式だ。

 それなのに、俺の周囲には皺ひとつないピカピカの制服に身を包んでいる新高校生諸君の姿が無い。あるとすれば、箒と塵取りを持った作務衣の青年くらいなものだ。

何故か?入学式なんだろう?そんなの考えるまでもない。


「うおおおおっ遅刻だああぁぁぁ」


 俺は盛大な朝寝坊をかましてしまったのだ。

タイマーはセットしていた。でも、音が聞こえなかった。いや、正確には聞こえなくした。先週から一人暮らしを始めた俺には、携帯のアラームを反射的に止める特技はあっても、意識を覚醒させるまでの胆力は無かった。こういう時に限ってのみ、俺以外の第三者の存在が欲しくなる。望むらくは、それが白髪美女であれ。

 まあまあ急勾配な坂を全力疾走しているせいで息が乱れる。しかも結構長い。体感的に六百メートルはあると思う。自転車通学を視野に入れていたけれど、この調子だとめっちゃキツイ気がする。今度別の道を探してみよう。

 ようやく長い坂が終わり、眼前に既に門扉の閉まった校門が見えてくる。神林高校の校門は樫の木を材料にして作られている和風なもので、一見すれば豪勢なお屋敷を連想させられる。門扉は一般的な鉄製のスライド式のではなく赤茶けた観音扉となっている。学校見学の際には常に開いている状態だったから、完全に口を閉ざした扉が酷く高圧的なものに見えてしまう。仰々しいってこんな感じなのだろうか。

 軽く押してみる。ビクともしない。もみの木でも押してるみたいだ。

 今度は力いっぱい押してみる。


「ふんっ!ぬおおおおお!」


 あっ、ダメなやつだこれ…。

 おとなしくノックでもしてみようか。いや、入学初日に遅刻するような怠惰な人間だと思われたくはない。これからこの校門をくぐる度に、警備員さんに「ああ、あいつか」みたいな痛い視線を送られるような毎日はごめんだ。過度な心配、自意識過剰かもしれないけれど、可能性は存在する。俺はそれが耐えきれない。

 して、どうしたものか。周りを見渡してみる。

 俺が上ってきた坂はT字路の南方向に該当し、今俺が立つ校門前から左右に伸びる形で道が広がっている。学校を囲む石垣がずっと先の方まで伸びていて、この学校の土地面積の大きさを具に表している。

 通常授業を行う本館以外にも部活用に二つ、特別授業用に二つ、特別用に一つと計五つの別館があり、更にはグラウンド場が幾つかと武道場だとかも揃っている。たった数回の学校見学では回り切れない位だから、県内でも屈指の大きさであることは間違いない。

 後ろポケットに入れてある携帯を開いて時刻を確認する。


「まだギリギリ入学式は始まってない。けど、ホームルームは始まってるかな」


 だったら、途中で合流することも出来る筈。幸い、自分が何組なのかはインターネットで確認済み。更には、俺の後ろの出席番号が中学校で仲良くしてくれていた友人なのだ。ここに、天文学的な確率を超えた奇跡が起こっている。


「体育館に向かう時にひょっこり合流できれば、多少は解決する…かな」


 ならば、あとはこの石垣をどう乗り越えるかだ。

 悩んでいる内に時間は刻刻と過ぎて行く。万事休す。これは素直に入れてもらうしかないかな。そう思った時だった。


「君、ここで何してるの?」


 背後から澄んだ声が聞こえた。清涼飲料水、もしくは小川の清流みたいだな。そう思った。

 振り返ると、黒髪ロングの女性が立っていた。俺と同じ制服を着て、自転車に乗っていた。ネクタイの色が違っていて、俺のが青色で、女性のが黄色だった。


「あちゃあ、間に合わなかったか。ギリギリいけるかと思ったんだけどな。見通しが甘かったか」


 自転車から降りて、俺の横に女性が立つ。実際には校門の前に立ったのだろうが、距離が近すぎる。金木犀に似た甘美な匂いが鼻をくすぐる。今の時期は春だというのに。

 俺は数歩横にずれる。初対面の人は苦手なんだ。あまり近くに居たくない。

 その行動に気が付いた女性が俺のネクタイをチラッと覗いた。そして、何やら不敵な笑みをこちらに向けると、次の瞬間には口を開いたではないか。


「入学早々遅刻とは、君、中々の強者だね」


 いきなりだった。突然だった。突発的だった。

 返答したら良いのか、するにしてもどう返答したら良いのか、そもそも俺に声をかけたのだろうか、いや俺とこの女性以外に人が居ないのだから、当然俺に声をかけたのだろう、だったらどうすればいいんだ!

 頭の中をぐるぐると言葉が回る。幾つもの言葉が重なり合って、やがて頭の中が真っ黒になって、訳が分からなくなる。


「あっ…ええっと…ええっと…」


 女性からの視線が辛くて、俺は反射的に俯く。変な奴と思われただろうか、陰気な奴だと思われただろうか、気持ち悪い……そう思われただろうか。

 いつもこうだ。

 見知らぬ人から話しかけられると、混乱して、困惑して、自分がどうすれば良いのか、判らなくなる。でも、そのくせ人の視線は嫌なほど痛烈に感じてしまう。気にしてしまう。だから、あの坂を上っている時も、間に合わないかもしれないという不安が俺を辛くさせた。

 入学早々に遅刻した生徒。

 校則という秩序を足早にぶち壊した俺を、周囲は好奇の眼で、もしくは嫌悪の眼で見てくるに違いない。一つの色に染まらないことを、社会が認めないのと同様に、俺は排斥されるに違いない。飛躍した理論かもしれない。けれど、俺にはそうなる可能性があるという事実だけで十分なんだ。

 俺は次第にペシミズムの渦の中に呑み込まれていく。渦の中は俺の頭の中みたいに真っ黒で、窮屈だ。もう、一人にしてくれないだろうか。


「何かよく判らないけど、君、顔を上げて」


 俺の切望とは反対に、女性は俺に声をかける。返答はしない。いや、出来ない。

 沈黙が俺と女性の間に流れていく。


「ねえったら、顔を上げてよ。何か私が苛めているみたいじゃない」


 もう何もかも嫌になる。いっそのこと、断崖絶壁から飛び降りたい。そして、波に流されてどこかへ消えたい。


「ねえ…聞いてる?お~い、聞こえてますかぁ?」


 海の中はきっと静かなんだろうな。何も無い、虚無みたいなものなんだろうな。


「あああっ!もうっ!じれったい!顔上げなさいよ、このっ!」


 両頬をグッと掴まれて、否応なしに顔を上げさせられる。すぐ間近に、睫毛の長くて真っ黒な瞳の双眸があった。その黒は渦の中とは違って、どこか落ち着ける安心感のある黒だった。これがあの女性の顔だと気が付くのにどれくらいの時間がかかっただろうか。一瞬のようでも、永遠のようでもあった。


「いい!今から君は私の自転車の後部座席に座る。そして、何も言わずに私の肩を掴む。オーケー?」

「えっ?えっ?」

「勿論異論は認めないから。肩が小さいだとか座り辛いだとか文句を言ったら蹴り倒すから。オーケー?」


 今度は頭の中が真っ白になった。


「返事は?」

「はいっ!」


 怒気に満ちた声に反射的に返事をする。清涼飲料水みたいな声だと思ったけど、怒ると炭酸水みたいなパンチの効いた声のように感じる。


「よしっ良い返事。さあ、座るべきところに座る!」

「はいっ!」


 いそいそと自転車の後部に座る。凹凸部分が尻に食い込んで地味に痛い。そして、運転席に座った女性の肩に手を乗せる。躊躇したら本当に蹴り倒されそうな気がした。

 次の瞬間、自転車は発進した。T字路の西の道を下って行く。

二人乗りはいけないとか、そんなこと考えている暇も無い。下り坂を利用して効率的にスピードを上げ、どこまでも伸びる石垣に沿って進んで行く。右には石垣が、左にはまだオープンしていない店が隙間を空けずに並んでいる。文具屋、本屋、喫茶店なんかもある。

 それに、朝の通勤ラッシュの時間帯にも関わらず車の通りが少ない。


「今、君、車の通りが少ないとか思ったでしょ?」


 何故判ったのかが判らない。超能力者なのか、この人。


「君、茂谷に来てどれ位?」

「一週間…です」


 頬にあたる風が冷たいおかげか、言葉をすぐに口に出せた。


「ふううん、じゃあ引っ越してきたばかりなんだ。元々はどこに住んでたの?」

「神奈川……です」

「へえ、お隣さんか。色んな高校があるのにここを選ぶなんて珍しいね。山麓にあるこんな辺鄙な高校じゃなくても、もっと良いところあったと思うけど…いや、そんなの個人の自由だよね。何でもない。気にしないで」


 それ以降は、特に会話をし無かった。

 閑散としている道をずっと進んで行き、ようやく途切れた石垣を追いかけるようにして右に曲がると、また長い長い道が続いていた。その中に、石垣の向こう側に桜が林立しているところがあって、女性はそこに自転車を止めた。風に吹かれて散った桜の花びらが、吹き溜まりを作っていた。


「たしか…ここら辺にあったんだよねえ……おっ?あったあった」


 女性が石垣を探ると、押した石を中心としたおよそ直径七十センチメートル四方の石垣が、ゴゴゴ、と音を鳴らしながら動き始めた。いや、回転し始めたのだ。どういう原理で動いているのかはさっぱり判らない。


「唖然とするよね。私も初めて見た時は驚いて言葉が出なかったよ。なんでも、忍者の末裔にあたる人が遅刻しても良いように作ったんだとか。随分と凝ったマネするよね。普通に朝起きて、普通に登校するだけで良いのにさ」


 一回転して女性の姿が石垣の後ろに消える。


「君もやってみなよ。見た目に反してそんなに重くないよ、コレ。ちなみに、君に選択肢は無いから。こっちに来なかったら海に沈めるからね」


 恐ろしい脅し文句である。声の感じからして本当に実行に移しそうな気がしてならない。先ほど身を投げたいと思ってはいたものの、いざ本当にその危険性が迫ってみると、足が竦みそうになる。

 仕方なしに女性がやっていたように石垣を手で触ってみる。確かに、ここの部分だけ微妙に感触が違っていて、凸凹が全然なくてツルツルとしている。押してみると、女性はそんなに重くはないと言ってはいたものの、ビクともしない。


「ふんぬぬぬ!」


 両足で踏ん張って掌に力を込める。すると、石垣が少しずつ動き始め、石垣内部が露わになる。頭上には満開の桜が綺麗な花を咲かせていた。

 よそ見をしていると、急に石垣からの反発が消え失せて、身体のバランスを崩し、前に倒れる。下草が茂っていたおかげで然したる痛みは無い。

 背後でガコンと入口が塞がる音がした。


「この秘密の裏口の目印はこの桜なんだ。一際大きくて、他の桜よりも一際綺麗な」


 うつ伏せの状態から身体を仰向けにさせて、桜を下から眺めてみる。どうしてそんな気になってのか、自分でもよく判らない。女性の言葉がやけに感傷的だったからかもしれない。

 俺の頭上に広がっているのは、桜の空、だった。もしくは、桜の海、といっても差し支えない。とにかく、視界一杯の桜は際限なく広がるものに喩えるのが最も正しいように思えたのだ。

 そよ風が吹くと、桜の雨、桜のしぶき。柔らかそうな花びらは、掴んでもすぐに手から零れ落ちてしまう水のようで、それは理想の自分の姿にもよく似ていた。でも、不思議と苦しくは無かった。


「どう?自分の価値観なんて吹っ飛びそうなほど綺麗でしょ」


 俺は静かに頷く。女性から向けられる視線も、この場に於いては辛くなかった。それは、桜の花が水のようだからかもしれない。俺の腹に落ちてきた花びらが身体に浸透していくようだ。


「うん、すごく…綺麗だ」

「ちゃんと言葉に出来るじゃん」


 憑き物が取れた気がした。すると、案外人間って単純な生き物なのかもしれない。出会ったばかりの女性に引っ張られて、連れて行かれた場所にあった桜で変わることが出来る。一時の変化に過ぎないかもしれない。でも、その変化が俺には嬉しかった。

 隣で桜を眺めている女性を見てみる。

 漆で塗られたみたいに艶のある長い黒髪が綺麗だ。長い睫毛に真っ黒な瞳の双眸、それに整った鼻立ちをしている。テレビに映って然るべき容貌をした女性であることに今更気が付いた。


「何か思ったら言葉にしてみたら良いんだよ。だれも百点満点の返事なんて求めてないんだから」


 ポツポツと呟くように女性が言葉を発する。


「何も言わないで押し黙っていたら誤解が生まれるだけじゃない?それで、嫌われたりでもしたら悲惨だよ。それは、何とも勿体ないことだと思わない?」


『お前、何考えてるのか判らないんだよ!どっか行けよ!』『気持ち悪い!近寄らないで!』中学の同級生の言葉が蘇ってくる。彼らは俺のことをどう思っていたのだろう。

 俺とは違う眼で、俺をどう見ていたのだろう。

 人の視線が怖くてビクビクしていて、感情を言葉にすることが出来なくて混乱する俺を…。


「君がどうしてここに辿り着いたのか、私には判らないけどさ」


 女性が俺の方を見る。


「でも、なんかほっとけなかったんだ」


 後ろに手を回して、月明かりみたいな笑みを零した。

 また、そよ風が桜の木を揺らす。桜吹雪を背景とした女性の姿は複雑な情趣で満ちているようだった。


「それじゃあ、私は自転車回収しなきゃいけないから。君は入学式に急いだ方が良いんじゃない。今ならギリギリ間に合うかもよ」


 女性から差し伸べられた手を取って起き上がる。俺よりも小さくて華奢な手だった。それでも、とても温かくて包容力のある手だった。

 そのまま石垣の隠し扉の方に向かう女性の背を見て、心惜しさを覚える。

このまま、何も行動を起こさずにあの人を見送って良いのだろうか。

後悔を…しないのだろうか。

 そう思った時には既に身体が動いていた。

 起き上がり、駆け出し、女性の手を掴んだ。


「どうしたの?」

「あ…あのっ…」


 また、頭の中が言葉で真っ黒になる。訊きたいことはたった一つだけなのに、その一つが無数に集合して、俺の言葉を遮る。まるで電灯に群がる羽虫のようだ。


「はいっ、深呼吸!」


 そう言われて、慌てて深呼吸する。


「大きく吸って~大きく吐く~。ほい繰り返す」


 酸素が入ってくる。そして、二酸化炭素を吐く。身体の力が抜けていく。何度か繰り返すと、群がっていた言葉の羽虫が崩れ、頭の中がスッキリする。息を吸う度に鼻腔をくすぐる爽やかな春の香気が心地いい。


「どう、言えそう?」


 ゆっくりと頷く。


「テンパったら深呼吸すると良いよ。頭の中がクリアになるから、君みたいに色々と考えすぎるタイプにはお勧め」


 女性は向日葵のような朗らかな笑みを咲かせる。辛くも何とも無いのに、思わず目を逸らした。胸の中がキュッと絞めつけられた気がした。


「名前…名前を訊いても良いですか?」


 束の間、俺の言葉に意外そうな表情を見せる。でも、直ぐにあの向日葵のような笑顔を咲かせると、指でピースサインを作る。


「雛原小春!君より一年先輩の春の似合う女だよ!」


 確かに、溌溂とした彼女の笑顔は咲き誇る桜の隣でも良く映えている。


「お…俺の名前は白鷺そう!あなたの一年後輩の…えっと…夏が似合わない男だ!」


 俺も何か言わなきゃと思って、名乗り上げてみたものの、何だよ夏が似合わない男って。まったくもってその通りなんだけれども、ネガティブ過ぎやしないか。


「何それ、面白い称号。爽君か、良い名前じゃん。うん、覚えた。それじゃあまたね。爽君」


 小春と名乗った先輩は石垣の隠し扉を回転させて、自転車を回収しに行った。

 春が来て、また春が来て、更に春が来る。

 一度目の春はこの桜だった。

 二度目の春は突然現れて、俺の何もかもを変えてしまいそうな小春という女性だった。

 なら、三度目の春は何処にある?

 荷物を傍の桜に投げて、俺は入学式が行われる体育館へと駆ける。

 白鷺のように大きく羽を広げて、海を渡るように。

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