レキシントン・カフェ

Gabriel Moli

レキシントン・カフェ

 ──世界のはては、ダンスフロアだ。 

 何度反すうしてみても、ふざけたメッセージだ。

〝ビートコンダクター〟なる人物が現れ、かれこれ半年が経とうとしている。

 人を食った尊大なガキのような呼び名のそいつは、そのイメージに違わぬ文字通りの獣だ。


 人々の自己の「意識」のクローン──〝ダブル〟を持ち、現実と仮想の二つの世界を持つ事が一般化した二〇三八年現在、仮想空間はもはや単なる別荘ではなく、誰もが持ちうる第二の人生となった。今や現実と仮想、その両方で個別の人権が付与され、仮想空間も法治の下にある。

 それだけ仮想が現実に肉薄しても、大抵の人間はどこかで線を引く。帰属意識は生身の肉体がある現実へと持ち、仮想は旅行や遊戯として位置づける。肉体を捨て生き続ける事は多くの宗教思想にとって問題をはらむほか、実存を実体に紐づける古典的な考え方の方がアイデンティティの基準を明確にしておけるからだ。

 だが一方で、現実を完全に放棄する者も多くいる。肉体を捨て、仮想世界の中で〝ダブル〟のみが生き続ける存在。それは「亡霊ゴースト」と呼ばれている。   


 俺たち「警視庁電脳保安局情報安定課」通称〝デンポ〟は、仮想世界での事件捜査を担う。

 数ヶ月前から、世界最大規模の仮想空間〝センス/ネット〟内で、亡霊ゴーストの消失が相次いでいる。現行法において亡霊ゴーストを消すには二つの手続きが必要になる。本人による公的機関への能動的死亡申請、それが受理された上で〝ダブル〟管理組織との契約解除。その二つの手続きを経ずに〝ダブル〟を消す行為は違法であり、特に肉体を持たない亡霊ゴーストの消失が他人の手で行われたものである場合、殺人罪が適用される。

 事件には二つの共通点がある。犠牲者はいずれも亡霊ゴーストで、手続き申請が行われていなかったこと。そして、犠牲者が消失する直前に何者かと接触し、その際の会話ログには共通の言葉が残っていたこと。「世界の涯はダンスフロアだ」と。

 これらを踏まえ、事件は同一犯による連続殺人として捜査がはじまった。

 仮想世界初のシリアルキラー誕生は瞬く間に噂となり、やつの残した体制を嘲笑うようなメッセージは五〇年代に隆盛したアメリカの都会的退廃主義と結びつけられ、いつしか〝ビートコンダクター〟と呼ばれるようになった。

 デンポの役目は、センス/ネット内に一般人として潜入し、やつに関する情報を集めることだ。街を歩き、話を聞き、時には職権を振りかざして絞り出す。自分の肉体かアバターかの違いだけで、古典的な刑事とやることは大して変わらない。この事件にしたってそうだ。仮想空間くんだりでジャック・ザ・リッパーの真似事なんて、むしろ時代を遡行しているとも言える。


 センス/ネット一九二五地区、二四D。俺は、八〇年代ニューヨーク市の南ブロンクスからマンハッタン島をモデルに作られたこの区域に存在するある店へ向かっていた。犠牲者たちは電脳ドラッグを摂取していた疑いがあり、複数の聴取から得られた取引場所の候補のひとつが、二四Dのナイトクラブ「レキシントン・カフェ」なのだ。

 二四Dはセンス/ネット内でも最も治安の悪い場所のひとつで、俺がここの担当に回されたのは、以前麻薬取締課マトリの刑事だったからだ。

 マトリ時代の俺は、仄暗い世界を中々要領よく渡り、それなりに美味しい思いをしてきた。だが、一課に別件で引っ張られた売人が俺に賄賂を渡していた事実をゲロしたことで、すべて終わった。解雇は当然ながら逮捕も覚悟したが、件は捜査の一環という建前で処理され、減俸と人員補強に急を要していたデンポへ転属という処分だけで事態は収束した。

 通りを進んでいると、アイスクリームの露店があった。ブルージーンズ姿の若い女性が、メニューを見ながら悩んでいる所だった。その姿を見て、俺は忘れかけていた彼女のことを思い出した。俺には妻がいた。若くして二人は一緒になり、若くして彼女は死んだ。俺は仕事に打ち込み、彼女を忘れようとした。出来るだけ冷酷非道な人間になり、彼女にふさわしくなかったのだと思い込もうとした。受け入れられない運命なら、自己暗示でごまかすしかなかった。

 おかげ記憶は次第に不鮮明になり、忘れていることだって多分たくさんある。

 

 出来るだけ彼女を見ないようアイスクリーム屋を通り過ぎ、二〇〇メートルほど歩くと街のメインストリートに出た。途端、辺りが暗くなった。かと思えば、どこからともなく行進曲が聞こえてきた。そして、どこから現れたのか通りの中央にパレードの大行列が行進を始め、にわかに祭り騒ぎになる。

 事前の情報では、この区域で催しの予定などない。

 先頭を歩く音楽隊の演奏に合わせて舞い躍る行列を見ながら、俺の脳裏には〝ビートコンダクター〟のメッセージがよぎった。

 ──世界の涯は、ダンスフロアだ。

 背筋が凍った。やつは他人の亡霊ゴーストを消し去るほどの一級クラッカーだ。仮想空間で何を起こせるとしても不思議はなく、もしこのパレードがやつの仕業なら、俺は既にそのテリトリーに入ってしまったことになる。

「こんにちは」

 背後からの声に、俺は慌てて振り返った。すると、あの若い女性がこちらへ微笑んでいた。その瞳を見つめ、俺の予感が的中しないよう祈りながら訊いた。

「お前は誰だ」

「変なの。この世界で名前なんて何か意味があるの?」

 彼女が向ける無垢で澄んだ瞳に耐えられず、俺は顔を背けながら続けた。

「いいから答えろ」 

「あっそ。私の名前は〝   〟よ」

 重要な部分を聞き取ることが出来なかった。ミュート対象の特定ワードなのだろうか。もしやと思い、俺はミュート対象から妻の名前を外した。それからもう一度名前を尋ねてみたが、やはり聞き取れないのは同じだった。

 やがて遠方で花火が上がった。空を見上げた彼女の顔を、俺は見つめた。明るく照らされたその表情に、不思議な懐かしさがこみ上げた。

「ねえ、こんな夜だし、遊ばない?」

 彼女に笑いかけられると、体の芯にぞくりとした震えが走った。彼女は答えを待たず、俺の手を引いた。

「ちょっと待て、一体どこに……」

 俺は言いかけた途端、閉口した。

 街が、風景が、一変したのだ。

 漆黒の夜の下で、街並はヴァイオレットやグリーンのネオンライトに彩られ、閑散としていたはずの通りは人で溢れかえる。荒廃とした空気は一転、人々の生気と欲望がない混ぜの眩い光景が見渡す限りに広がっていた。

「じゃあ、行こう」

 彼女に引かれるまま、煌めく街へ飛び込み、人の隙間を縫ってひた走った。

 通りがかった街角のショーウインドウに映る自分の姿が、一〇代に戻ったみたいに若々しく変貌していた。稚拙で甘くも、若さだけを取り柄に勢いのまま生きていて、その先の人生に何かしらの希望があると信じ込んでいたあの頃そのままの姿だった。

 彼女は、露店に並んだソーダのカップを手に取った。虹色に輝くそれを一口飲み、潮を噴くクジラのごとく爽快に息を吐き、ソーダの残りを俺に手渡した。勧められるがまま流し込むと、炭酸が鼻の奥をつんと抜け、奥ゆかしいライムの香りが想起させる青い日々の多幸感に、思わず目元が滲んだ。

 街の灯りと匂いは甘美な幻想のようであり、くすぐられるように胸の奥が躍る。ここでなら、どんな望みも叶いそうな気がした。

 彼女は笑っていた。繋いだ手の平から、彼女のおかしみが伝わってきた。つられて俺は、腹から笑い声を上げた。彼女がどうしてそうも楽しそうなのか、やっとわかった。

 いつかは忘れたが、言葉に頼らず、肌の感触や空気で誰かの思いを感じ取っていた頃があった。その鋭敏さを失うことで、鈍くなることで、俺は生き延びてきた。多分、ほとんどの大人がそうだ。

 失ったのは遥か昔で、記憶さえも曖昧だ。だがこの場所には、その長い時間を帳消しにする魔力があった。

 やがて、彼女はある場所へ辿り着いて立ち止まった。

「ここに来たかったんでしょ」

 彼女は地下へ降りる階段を指差した。入り口には〝レキシントン・カフェ〟のネオンサインが、べこべこと明滅を繰り返していた。

 先を進む彼女について、俺も階段を下りていく。

 階段の先の重厚な扉を彼女が押し開けると、中から大音量の音楽と熱気が飛び出た。

「ほら、入ろう!」

 意気揚々と彼女は、空間の奥へと誘う。

 巨大なスピーカーが打つ心臓を揺らすようなビート、脳髄へと染み渡るメロディ。世界で最も甘く、熱く、愛しい時間。それらに酔う大勢の人が踊り狂う空間は、正しく完璧な天国だ。歓び以外のものは、ここへはない。

 彼女は、フロアの真ん中で歩みを止め、俺へ向き直った。

「ねえ、今ならわかるでしょ、私の名前」

「名前……」

 彼女の目を見つめる。靄が晴れるように、頭がクリアになっていく。

 そうだ、やっと思い出した。


 一九の時、東京にあるレキシントン・カフェというナイトクラブで彼女と出会った。お互い金がなく、初デートはアイスクリーム片手に公園で五時間過ごした。二人は結ばれ、子が生まれた。忘れもしない、二〇二〇年の七月だ。だが間もなく妻は死に、俺は色々な仕事を渡って娘を育てた。俺がミュートしたもう一つのワード。それは娘の名前だ。聞きたくなかったのだ、もう二度と会えないから。なぜなら、俺はとっくの昔に死んでいる。そうだ、俺は刑事なんかじゃない。現実を忘却しこの世界で生きる存在。俺こそが、亡霊ゴーストなのだ。

 俺は彼女の名前を呼んだ。やっとわかった。俺は胸の奥からわき出す声で、たまらなく愛しい我が子の名を何度も、何度も、連呼する。何度も、何度も、何度だって。

「すごく、ものすごく探したんだよ、パパ」

 俺は彼女を抱きしめて笑った。

 彼女はそんな俺を見て、やっぱり笑う。

「パパ、いつも言ってたよ。ママに出会うために俺は生きてた。世界の涯はダンスフロアにあったんだ、て」

 そして、くい、と俺の両手を引いて、この世で一番魅力的な誘いをする。断ることなんてできない、そんな完璧な言葉で。

「──ねえ、私と、踊ろう?」

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レキシントン・カフェ Gabriel Moli @NERDYARD

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