かくりよ神獣紀 糸森 環


し上がれよ、曇天の恋伝説』


 

 八重やえたちの仮住まいの地である示々那ししなでは、この数日、くもり空が続いていた。

 空がいつもどんよりとしていて重苦しいからか、なんだか気分がぱっとしない。

 もやもやするのは八重ばかりではないようだ。地をけものや葉を広げる草木もまた、悄然しょうぜんとして見える。

 遠方へ視線を向ければ、密生する木々の向こうに、こんもりとした一際ひときわい灰色の雲がいている。まるで地上からもくもくとき上がっているかのようだ。小山のようでもある。


(あそこに湧いている雲、早く遠くへ流れていかないかなあ。なんでなのか、風が吹いてもあの場所から去ってくれないんだよね)


 八重は、むむと眉間みけんしわを寄せた。

 こういった、空全体が沈んでいるような天候のときは怪異かいいが発生しやすいので、ことさら注意が必要だ。

 住みの近辺でもわざわいが起きないようしっかり警戒けいかいしなきゃ、と八重が頭の中であれこれ算段をつけていると、隣を歩いていた亜雷あらいがこちらの顔をのぞきこんできた。彼の向日葵ひまわり色のひとみはこの曇り空の下でもきらきらしていて、見つめ返すとどうにも気恥きはずかしさが先に立つ。


「なんでさっきからそんなけわしい顔をしてんだよ? 目当ての杏子あんずを手に入れられなかったせいか?」


 こちらのれる心情などおかまいなしに、亜雷が疑問をぶつけてきた。


「うーん、そうだね。別の場所に行ったほうがよかったかも」


 愛想あいそ笑いとともに八重は答えた。

 八重たちは今、山中に分け入り、わらびや野菊などをりにきているところだ。

 ついでにドライフルーツ用の果物くだものも手に入れたかったのだが、場所が悪いのか、めぼしいものを見つけられないでいる。


(杏子がないから深刻な顔をしていたわけじゃないけど——それはともかく、この辺って妙に地面が乾燥かんそうしていて、変な感じだ)


 あまり実りのない山菜採りの途中、この一帯の守り神とおぼしきお地蔵じぞうさんめいた石像を見かけたので、八重は野花をそなえておいた。

 もっとたっぷり山菜が採れますように。……杏子も、できたらたくさん。


「なあ八重、本当は杏子以外にも気がかりなことがあるんだろ」


 お供え後、亜雷が再び八重をじっと見つめる。心臓しんぞうに悪いくらい、まっすぐな眼差まなざしだ。


「笑ってごまかそうとすんな。悪いくせだぞ、それ」


 彼は、八重に曖昧あいまいな態度を許さない。八重が本音をあばかれることにづいても、優しく見逃みのがしてくれない。


「あのなあ、とって食いやしねえからそこまでおびえるな。俺はおまえのうれいを取りのぞくためにいるんだぞ。ほら、なんでも解決してやるから、ちゃんと言え」


 ……などと、辛辣しんらつに切り込んできたあとで八重を甘やかすような発言をしてくれるが、彼のその言葉に他意はない。

 このもさもさした金髪きんぱつもまばゆい美男子を亜雷と言い、成り行きで同居する関係になったわけだが、彼は八重のような純血の『人間』ではない。半人半獣の『綺獣きじゅう』だ。

 そして前世は、本人の申告しんこくによると「たぶん神仏のたぐい」という大層な存在だったらしい。

 こちらの世界には、前世持ちの者がよく生まれる。

 その多くは成長するにつれ前世の記憶きおくが消えていくのだが、八重はなぜか今もはっきりと、以前の自分の人生を覚えている。といっても歴史的な重要人物だったわけではなく、少しばかり死ぬのが早過ぎただけの、平和な日々を平和に生きていたごく普通の社会人にすぎない。


「こーら。はよ言え。その海藻かいそう頭をもっと乱されたいのか?」


 亜雷は黒地のころもそでを払うと、無遠慮ぶえんりょに八重の頭に手を置いた。彼のかたにかけられている金色の天衣がふわふわと揺れている。

 八重は先ほどよりも深い皺を眉間に作り、ぶんぶんと頭を動かして亜雷の手を振り落とした。八重の長い黒髪くろかみは、空気の乾燥している日は解き放たれた綿毛のようにもわっと広がり、雨天の日は海中にただよう海藻のようにぶわっと広がる。年中反抗期の困った髪質だ。


「……最近ずっと曇りの日が続いているでしょ? ほら、あっちの住処に近い側とか。ああも重たげな灰色の雲が木々の上にいつまでも居座っていると、なんだか気がふさぐなあって思っていたんだよ」


 あん? と亜雷はまゆを上げて、八重が指さした方向を見やった。


「ああ、そりゃ、曇天どんてんさんがそこにいるんだから、晴天さんが来なくて当然だろ」


 その説明に、八重は目を丸くしたあと、少し笑った。

 亜雷のような、見た目も立派りっぱな青年が、天候をまるで生き物のように表現するのがおかしくもかわいらしい。


(あ、ひょっとして元神仏的な存在だったから気象関連にも自然と敬意を払ってしまう、っていうような理由があるのかもしれない)


 歩きながら横目で亜雷をうかがうと、こちらの視線に気づいた彼がちょっと意地悪な顔をして笑った。


「なんだ、こら。俺に曇天さんをれって言いたいのか?」

「言わない言わない。って、基本の考え方が物騒ぶっそうすぎない……?」


 八重はおののいた。この男、天候に対しても殺意高いな。


「斬れなくもねえが、ああいうのはあんまり斬るもんじゃねえと思うぞ」

「えっ斬れるの!? ……いや待って。普通は斬らない。斬ろうと思わない」


 亜雷は天仙てんせんめいた優雅ゆうがな見た目に反して脳筋のうきんな面がある。とりあえず斬ればなんとかなると思っているふしさえある。

 彼が帯刀している太刀たちもなかなかに曲者くせもので、実は自分の意思を持っているんじゃないかと八重は疑っている。だって夜になると頻繁ひんぱんにガタガタと音を立てながら移動してきて、八重の布団にもぐり込むのだ。この太刀はさみしがりやのペットかなにかだろうか?


「おまえが本気で斬れってめいじるんなら、いいぞ、任されてやるぞ」


 亜雷が軽い口調くちょうでそんな冗談じょうだんを言う。


「命じない」


 じとっと八重が亜雷を見上げると、彼は完全にいじめっ子の笑顔を作った。


(なんて悪い表情をするんだ……、でもやっぱり、顔がいい……!)


 八重は自分でもよくわからないくやしさをいだいた。


「ならいつまでも眉間に皺を作んな」

「皺が勝手に私の眉間に生まれたがってるんです」

「なんだそれ」


 八重の軽口に、亜雷は目尻めじりを下げて笑った。先ほどとは打って変わって、今度はやわらかい表情だ。


(だから、顔がいいと何度言えば……!)


 こんなにくやしく感じるのはきっと、きることなく見惚みとれてしまうせいだ。


「おまえが曇った顔をしてるから、曇天さんも仲間意識を持って去りがたくなってんじゃねえの? 笑えば、晴天さんも来る」


 そう言って亜雷は、八重の眉間やこめかみを指先でつつく。


「おら、笑えや」

「顔中つつかれて笑ったりしたら、私マゾすぎない!? ……だいたい、さっきは『笑ってごまかすな』って言ったのに今度は笑えとか、注文多いよ!」

「俺に対して作り笑いはすんなってことだ」

「人間、生きていれば作り笑いのひとつや二つ……」

「く、ち、ご、た、え! すんなや。おらおらおら」

「あっ、ちょっ、わっ」


 ちょっとしたじゃれ合いにすぎないはずだったが——いかんせんタイミングが悪かった。

 それと、亜雷は自分が脳筋系神仏男子であることをもっと自覚すべきだった。

 会話中、八重は、立ち並ぶ木々の太い根が地表に突き出ているような、足場の悪い場所を歩いていた。そういう不安定な体勢のとき、強めにこめかみをつつかれたため、大きくよろめいてしまった。

 さらにこのとき、目の前を大きなはちが勢いよく飛んでくるという偶然ぐうぜんが重なった。

 よろめいた八重を支えようとしたのだろう、亜雷がこちらに手を伸ばす。だがそれを、八重は片腕でぱっと払ってしまった。正確には、目の前にせまった蜂に恐怖きょうふしてとっさに追い払おうとした。

 手を振り払われて驚いた顔をする亜雷と目が合った。

 視線をわしたまま八重の身体からだは後方に倒れ——地表に顔を出している根の一部にどかっとかたを打つはめになった。


「いったーい……!」


 八重はうめき声を上げると、背中を押さえてその場にうずくまった。


肩甲骨けんこうこうつに思いっきり木の根っこがぶつかった!)


 予想外の痛みに、じわっと目に涙が浮かぶ。


「おい……」


 わずかに戸惑とまどった様子で呼びかけてくる亜雷を見上げたときだ。

 突然、太い木の根がうねる地表から、ぶわっと灰色のけむり噴出ふんしゅつした。


(なにこれ!?)


 目をく八重の身に、灰色の煙が触手しょくしゅのごとくしゅるっと巻き付く。


「うわっ……!」


 亜雷に助けを求める余裕もなかった。灰色の煙は形を変え、巨躯きょくおにを思わせるような輪郭りんかくを作った。八重の身は、その鬼の形に変化した灰色の煙の手によって軽々と持ち上げられた。

 灰色の煙の鬼は、勢いよく駆け出した。


「やめて、とまって……!」


 叫ん《さけ》でも、煙の鬼はとまってくれない。

 地を駆る牡鹿おじかのような速さで周囲の景色が流れていく。

 八重はその速度に目を回した。



 ——そしてどうやら少しのあいだ、気を失っていたらしい。

 はっとまぶたを開けば、八重は暗いうろの中に寝かされていた。

 


 しかし、そこにいたのは八重だけではなかった。

 すぐ横に、ぼろぼろのかさをかぶった痩身そうしんの少年がひざかかえて座っている。着用している衣も粗末そまつな麻で、袖の付け根が破れていた。それに、裸足はだしだった。手足のつめはすべて黒ずんでいた。


「……だれ?」


 八重は身を起こし、ふるえる声でたずねた。

 ここがどこなのか、さっぱりわからないが、先ほどの場所からそんなに離れているとは思えない。

 亜雷は助けに来てくれるだろうか。

 というより、地から湧き出てきたあの灰色の煙は何?

 なぜ八重をさらった?

 この少年は灰色の煙と関係がある?

 次々と浮かび上がる疑問に八重が混乱し始めたとき、その不気味な少年がしゃがれた声を聞かせた。


「俺に名を問うのか」


 少年は背を丸めるようにして座っており、なおかつ笠を深くかぶっていたため、顔の造作がわからない。正確な年齢ねんれいも不明だ。身体付きから少年と判断したが、小柄こがらな成人男性の可能性もある。

「名は、もう忘れてしまった。呼ぶ者がいないからな」

 少年がどこかぎこちなく答える。

 八重は、少年の様子をうかがいながら考え込んだ。

 もしかして彼は、名を忘れ、本質を見失って化け物に成りてるという『奇現きげん』にかかった者だろうか。八重が転生を果たしたこの世界には、そういう不可思議ふかしぎやまいが存在する。


「あんた、よかったな」


 と、少年は脈絡みゃくらくのない発言をした。


「よかったって、なにが?」


 戸惑う八重に、少年は答えた。


「一緒にいたあの男に暴行ぼうこうされていたんだろ。だから俺が助けてやった。あんたはもう安全だ」


 八重はしばらくぽかんとした。それから急いで少年の言葉を咀嚼そしゃくする。

 どうやら亜雷にからかわれていた場面を、少年は目撃もくげきしていたようだ。それでもって、あの他愛たあいないやりとりを、八重が暴行されていたと勘違かんちがいしている?


「ずっとここにいればいいよ」

「え、いや、あの。……私、帰らないと」

「なんでだ。あんたはあの男に突き飛ばされていたじゃないか」

「違う違う。誤解ごかいだよ。ちょっとからかわれていただけ」

「誤解なものか。あんたは痛がって、泣いていただろ」


 八重は口ごもった。

 肩甲骨を打った痛みで涙目になっただけだ。亜雷におびえていたわけではない。


「俺は知っている。人はつらいと泣くんだ。苦しいと泣くんだ。——前は、助けられなかった。だから今度こそは助けるんだ。そうだ、俺はうまくあんたを助けてやっただろ……」


 少年の、切実なひびきのにじむ声に、八重は困惑こんわくを深めた。


(私と、だれかを重ねているのかな)


 八重は躊躇ちゅうちょすえ、言葉を選んで尋ねた。


「前は助けられなかった、ってことは……。私以外にも、あなたのそばで、なにかの事情で泣いていた人がいたの?」


 先ほどの口ぶりからして少年は、たぶんその人を救えなかったのだろう。そういう無念さを、項垂うなだれている彼のせ細った身体から感じる。


「——気の弱いむすめがいたんだ」


 少年は、枯れ木を揺する風のような、かわいた声で言う。


「だれそれにいじめられては泣き、しかられては泣き……、いつもほろほろ泣いていた。俺は、娘をからかう奴らに腹を立て、追い返してやろうと思ってね。鳴いたりうなったりしたけれども、当時は身体がうんと小さかったから、いつもそいつらに腹をられ、仕返しされた」


 八重は少し首をかしげた。


「俺が怪我けがするたび、娘はよく泣いた。自分が弱いせいですまぬと。娘は、自分の弱さを最もなげいていた。だから俺は、娘が泣かないよう涙を飲んでやった」

「涙を?」

「そうだよ。俺は弱くも優しい娘が大好きだったから。悲しがるときも飲んだ、苦しがるときも飲んだ。なんだか心が晴れぬとふさいでいたときも飲んでやった。うれう心もすべて、俺は飲み続けた。身体が娘の涙の量でむくむくとふくれ上がり、灰色にまっても飲んでやった。すると娘はもう飲まぬでおくれと、また泣いた。以前の俺はふわふわした真っ白な身体だった、なのに自分のせいで灰色に変わってしまったと。俺はその涙も飲んだ。全部飲んでやった。娘が泣くのはいやだから」

「……それで、どうなったの?」

生涯しょうがいの涙を全部飲んでやったから、娘はもう泣くことがなくなった。でも俺は、その頃にはもう化け物に変わっていたから、おそれを抱いた土地の者にふうじられてしまったんだ」

「えっ」

「娘はそのとき、こう言ったそうだ。自分のせいで俺が封じられた、そして二度と会えぬのに、一滴も泣けぬこの身がつらいと」

「え……」


 なにそれ、切ない。

 八重は無意識に、ぐっとこぶしにぎった。


「その後、地を日照ひでりがおそった。俺を封じたからだろうか。娘は責任を感じ、みずから日照りをしずめるにえとなった」

「待ってつらい、すれ違いつらい」


 八重は両手で顔をおおった。

 少年は、一瞬いっしゅんだまったあとで、かすかに笑った。あいかわらず笠に隠れてしまって顔は見えないが、空気が少しやわらかくなったのがわかる。


「俺は、泣かなくなれば娘は笑えるようになると思ったんだ。でも娘は最後まで笑わなかった。どうしてだろう? 俺はなにかを間違ったんだろうか?」

「んんん~!」


 八重は返事に困った。

 間違っている……のだが、そうと指摘してきしたくない気持ちになる。


「あんたも、ああ、娘と同じような顔をする。どうしてだ、俺は小さくても大きくても役に立たないのか」

「あっ、あの、き、気持ちはうれしい! うん!」


 と、八重がわたわたしながらはげまそうとしたときだ。


「——ごたごたぐちぐちうるせえ! 俺の八重を攫っときながら、なにをなぐさめられようとしてやがる!」


 そんな空気を読まないいかりの声とともに、突然、洞の壁に黒いやいばがズドッと突き出てきた。


「ひっ!?」


 八重は驚き、飛び上がりそうになった。

 こちら側に突き出てきた黒い刃が、薄布でもくかのように、洞のかべをすぱんと斬り捨る。そこから一気に光がなだれこんできた。逆光の中に、きらきらとかがやく金髪が見えた。

 八重は唖然あぜんとした。黒太刀を片手に持った亜雷がそこにいた。


「八重もなあ、おのれを攫った野郎やろうと親しげに話なんかするんじゃねえ! とっとと一発なぐって、げてこい!」

「そんな無茶な!」


 助けに来てくれた、っていう感動が吹き飛ぶ!


「そこのおまえ、混同すんな、八重はその娘とやらじゃねえわ! 他の女が身代わりになるものかよ。八重を攫うひまがあんなら、その娘が生まれ変わってくるまでしつこく待ちやがれ。もしくは生まれ変わる前のたましいを見つけて奪いやがれ!」

「ほんと無茶を言うね!?」


 なんてことを言うんだと八重が愕然がくぜんとした瞬間しゅんかん、地鳴りがし始めた。

 亜雷が洞に亀裂きれつを入れたことで、この怪異——不思議な空間にゆがみが生じている。

 思わず目をつむったとき、亜雷にうでを取られ、ぎゅっと身体をき込まれた。

 亜雷のにおいを意識した直後、八重は急にひらめいた。


「ねえ、あの——!」


 と、顔を上げようとしたら、「うるせえ、おとなしくしとけ」とでもいうようにさらにきつく抱え込まれる。それと同時に、洞の壁ががらがらとくずれるような音も響いた。この不思議な空間が崩壊ほうかいする音だった。

 だから八重は、亜雷のむねにしがみついたまま、急いで声を張り上げた。


「ええと、白! もしかしたらあなたの名前、白っていうんじゃないかな!? いや、身体が小さかったなら、小雪、白玉とかかも!! あなたはそういう名前の子犬だったんじゃない!?」


 少年は、娘をからかう者たちに対して唸ったり鳴いたりしたという。でも身体が小さかったので蹴り飛ばされたという。——普通、人間の子どもを蹴り飛ばすだろうか。それに「鳴く」という表現も不自然だ。

 なら少年の正体は人間ではなく、娘にわれていた動物——身近なところで犬か猫ではないだろうか。なんとなく、猫よりも犬のような気がした。そして身体が真っ白でふわふわしていたともいう。そこから連想して、毛の色に関連した名前をつけるのではないかと八重は考えた。たとえば黒猫や黒い犬なら、クロと呼ばれるようにだ。


「ああそうだ、シロだ。私のかわいいシロ。娘は俺をそう呼んでいたっけ……」


 わん、と鳴く犬の声が洞の崩壊音に重なった。

 

 

 ——で、ばっと顔を上げれば、八重たちは元の場所に戻っていた。

 だが八重は、まだ怪異が継続中けいぞくちゅうではないかと疑った。というのも、あの不気味ぶきみな少年——正体はおそらく、かつて白い犬であったモノ——に攫われる直前まで、空はどんよりとした曇り空だったのだ。それが今は、まばゆいほどの晴天に変わっている。雲ひとつない。

 呆然ぼうぜんと空を見上げる八重のかたわらには、両手をこしに当てた亜雷が立っている。しかもひどく不機嫌ふきげんな顔つきだ。


「おまえなあ……、誘拐犯ゆうかいはんの人生相談なんかしてねえで、さっさと俺を呼ぶとか、わかりやすく悲鳴を上げるとかしろよ」


 と、説教を始める亜雷に視線を向けて、八重はやはりしばらく呆然としたが、とあることに思いいたってあわただしく立ち上がった。その勢いのまま駆け出すも、唖然と立ち尽くす亜雷のもとへすぐさまい戻り、彼の手をぎゅっとにぎる。


「亜雷! 助けに来てくれてありがとう! ——倒れる前に手を振り払ったの、誤解ごかいだからね! タイミング悪く蜂が飛んできたんで追い払おうとしただけだよ!」

「あ、ああ」


 少しは気にしていたのか、亜雷は驚いたように目を丸くしながらもこくんと素直すなおにうなずいた。


「それで私、さっき見たお地蔵さんもどきのところまでちょっと行ってくる!」

「は? はあっ!? おい!」


 八重は早口でそう説明し、木の根が突き出ているでこぼこした地面を走った。何度もころびかけてあたふたしていると、あとを追いかけてきた亜雷が「おまえ、とろいっ」と怒り、一瞬で大型の金虎きんこに変化した

 金虎は、八重の足に頭突ずつきした。いきなりの突撃とつげきに転倒しかけた八重の身を、器用に自分の背に乗せ、かろやかに駆け出す。


(乗せてくれるのはありがたいけど、できればもっと優しくして……!)


 金虎はそれこそ飛ぶような速さで八重を、あの地蔵もどきのもとに運んだ。

 不気味な少年に攫われる直前、八重が「たっぷり山菜が採れますように」と欲望よくぼうまみれのいのりをささげた地蔵もどきのところだ。

 八重は、金虎の背から下りると、こけむした地蔵もどきの前でひざをついた。どこか悲しげな顔をした石像だった。簡素かんそりだが、女性的な雰囲気ふんいきがある。


「……これって、身代わり地蔵みたいなものじゃないかな」


 八重は、人の姿に戻った亜雷の視線を意識しながらつぶやいた。

 あの不気味な少年——かつては白い犬であったモノが土地の者に封じられたのち、日照りが続いたという。凶事きょうじおとずれに責任を感じた娘は、贄となることを志願しがんした。そうして民の苦しみをすべて自分が引き受けようとした。それこそがシロを守れなかった自分のばつだというように。

 この石像は、シロの封印を後悔こうかいした土地の者たちが、娘に似せて作ったのではないだろうか。この一帯の地面が乾いているのも、娘の、涙を流せぬという特性に影響えいきょうされているためでは。だから雨……天の涙も寄せ付けない。

 八重は少しのあいだ石像を見つめたあと、自分のほおを両手で思い切りひっぱたいた。背後の亜雷がぎょっとした。


(いや、だって私、泣こうと思って素直に泣けるタイプじゃないんだわ……)


 痛みでじわっとうるみ始めた目元を指先でぬぐう。そのれた指で、地蔵もどきの目尻めじりれる。


「これが、涙の感触かんしょく。思い出してね。……それでいつか泣けるようになったら、きっと生まれ変われるよ。シロがあなたを待っている」


 ここは転生が当たり前に存在する世界だ。

 だからまた、彼らもめぐり会えるだろう。

 八重は立ち上がると、困った顔をしている亜雷をびしっと指さした。


「この人、元神仏の類いだから! ご利益りやくましまし。で、私の憂いを取り払ってくれるんだって。あなた方が巡り会えないままだと私、憂鬱ゆううつなんで、再会してくれないと困る。たぶん亜雷の神仏パワーでなんとかなる! たぶん!」

「……おまえのほうが無茶言ってるぞ」


 亜雷のぼやきを無視して、八重はとりあえず祈っておいた。亜雷にぬるい目で見つめられてしまった。


「そら、もういいだろ。行くぞ」


 亜雷に引っ張られて、八重は地蔵もどきのもとを離れた。

 そのとき、わん、という鳴き声が背後から聞こえ、八重は振り向いた。

 白い子犬が地蔵もどきのほうへ走っていった気もするけれど、見間違いかもしれない。


 

「それにしても、急に晴れたねえ」


 なんだかむっとしている亜雷のご機嫌うかがいもねて、八重はおそおそる話を振った。亜雷がちらっとこちらを見た。


「八重を取り戻すために曇天さんを斬ったんだ。晴れて当然だろ」

「……ん?」


 八重は、亜雷の顔と、もくもくとした灰色の雲が湧いていたはずの木々のほうを交互こうごに見た。


(……。あー。あー!! そういうことね。あのシロが怪異そのものと化して、憂いの『曇天さん』になっていたわけね!)


 天候を生き物のように表現するなんてかわいいな、と微笑ほほえましく思っていたが、亜雷は本質を言い当てていたらしい。


「……あの野郎、なんで何日もしつこく俺たちのそばにいるのかと不思議だったが、俺がおまえをしいたげているんじゃねえかとずっと疑っていやがったんだな。くそっ」

「あー……! そっかー!」


 もしかすると、シロが大好きだったという泣き虫の娘と八重は、年頃が同じだったのかもしれない。それで似たような立場に見えた八重を心配し、そばにいたと。曇天さんたるシロの影響で空もずっと曇っていたらしい。それは晴れも来ないはずだ。

 で、今、ようやく晴れたということは、亜雷に対する曇天さんの疑いも晴れた……?


「やっ、待って待って。斬ったらまずかったんじゃない!?」


 八重は青ざめた。シロのたましい消滅しょうめつしたんじゃないだろうか? そんなの後味悪すぎる。


「……神仏ぱわーでなんとかなる。たぶん」

「……天に届け、神仏パワー!」


 シロも生まれ変われますように。ほんとお願いします。

 八重は八百万やおよろずの神々に本気で願わずにはいられなかった。



「あれ、待って。曇天さんが存在するってことは……『晴天さん』もいるってこと?」


 八重はふと気づいて、独白どくはくした。

 亜雷は微妙びみょうな視線を寄越よこした。


「……もう余計なことは考えず、とにかくおまえは俺の手が届く範囲はんいにいろ。んで、蜂が来ようがやりが降ってこようが、二度と俺の手を振り払うんじゃねえ。つかそこねるのは好きじゃない」

「う、うん」

「それでも変事に巻きこまれたときは、真っ先に俺の名をさけべ。聞き届けてやる」

「うん」

「俺に見失わせるな」

「……うん」

「もうおまえの身体はおまえだけのものじゃねえ。半分は俺のだ」

「うん。……うん!?」

「それと怪異の人生相談をして憂いの気も取りのぞくんなら、しっかり金を取れ。医者だろ」

「——うん」


 そうだった。

 八重はこの世界のお医者さんとして生きるのだ。憂いの空を晴天に変えるように。



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角川ビーンズ文庫

『かくりよ神獣紀 異世界で、神様のお医者さんはじめます。』

糸森いともり たまき イラスト/Izumi

2020年5月1日発売!


【あらすじ】

異世界に転生したら、神様(怪異)の医者でした。世直し和風ファンタジー!


異世界に転生した八重は、化け物に襲われ、かつて神だったという金虎・亜雷を解き放つ。

俺様な彼に振り回され弟捜しを手伝うが、見つけた弟・栖伊すい異形いぎょうと化す病におかされており、なぜか八重が治療するはめに……!?


※くわしくはコチラから!

https://beans.kadokawa.co.jp/product/322001000113.html

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