乙女ゲームが始まらない~悪役令嬢は婚約破棄とヒロインを待ち望む~/富樫聖夜
――もしかして、私って悪役令嬢かしら?
レスフォード侯爵令嬢であるミリレイナが、ここが乙女ゲームの世界だと気づいたのは、十一歳の頃だった。
王妃主催のお茶会に招かれ、この国の第一王子ハーシェスの顔を見たとたん、まるで天啓のように自分の前世と、『
『
平民出身ということで遠巻きにされたり仲間外れにされたりしながらも、前向きに頑張っていたヒロインは、ある日学園の中庭で「メルル」という妖精と出会う。
このメルルとの出会いにより、ヒロインは学園で出会った攻略キャラと協力して「
そしてヒロインは一緒に世界を救ったその相手と結ばれ、物語はハッピーエンドで幕を閉じる――。
――なんてこと。『
王宮の庭に集められた高位貴族の子息や令嬢を前に、大人びた笑みを浮かべて挨拶をしているハーシェス王子は『
そして彼の傍に控えている少年たちもまた、『
冷たい美貌を眼鏡で覆い隠しているのは宰相の子息。いわゆる腹黒敬語キャラだ。
大柄な身体を持つ実直な剣士である騎士団長の子息。いわゆる脳筋。
令嬢たちに手を振って愛想を振りまいているのが外務大臣の子息。いわゆる軽薄キャラ。
小柄な女の子のような外見を持つ魔術師長の息子。いわゆるショタ担当。
そしてお茶会にはいないが、ヒロインと同じ孤児院出身の幼馴染と、隠しキャラでルートによってはラスボスにもなる隣国の第一王子。
『
どのキャラも容姿端麗で、おまけに身分が高いのは乙女ゲームの攻略キャラだからだろうか。とにかく目立つ一団で、お茶会に招かれた令嬢たちはみんな彼らに見とれていた。
そんな中、ミリレイナは溢れてくる記憶の奔流に目頭をぐっと押さえながら、たった今判明した事実をなんとか頭の中で整理しようとしていた。
ミリレイナの前世は日本で中堅企業の事務員として働いていた遠野香織という女性だ。
オタク気質だった香織は週末にはアニメや映画を見たり推しのグッズを買いにいったりとオタ活にいそしんでいた。もちろん恋人などいない。
ようするに喪女生活を満喫していたのだ。
――死因はさっぱり思い出せないけど、私がここにこうしてミリレイナとして生まれ変わっているのだから、事故にでもあってあっさり亡くなったのかもしれないわね。それとも病死かしら? 何しろ徹夜でゲームしたり、不摂生していたから……。
自分が死んで生まれ変わったという事実に意外なほど冷静でいられるのは、ミリレイナとして生きた記憶と意識がしっかり彼女の中で根付いていたからだろう。
――受け入れるしかないじゃない。私は現にこうしてここに生きているのだから。
逆に冷静でいられなかったのはここが乙女ゲームの『
――悪役令嬢とかってどういうことよ? しかも、よりによってハーシェス王子ルートに出てくるミリレイナとか!
『
ミリレイナはハーシェス王子攻略時に出てくる悪役令嬢で、美人だが高飛車で我儘な女性だ。ハーシェス王子の婚約者候補だからか、王子に接近するヒロインを許せず、何かというと貶めたり「
最終的には卒業パーティーの席で、大勢の前で断罪されてしまう。
――確かハーシェスルートのノーマルエンドでは修道院に送られ、グッドエンドでは国外追放になるんだった。うへぇ。冗談じゃない。
確かに香織だった頃、推しの声優が声を充てているというその一点だけでゲームを買い、まっさきにハーシェス王子をプレイした。
けれど、決してハーシェス王子というキャラが好きというわけではない。それどころかゲームの攻略を途中で挫折した原因がハーシェスルートの選択の難しさだった。
このゲーム、たった一つの選択肢を間違えるだけでバッドエンド行きになるという鬼畜仕様だったのだ。
序盤の選択を違えるとその後どうやってもリカバリーできず、二つあるバッドエンドのどれかになる。
何度もハーシェスに殺されるか監禁されて一生籠の鳥になるかのエンドばかりを見させられていたので、香織はゲームの攻略を途中で放り投げてしまった。
その後、ネットで攻略サイトを見ながらグッドエンドまでたどり着いたものの、すでにハーシェス王子一人でお腹いっぱいになってしまい、そのまま放置してしまったのだ。
ネットの情報だと、どうやらハーシェスルートの攻略はこのゲームの最難関だったようで、香織と同じように自力でグッドエンド目指して挫折した人が続出したらしい。
――未だに『ごきげんよう、ハーシェス殿下』の選択肢を選んだだけでバッドエンドルートに突入するのには納得いきませんから!
それ以外にも選ぶのに困る選択肢ばかりで辟易したことを覚えている。
おかげでこうして記憶が蘇った今、ハーシェス王子の姿を見るだけで背筋が寒くなる始末だ。
ついさっき前世を思い出すまで「ハーシェス殿下に相応しいのは私よ」などと悪役令嬢らしいことを思っていたが、そんな過去は葬り去りたい。ハーシェス王子に近づけば破滅が待っているというのに。
――そうよ、だったらハーシェス王子の婚約者候補にならなければいいのよ。ハーシェス王子だけじゃなく、他の攻略キャラたちにも近づかなければいい。
そうすれば悪役を脱却して平穏な人生を歩めるに違いない。
視線の先ではハーシェス王子がお茶会に招かれた令嬢一人一人と挨拶を交わしていた。
今日のお茶会に招待された貴族令嬢たちはみなハーシェス王子の婚約者候補として名前が挙げられた者たちばかりだ。この中から数年かけて少しずつふるい落とされ、十六歳で学園に入学する頃には最終的に数名に絞られる。
ゲームのミリレイナは婚約者候補の中でも最有力という話だったから、血筋や身分もさることながら、どれほど彼女自身が優秀だったか想像つくというもの。
それが嫉妬心から転落してしまうだなんて、辛すぎる。
――でも私はゲームとは違うミリレイナよ。婚約者候補などにはならない。たとえ候補になったとしても断罪は回避してみせる……!
ハーシェス王子に挨拶を交わそうと列をなす令嬢たちの後に続きながら、ミリレイナは密かに決心するのだった。
ミリレイナは知らない。断罪を回避しようとしてあがいたことで、ゲームのシナリオから逸脱してしまうことを。そして、ミリレイナのシナリオが変わったことで、ゲームそのものを変えてしまったことを――。
***
王妃主催のお茶会に出席して前世の記憶を取り戻してから五年後、クレモント学園に入学するために馬車に揺られているミリレイナの目は死んでいた。
「君と学園に通えるなんてうれしいな。二年間だけとはいえ、これからもっと頻繁に会えるからね」
「ソウデスネ……」
やる気のない相槌を打つミリレイナの向かいには、ややくせのある金髪に青い双眸を持つまばゆいばかりの美形がにこにこと笑いながら座っている。
十七歳になったハーシェス王子だ。
――なんでこうなった……。
二人が乗っている馬車はレスフォード侯爵家のものではない。立派な紋章のついた王家所有の馬車だった。
今朝、この豪華な馬車がレスフォード侯爵家に到着した時ミリレイナはあやうく卒倒するところだった。
「あの……ハーシェス殿下。どうしてわざわざお迎えに? 学園で会えるではないですか。それに殿下は新生徒会長として入学式に出席して挨拶をするはずでは?」
気を取り直して尋ねると、ハーシェス王子は頷いた。
「うん。だから朝のうちに僕の愛しい婚約者に会っておきたかったんだ。今日は学園に着いたとたん分刻みのスケジュールが待っているからね。君に学園内を案内する時間もない」
婚約者。そう婚約者だ。婚約者候補ではなく、この五年の間にミリレイナはハーシェス王子の婚約者となっていた。
――ゲームと設定が異なるなんて。一体どうなっているの?
ゲームでは相手の決まっている男性を攻略することに倫理上の問題があったからなのか、あくまで婚約者候補だった。これはどの攻略キャラも同じだ。
ハーシェス王子の婚約者候補はミリレイナを含めて三人いた。ゲームでは王子が卒業する時のパーティーでこの三人のうちの誰が王太子妃になるか発表されることになっていたのだ。
――ゲームではハーシェスはこの卒業パーティーでヒロインを婚約者に選び、ミリレイナは彼女を苛めたとして大勢の賓客の前で断罪されてるのよね。
それなのに、現実はすでにミリレイナはハーシェス王子の正式な婚約者である。これを覆すのはいくら王太子でも容易ではない。
――まぁ、ハーシェス王子の性格ならばそれでもからめ手を使って実行するんでしょうけれど。
扇で口元を隠しながらミリレイナは言った。
「お忙しい殿下のお手を煩わせるなんて恐れ多いことですわ。私のことは心配なさらずとも大丈夫ですのに」
「不埒な男が君に近づくのを牽制するために、君には僕という婚約者がいることを最初から示さないといけないと思ってね。入学初日から王家の馬車で僕にエスコートされれば目立つし、一目瞭然だろう?」
「そ、そうですか……」
「最初からしっかり牽制しておかないと、ミリレイナは魅力的すぎて、羽虫が惹き寄せられてくるからね。潰すのは簡単だけど、後始末が面倒なので虫除けは必要だと判断したんだ」
にこにこと笑いながら推しの声で不穏な言葉を連発するハーシェス王子に、ミリレイナは顔を引きつらせた。
――怖っ……! 笑顔なのに目が笑ってないよ、恐ろしいっ!
文武に長け、性格も穏やかで人格者、いつも笑顔で完璧な王子――と称されるハーシェス王子だが、その真の顔はいわゆる
なんでもこなせるために他人に対して興味を持てず、何にも無関心。外面がいいからみんな騙されているが、一歩間違えれば虐殺も平気で命令しそうな危うさがある。というか不穏な台詞を吐いているので十分危ない。
――そうよね、ゲームでのハーシェス王子もそうだった……。
だからこそ選択肢が異常に難しかったのだ。
ハーシェス王子だけではない。『
ヒロインはそんな彼らの心に寄り添い、心を開くことで「
――ヒロインちゃん、もうほぼカウンセラーよね。いや、それよりもみんな心に闇を持ちすぎじゃない?
一人や二人ならともかく攻略キャラのうち六人が難ありだなんて、どうかと思う。
ゲームや二次元の世界では病んでいるキャラでも楽しめるけれど、現実ともなると話は別だ。ミリレイナは受け答え一つにも気を使わなければならない男性の妻になる気はこれっぽっちもない。
――ああ、今さらだけど婚約者候補から抜けようとあがいたことが失敗だったわ……!
ミリレイナは悪役令嬢の運命を回避しようとするあまり、ハーシェス王子の性格を考慮することを忘れていたのだ。
この性格破綻者が王子である自分に
『面白い子だね、君は。気に入ったよ。君とならこの先の人生、退屈しないですみそうだ』
にっこりと笑顔で見下ろす美少年にビビり、逃げようとあがいたことで余計に執着され、気づいたら婚約者に指名されていた。
……解せぬ。
――いくら美形でも、声が推しの声優とそっくり同じであっても、無理! この人の妃になるのはごめんだわ!
香織の時にさんざん選択肢で苦労させられたからか、ミリレイナはどうしてもハーシェス王子に苦手意識があり、会話をするのも苦痛なのだ。とてもじゃないが、結婚など無理だ。
――でも、私には奥の手がある。そう、乙女ゲームのヒロインよ!
ハーシェス王子には見えないように、扇の内側でミリレイナはにやりと笑う。
入学式のこの日にハーシェス王子はヒロインと出会い、乙女ゲームの
――ヒロインがハーシェス王子を攻略してくれれば、私は悪役令嬢としてフェードアウトできる。
腹をくくったミリレイナは立派な悪役令嬢になるために、夜中にこっそり高笑いの練習までした。高飛車な笑いに昇華させるには意外に技術がいったが、今では完璧な高笑いを繰り出すことができる。
ゲームのミリレイナが行ったさまざまな苛めや妨害行為への準備も万端だ。
「でもね。僕が卒業するまではいいんだ。心配なのは僕が卒業した後、残り一年の間に君に悪い虫がつかないかだな」
ハーシェス王子はふっと憂い顔になった。
一歳年上のハーシェス王子はミリレイナより一年上の学年なのだ。
「この二年間で十分周知させれば大丈夫かもしれないが、不安だな。いっそのこと僕が卒業すると同時に君と結婚を――」
「ご、ご心配なさらずとも、私には殿下だけですわ!」
ぎょっとしながら慌ててミリレイナは言った。結婚が早まるなど冗談ではない。
ミリレイナの言葉にハーシェスはにっこりと笑った。
「もちろん君を信じているよ。僕の愛しい君。信じていないのは君ではなく、僕以外の男どもで……」
「あー、殿下、そろそろ学園に到着ですわね! 殿下と過ごす学園生活、とても楽しみですわ!」
不穏な台詞を最後まで言わせまいと、ミリレイナは話題を変えた。
「そうだね、僕もとても楽しみだ。社交界デビュー前に君が僕のものだと公に示せるのだから」
「……ソ、ソウデスワネ」
――つ、疲れる……。こうなったら一刻も早くヒロインちゃんにハーシェス王子のルートに入ってもらわないといけないわ!
ミリレイナは扇の内側でぐっと唇を噛みしめるのだった。
***
――おかしいわね。ヒロインがいないわ。
入学式の後、講堂から教室に移動するタイミングでこっそり抜け出して門の傍にきたミリレイナは周囲を見回して首を傾げる。
ゲームでは遅刻してきたヒロインが壁をよじ登って入ろうとして、偶然居合わせたハーシェス王子に見つかるというイベントが起こるはずだった。
貴族子女が通うハイソな学園物でその出会いはどうなのと思うが、攻略キャラたちに与えるインパクトは十分だ。
これがヒロインとハーシェス王子および攻略キャラたちの出会いのシーンなので、見届けようとこっそり見に来たのに。
木の陰から門や塀を窺っても、よじ登ってくる令嬢の姿などない。側近(攻略キャラ)たちと見回りに来たハーシェス王子もいない。
――あれぇ……? おかしいな。
ここでの出会いがなければ乙女ゲームはどうなるのだろうか。
「ミリレイナ」
突然後ろから声をかけられて、ミリレイナは飛び上がった。聞き覚えのある声に慌てて振り返ると、いたのはハーシェス王子と側近たちだ。
「ハ、ハーシェス殿下っ」
「教室にも戻らず、こんなところで何をやっているのかな、ミリレイナ?」
ハーシェス王子の青い双眸に冷たい色が走る。ヤバいと感じたミリレイナはとっさに門を指さして言った。
「す、すみません。講堂から戻る途中、門から誰かが中を窺っているのが見えまして……気になって……」
「なんですって? 不審者が?」
腹黒敬語眼鏡――もとい、宰相の息子のクラフトが顔色を変える。
「それはゆゆしき事態だな。すぐに警備の者に伝えよう」
脳筋剣士……ではなく騎士団長の息子のヴァルガーが重々しい口調で言う。
ミリレイナはとっさについた嘘の話が大きくなっていくのを感じて慌てて口を挟んだ。
「もしかしたら、私の気のせいだったかもしれません。お手を煩わせるのは気が引けます」
「いやいや、ミリレイナ嬢。万が一ってこともあるよ。用心するに越したことはない」
軽薄キャラこと外務大臣の子息、キーステンがヴァルガ―を振り返る。
「ヴァルガ―、警備には僕が伝えてくる。君は万が一のことを考えて殿下とミリレイナ嬢を安全に教室に送り届けてくれ」
「そうですね。この学園の警備体制については私もかねてから不安を感じていました。いい機会です。私は学園長に事の次第を報告してきます。ルーク、君はヴァルガ―と一緒に殿下とミリレイナ嬢をお守りしてくれませんか」
腹黒敬語眼鏡がショタ担当……もとい、魔術師長の息子であるルークに声をかけると、彼はどんと胸を叩いて請け負った。
「もちろん、まかせて。万が一のことがあっても、天才魔術師である僕が殿下たちには指一本触れさせないから!」
――えええ、どうしよう。たんなる嘘なのに、こんな大事になるなんて……!
だが今さら嘘でしたなどと言えるはずもない。
「さぁ、おいでミリレイナ。教室まで送るよ」
ハーシェス王子に手を差し伸べられたら、従わないわけにはいかない。
「は、はい」
ミリレイナは未だに現れないヒロインを気にしつつ、ハーシェス王子に手を取られて、門から離れた。
その日の夜、不審者が捕まったとわざわざハーシェス王子がレスフォード侯爵邸にまで報告にやってきた。
「どうやら身代金目当てに貴族令嬢を攫う計画を立てていたらしい。下見がてら学園に来て門から窺っていたようだ。君が不審者を見つけなかったら、もしかしたら大事になっていたかもしれない。学園長も感謝していたよ」
「お、お役に立ててよかったですわ」
内心冷や汗をかきながらミリレイナは答えた。
信じられないことにミリレイナがとっさに出た嘘が真になってしまったようだ。
――私は単にヒロインとハーシェス王子の出会いを確認したかっただけなのに……。
この展開にはミリレイナも驚きを隠せなかった。
「でもね、ミリレイナ、今度同じようなことがあったら、決して一人で様子を見に行こうとしないでくれ。心配なんだ」
ハーシェス王子がミリレイナの手を取って憂い顔で告げる。
「あまり心配をかけると、僕は君を閉じ込めてしまいたくなるかも――」
「決して一人にはなりませんわ! ええ、誓いますとも!」
――怖っ!
ゲームでさんざん
薄氷の上を歩いているような気持ちでハーシェス王子を宥め、やっと納得して帰っていった後は疲労感だけが残った。
侍女を下がらせ、ベッドの上に身を投げ出してミリレイナは盛大なため息をつく。
――ああ、一刻も早くヒロインちゃんにハーシェス王子を引き取ってもらい、精神的緊張から解き放たれたい……。
「……でもどうしてヒロインは今日現れなかったのかしら?」
入学式に出会いイベントがあるというのが記憶違いだっただろうか。
――いいえ、オープニングムービーで見たのだから確かだわ。推しの声が動いてしゃべっているシーンは何度も繰り返して見たのだから、間違えるはずがない。
「じゃあ、どうしてヒロインは現れなかったのかしら……まさか、私が候補から婚約者になったからシナリオが変わったなんてことは……」
嫌な予感を覚えてミリレイナはフルっと震えた。
***
入学式から一ヵ月後、ミリレイナは信じたくない事実をようやく認めた。
学園にヒロインがいない。
この一ヶ月間、ミリレイナはピンクブロンドという特徴的な外見を持つヒロインを学園中探した。けれど、誰もそんな女性は見たことがないという。
ヒロインを養女にしたはずのローゼイン男爵家は存在するものの、娘はいないという話だ。
――そんな……、だったらヒロインはどこへ?
いないといえば、攻略キャラの一人であるヒロインの年上の幼馴染も存在しない。
確か彼は男爵家に養女に貰われていったヒロインを心配して学園の保健医として赴任してきているはずなのに。医務室にいたのは攻略キャラとは似ても似つかないおじいちゃん医師だった。
――一体、どうなっているの?
業を煮やしたミリレイナは人を使って『
ヒロインがいた孤児院の名前を覚えていたために、調査はあっと言う間に終わった。
「……な、なんですって……?」
報告書を読んだミリレイナはわなわなと震える。
「こ、これじゃ、乙女ゲームが始まらないじゃない……!」
***
王都にある下町の一角にある、小さくて粗末な家。
がっしりとした体格の、茶色の髪をした青年がやってきて小さな戸を叩く。するとすぐに戸が開き、ピンクブロンドの可愛らしい容姿の女の子が現われた。
「アレンお兄ちゃん、お帰りなさい……!」
「ただ今戻ったよ、フローリア」
満面の笑みを浮かべて迎えるヒロイン、フローリアを青年が愛おしそうに見つめる。
「もうお兄ちゃんじゃないだろう?」
「あ、そうだった。お帰りなさい、あ、あなた」
頬を染めてもじもじと答えるフローリアは超絶に可愛かった。
「ただいま、俺の可愛い奥さん」
「も、もうやだ、お兄ちゃ……あ、あなたったら、恥ずかしい」
「本当のことを言って何が悪い」
「んもう。それより、早く入って。往診疲れたでしょう。お昼ごはんできているから、一緒に食べましょう」
「ああ、ありがたい。フローリアの作る飯は天下一品だからな」
「お兄ちゃんたら、ほめ過ぎ。……あ、またお兄ちゃんって言っちゃった」
テヘと笑うフローリアの額をアレン――ゲームでは学園の保健医であったはずの攻略キャラは、指でついた。もちろん、優しくだ。
「こらこら。そろそろ慣れてくれなきゃ困るぞ。ここにいる俺たちの子どもになんて説明したらいいか困るだろう?」
アレンは優しい手つきでフローリアのまだ平らなお腹を撫でる。どうやらフローリアはアレンの子どもを身ごもっているらしい。
「赤ちゃんが生まれるまでにはちゃんと呼べるようになるもの」
「はは。そうだといいな。さて、いい加減中に入ろう。フローリアも身体を冷やしちゃだめだからな」
アレンとフローリアは笑い合いながら互いの背中に手を回し、小さな家の中に入って行った。
その様子を塀の陰から見つめていたミリレイナはぐっと歯を食いしばる。
――甘ーーい! ……じゃなくて、ずるーい!
孤児院を出たフローリアは幼馴染で町医者をしているアレンと結婚していた。もちろん、男爵家の養女にもなっていない。それ故に学園にも入ってこない。
どうやらミリレイナがハーシェス王子と正式に婚約したことで、野心溢れるローゼイン男爵に無理やり養女にされるということもなかったらしい。
乙女ゲームのヒロイン・フローリアは貴族の仲間入りをして学園に通うこともなく、かねてから好意を抱いていたアレンと結ばれた。下町の一角にある小さな家に住み、来年には新しい家族が誕生する予定だ。
――ちょっとちょっと、ずるくない? 唯一まともな攻略キャラのアレンをゲットするとか羨ましくて妬ましすぎる……!
ヒロインの幼馴染のアレンは心に闇を抱えることなく、出生の秘密も複雑な生い立ちもないという、このゲームでは
彼のバッドエンドはヒロインを庇って死ぬエンドか、ヒロインのために身を引いて姿を消すエンド。ヒロインを傷つけたり監禁したりしないとてもまっとうな攻略キャラなのだ。
――個性に欠けるとか言われて人気なかったけど、本当に結婚するならアレン一択だったのに! ずるいぞ、ヒロイン! 完全に勝ち組じゃないの!
報告されても信じられなくて、思わず確認しにお忍びで来てしまったことをミリレイナは後悔した。
今さらどうやってもフローリアを学園に通わせることは不可能だ。
――いや、本当にどうするの。ヒロイン不在じゃないの……。
ヒロインが不在ということはハーシェスルートになることもなく、ミリレイナが婚約破棄されることもないということだ。
――ヤバい、このままだとあの性格異常者の妃に……。
「ミリレイナ」
突然、聞き覚えのある声と共に肩を叩かれ、ミリレイナは仰天した。振り向かなくとも、今後ろにいるのが誰か分かってしまうのが辛い。
足がガクガクと震えた。自分が今にも割れそうな氷の上に立っていることを自覚したからだ。
「ねぇ、こんなところで一体君はなにをやっているの?」
ハーシェス王子はミリレイナの耳元に唇を寄せて小さな声で尋ねる。
――こんなところで何をやってる? その質問は私がしたいわ! どうしてあなたがこんなところにいるのでしょうか!
「あの家に入る男を見ていたようだね? もしかしたらあの男に気があるの? もしそうなら、生かしておけないけれど?」
アレンの命の危機が訪れたのを察し、ミリレイナは焦って振り返る。するとガラスのように無機質な青い双眸と目が合って、心臓が止まりかけた。
――ヤバい、殿下の目に光がない!
こんな彼を以前にも見たことがある。ゲームで、バッドエンドその2でヒロインを監禁しようとする彼がこんな目をしていた。
――私、ピーンチ! ついでにアレンもピーンチ!
「ち、違いますわ。私が見ていたのは奥様のフローリアの方ですの!」
焦りながらミリレイナはもっともらしい嘘をでっち上げる。
「フ、フローリアとは、以前
するとみるみるうちにハーシェス王子の目に光が戻る。
「そうか。それならいいんだ。それで彼らを見て君は安心できたかい?」
「も、もちろんですわ。フローリアが幸せそうで安心しましたわ」
「ならもういいだろう? さぁ、馬車を待たせてある、おいで」
ハーシェス王子はミリレイナの肩を抱き、路地の奥に止めてある馬車の方に彼女を促す。
「あの、でも私も家の馬車を待たせていて……」
「御者に命じて帰させた。侯爵家へは私の馬車で送ろう」
その有無を言わさない口調に、逆らっても無駄だと悟ったミリレイナは大人しくハーシェス王子に従った。
馬車に乗ったとたん、ハーシェス王子はミリレイナのくるりと巻いた銀色の髪のひと房を掬い上げ、弄びながら言った。
「ミリレイナ、いくら護衛がいるからといって君のような身分の女性が下町に来るのは危険だよ。もう二度としないでくれ」
「は、はい。もうしませんわ」
「そう願うね。さもないと――」
急にひたとミリレイナを間近で見下ろしていたハーシェス王子の目が光を失う。
「僕はきっと君を城の一室に閉じ込めてしまうだろう。僕以外もう誰もその君の美しい紫の目に映さないためだけに」
「…………っ……」
ひくりとミリレイナの喉が鳴った。
――監禁エンドがきそう。ヤバい……!
「も、もう二度としませんわ。誓います……!」
何度もそう誓って、ミリレイナはようやく光のない目から解放された。
――つ、疲れた。電源をぶちっと切ってゲームを終わらせられたらどんなにいいか……。
だが、この世界で生きているミリレイナは勝手にゲームオーバーすることができない。それができるのはきっとヒロインだけだ。
ややあって、ミリレイナはおずおずとハーシェス王子に尋ねる。
「ハーシェス殿下がいつからあそこにいたのか知りませんが、私の友人であるフローリアをご覧になったのですね?」
そう、何気にうやむやになってしまったが、今日初めてハーシェス王子は乙女ゲームのヒロインのフローリアに会ったのだ。……まぁ、見ただけで会って会話は交わさなかったが。
「その、彼女のこと、どう思いました? とても愛らしい女性でしたでしょう?」
半分期待しながら印象を聞いたのだが、返ってきたのは予想通りの答えだった。
「別に何も思わないね。僕は君の方が好みだ。この銀色の髪も、神秘的な紫の目も、僕に怯えながらもしっかりと見返すところとか、実に興味深い」
「さ、さようですか……」
がっかりしながらも、ミリレイナは心のどこかでハーシェス王子の回答に安堵していた。
――どうしてかしら? さっさと婚約破棄してしまいたいのに、ホッとするなんて。
「ねぇ、ミリレイナ」
ハーシェス王子はミリレイナの頬にそっと手を添えた。
「何を考えてその質問を僕にしたのか知らないが、ミリレイナ、覚えていて。僕は君を手放す気はないんだ。ゲームのシナリオなんかに邪魔させるつもりはないから、そのつもりでね」
「――え?」
ミリレイナの目が大きく見開かれる。
「殿下……?」
何もかも見透かすような青い目が、ミリレイナを見下ろしていた。
この世界が乙女ゲームのシナリオから逸脱し始めたのはミリレイナのせい。
ずっとそう思っていたが、もしかしてそれは違うのかもしれない。
――ハーシェス王子が私を婚約者に選んだことが、きっとすべての始まり。
***
――だからといって大人しく私が婚約すると思ったら大間違いよ!
乙女ゲームはシナリオから逸脱してしまったが、うっかり間違えてハーシェス王子がどこかの男爵令嬢と真実の恋に落ちることもあるかもしれない。
――まだ殿下の卒業まで二年あるもの。それまでに婚約破棄されるように私は悪役令嬢としての役柄を磨かなければ。
目指せ婚約破棄&断罪。目指せ国外追放処分!
「今日はいい天気ですわね、ミリレイナ様」
「ええ、そうですわね」
攻略キャラたちの婚約者……つまり悪役令嬢仲間と学園ですっかり仲良くなったミリレイナは、彼女たちと中庭の一角のテーブルに陣取ってお茶会を開いていた。
――ああ、とりあえずは平和だわ。
ところが平和を享受していたミリレイナの耳に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「どうしようめるる。僕の姿が見える女の子が見つからないめるる。困っためるる」
――こ、この特徴的な口調と声は……!
声にした方に視線を向けると、中庭の一角に猫ともうさぎともとれるデフォルメされたぬいぐるみが浮いていた。
……いや、ぬいぐるみではない。『
――そういえば、学園でヒロインのフローリアがメルルと遭遇するイベントが起こる時期だったわね。
自分の姿が見える相手を捜して中庭に出現したメルルは、そこで一人で食事をしていたフローリアと出会うのだ。
そこまでが『
「困っためるる。僕の姿見える子がいないめるる」
キョロキョロと周囲を見渡すメルルの視線がこちらに向かいそうな気配を感じ、ミリレイナはとっさに視線を逸らして、見えないフリをした。
だってミリレイナはヒロインではない。悪役令嬢なのだ。
メルルが見えることから、もしかしてヒロイン役も可能かもしれないが、それは遠慮したい。
――世界の危機? ああ、大丈夫よ。だってヒロインさえいなかったら魔王は復活しないもの。
あの自称妖精の「メルル」の正体は、隠しキャラで魔王の血を引く隣国の第一王子メルヴィンの切り離された意識が形を取った姿なのだ。
自分の中に流れる魔王の血に怯えるメルヴィンは、日ごと大きくなっていく魔力に危機感を覚えて、彼の力を封印することができるという「聖なる宝石の乙女」の出現を待ち望んでいた。
けれど乙女を捜しに行きたくても、彼は力を抑えるための塔に幽閉されて動くことができない。
そこで誕生したのが自称妖精の「メルル」だ。
メルルはこの国の学園で「聖なる宝石の乙女」であるフローリアと出会う。そして彼女に彼の強大な力を封印できるほどの魔力を持った人間の心の結晶――「
――でも、魔王の力を抑えきれずに魔王化してしまうシナリオはメルヴィンルートのみ。それも、ヒロインと他の男性との間を嫉妬したことがきっかけだった。
他の攻略キャラのルートではメルヴィンはちゃんと魔王の力を抑えることができている。メルヴィンルート以外では、魔王復活を画策して「
つまりヒロインさえいなければ世界は危機を迎えないのだ。
「聖なる宝石の乙女はどこにいるめるる。もっと遠くを捜さなければいけないめるる」
ここに自分の姿が見える女性はいないと判断したのか、メルルの声が次第に遠ざかっていく。
――ごめんなさい、メルル。でもきっとどこかであなたの姿が見える女性と出会えるわよ。
けれどそれはきっと『
この学園で繰り広げるはずだった乙女ゲームが始まることはない。
きっと、この先もずっと――。
***
――その後の話をしよう。
二年間の奮闘もむなしく、ミリレイナはハーシェス王子の卒業と同時に結婚し、王太子妃になった。……なってしまった。
実はミリレイナと同様に前世の記憶があったハーシェス王子は名実共に手に入れた
「前世の妹がやっていた乙女ゲームに酷似しているなってずっと思っていたんだ。で、ミリレイナと出会って確信した。ここはゲームの世界、あるいはとても酷似している世界なんだって。でもゲームと異なり、僕はヒロインみたいな純真そうな女の子はタイプじゃないんだ。プライドが高くて打てば響くように反応してくれるミリレイナのような女の子の方がずっと好みでね。おまけに僕に対する態度からゲームのことを知っているってすぐに分かったよ。……ふふ、お茶会で顔を合わせた時からずっと君を手に入れようと思っていたんだ。君がたとえハーシェス王子が好みじゃなくてもね」
「……ソ、ソウデスカ」
――最初から勝ち目なんてなかったのよね。だってハーシェス王子はゲームの内容を知っていて、本編が始まらないように動いていたんだもの。
「だからね、ミリレイナ。ゲームのようなバッドエンドになりたくないなら、そろそろ諦めて欲しいね。君は僕のものだよ、この先もずっと」
ミリレイナは執着心だだ漏れのセリフを聞いて小さなため息をつくと、明後日の方を向いて答えた。
「……ゲームのグッドエンドのようにしてくれるのであればいいですわ」
――きっと私も本気でこの人から逃れようと思ってなかった。……だって推しの声だし、ゲームを買ってまっさきに攻略しようとしたのはハーシェス王子だったんだもの。
なまじ前世の記憶とゲームの知識があったためにアレンが一番いいと思ったけれど、本来の悪役令嬢ミリレイナの好みはハーシェス王子だ。
悪役令嬢ミリレイナとしての好みは当然今のミリレイナにも受け継がれているわけで――。
――……そのことを、ハーシェス王子にいつ告げようかしら。
ミリレイナはそんなことを考えながら、ハーシェス王子の胸の中で目を閉じた。
(完)
――次回予告だめるる!
悪役令嬢が婚約破棄されたことをきっかけに反撃するゲーム『新・
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