元ヤンパパに恋しています 川琴ゆい華

『雨の日だって恋しています』



 午前七時。セットしておいたスマホのアラームが鳴っている。

 虎央こお はしかめっ面で『停止』をタップし、その電子音をとめた。スマホを持ったままの手をまくらに投げだし、ふらりと天井を仰ぎ見る。

 いまいち熟睡できていない気がするのは、夜中に何度か目が覚めたせいかもしれない。

 夜半過ぎから、雨が降り続いている。寝不足の原因は雷で、今はカーテン越しにも分かるほどの豪雨だ。

 虎央が左側を見ると、陽太ひなた はすやすや眠っている。深夜にいくら雷が轟いても起きなかったので、子どもの眠りの深さにはいつも驚かされる。その向こうの一心いっしん はさっきのアラームで目が覚めたらしく、ふとんの中でもぞもぞと動いた。

 ――えーっと……あ、そうだ、店は休み……。

 ぼんやりした頭が覚醒してくる。

 今日は第三日曜日で、明日までの二連休。だから陽太と一心と、近くに住む両親も誘って、遊園地へ遊びに行こうと約束していた。小学校低学年でも乗れるようなゆるいアトラクションが多いところだから、虎央もそこへ行くのは二十数年ぶりでちょっと楽しみだったのだが。

 ――この天気じゃ無理だなぁ。

 仰向けのままスマホを翳して持ち、『お天気アプリ』を開くと警報が発令されている。一日の時間毎の天気と降水確率予報によれば、夕方頃に雨がやむようだ。

「雨……けっこう降ってますね」

 一心の声が届いて、虎央は左を向いた。

「大雨警報発令中。午前中は降水確率が百パーだし、やむのは夕方みたい」

 真ん中に寝ている陽太を潰さないように、一心がごそごそとこちらへ身を寄せてくる。肘をついた腕一本で自身の上半身を支えるという、なんとも疲れそうな体勢だ。

「おはようございます、虎央さん」

「おはよ」

 ちらっと横目で見ると、一心は朝っぱらから眸がきらきら、わくわくした表情で「ご、ごごご、ご主人様っ」とでも言いそうな顔をしている。これは会話の流れからしても、決して、遊園地への期待の表れではない。今彼の声をアフレコするなら『おはようのキスがしたいです』だ。寝起きに一度してからというもの、隙あらばと毎朝狙われている。平日は慌ただしいので、たいてい「今はそんな場合じゃない」という空気に呑まれるのだが。

 虎央はしれっと、目線をスマホに戻した。

「この天気じゃ遊園地に行くのは無理だな」

「それは、はい。しかたないですね」

「出歩くのも無理っぽいし」

「そうですね」

 彼の返事が若干おざなりなのは分かっている。一心の興味の対象は、スマホで確認している天気予報でもないのだ。

「夕方は動けそうだから、『陽太が実家にお泊まり』だけはできそうだけど……それまで何すっかなぁ」

 今日は遊園地のあと、陽太だけ実家へ送り届ける予定だったのだ。月に一度はそうやって、一心とのふたりきりの時間をつくっている。もともとは陽太のことが大好きな実家の両親による発案だが、それに甘えさせてもらっているのだ。

 おかげで、三人で暮らすようになってからのほうが、一心とデートっぽいことをする機会が増えた。シネコンデートや買い物に行くこともあるけれど、自宅でだらだらしたり対戦ゲームをしたりというような、特筆するべき内容がまったくない『おうちデート』の日もある。

 まったりした気分で、ほっと脱力して。でも一心がいるから、そんな時間もしあわせだ。

 ――まぁ、もともと交際期間とか、なんかそういうのがないまま結婚したみたいなもんだしなぁ。

『結婚したみたいなもん』と自分で意識したとたん、気恥ずかしさで頬がかあっと熱くなった。なんてナチュラルに浮かれたことを考えてんだ、と自分で自分に突っ込む。

「……こ……虎央さ……」

 ひとりで照れくさくなるくらいのしあわせに浸っていた虎央は、一心の声にはっと引き戻された。

「あ、ごめん、えっと、なんの話してたっけ」

「この天気なので今日は何をしようか……ですけど、……虎央さん、虎央さん」

「なんだよ」

 何度も名前を呼ばれて、虎央はなんとはなしに一心のほうを振り向いた。

 すると目が合った一心が、盛大にとろけた顔をしていたのでぎょっとする。会話になんの脈絡もないので意味が分からず、だからちょっと気持ち悪い。

「なんだおまえのその顔」

「こ、虎央さんこそ……なんですかその、ぽわぽわふわふわしたかわいい顔……」

「ぽっ……?」

「なんか、今、すごく、すごくかわいいです」

「はい?」

 一心がさらに身を乗り出してきたので、虎央が怪訝な顔で「陽太が下にいること忘れてっだろ」と小さく抗議したところ、いきなり蟀谷の辺りにキスをされた。

「だっ……」

 不意打ちのキスのあとで一心は満足げにはにかみ、目を細めた。

 愛しさをいっぱいたたえたように濡れた眸で、その顔はうっかりどきんとするほどに男前だ。甘くて、柔くて、彼の内包しているやさしさが、外側まであふれている。だから虎央は言葉を続けられずに沈黙した。

「虎央さんがかわいすぎて『待て』ができませんでした……」

 一心がそうつぶやき、うなだれるようにして虎央の肩にもたれかかってくる。

「だって……なんか虎央さんって寝起きってだけでも常時より雰囲気が柔らかで、僕は毎朝きゅんきゅんしてるっていうのに、そんなしあわせにとろけたような顔をされると、もう、たまりません……」

 ひとりでしあわせにとろけていたのはたしかなので、虎央はうまく言い返せない。

「……きゅ……きゅんきゅんしてたのかよ、毎朝……ほんとにきめぇな」

 てれ隠しの『きめぇな』も一心には筒抜けで、むしろうれしそうにされてしまった。

「してます、毎朝」

 調子にのって、今度は頬にキスをされた。虎央のほうも満更でもない……というより、「もう少し、いいかな」という気持ちも湧いて、ほんの数ミリだけ、一心のほうへ向いてしまう。

 それからちらっと陽太に目線を落とす。陽太はあいかわらずぐっすり熟睡中だ。

 その一瞬に、一心のくちびるを虎央のくちびるにそっと押しあてられた。心臓をなでられたような、背骨をさすられたような、虎央がそんな心地になるのは一心とのキスだけだ。

 ただ重なるだけのキスに、途方もないくらいの幸福感を覚える。

 くちびるが離れて、虎央は頬をゆるめた。一心は何も言わないけれど、きっと同じ気持ちになっているはずだ。

「今日……雨で出られないし……三人で、時間のかかる料理とかしてみる?」

「時間がかかる……ってどんなのですか?」

「陽太が好きなカレーをルーから作るとか……ピザをピザ生地から作るとか。あとはパンを焼くとかもけっこう時間がかかる」

「あ、ルーから作るカレーいいですね。カレーを食べる用のパン? ナン? それも作るとか」

「いいね、それ」

 ふたりで真ん中の陽太を見下ろして、ほほえみあった。

「薄力粉も強力粉もスパイスもあるし、そのうち使うかもと思って買っておいたカレー用のブーケガルニもあるんだ。ちょうど買い出ししたあとだから食材が揃ってる」

「決まりですね」

 にこにこしていた一心が、カーテンの向こうの、窓を打つ雨の様子に気を向ける。ごうごうと風が唸り、バケツの水を思いきり浴びせるような雨音には少し怖さも感じるほどだ。

「ほんとにやむのかな、この雨」

「やまない雨なんてないだろ。『雨を憂うよりも、雨の中でどんなダンスをするかを考えて楽しめ』ってどこかのだれかが言ってたしな」

 虎央が返すと一心が目を瞬かせて、「そうですね」とほほえんだ。

「起きたら陽太も残念がるだろうけど。俺は今日を『今夜は一心とふたりきりだなぁ』って楽しみにして過ごすからな」

 虎央がベッドを出て言い逃げすると、一心がまた「ご主人様ああああ」な顔をして追いかけてきたから、虎央は笑った。

「ぼ、僕も楽しみです、今晩が楽しみです」

「おまえ、うれしょんしてんなよ」

「あ、はい」

「そこはおまえ、うれしょんを否定しろよ」

 思わず「はい」と返事をしてしまう一心に、また笑う。一心といると、本当に楽しい。

「だって僕もう、雨の中でダンスしてる気分です。そんな些末なこと気になりません」

 外は雨だけど、それならそれを一緒に楽しもうと思える家族がいるのはしあわせだ。

 リビングへつながるドアを開けたら、普通に愛しい一日がはじまる――。

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