壱之弐 蓮の花

「なんだ、今更気づいたのか」


 外張は切に解せぬと首を傾げた。ぐうの音も出ないが敢えて申し開きをするならあまりに体に馴染んでいて違和感が皆無だったのだ。とは言えこれについては狐霊にも言い分があった。


「逆に聞かせて欲しいのだけど、こんなに長くなるまでどうして誰も髪の世話をしてくれなかったのです」


 不平、というほどでもないが問いただすように訴える。なのになぜか真白に嬉しそうに答えられた。


「だって似合ってたしもったいなかったんだもの」


 狐霊はその言葉の根拠を探るべく、ひとたび過去を振り返る。生まれてこのかた壱度だって女らしいと言われたことがなければ性別を間違われたこともない。可愛らしいと言われたことはあったけど、それは背格好や年齢にそぐわしいという意味でだ。だから一層、揃ってうんうんと頷く彼らの姿に困惑した。


「まあ見てみなよ」


 唯衣は立ち上がると、和箪笥の上置の小引き出しから手鏡を取り出して狐霊に手渡した。狐霊はそれを顎を引いて狐疑逡巡ののちに受け取り、彼らの期待感にも似た視線を不審に思いつつも鏡を覗き込んだ。


「……ほわぁ」


 それはもう、言葉を失った。そこには慣れ親しんだ少年ではなく、見覚えのない美しい顔立ちの少女の姿があったのだ。

 髪だけでなく眉や長い睫毛もすべて銀色。糸を引いたようでも鈴を張ったようでもある目元も、この国の生まれではないような神秘的な雰囲気を纏っており、傍目に見ればその姿は儚げで、触れれば容易く砕けてしまう薄氷か寓話書誌の中で見た精霊様のようだ。あわや惚けてしまいそうになった時、ふと気がついたがこの場にいるものの中で唯一、狐霊だけが取り残されたように幼いままだった。


 鏡をあれこれ角度を変えてその顔をまじまじと見つめる。頬を摘んでみたり変顔をしてみたりすると鏡の中の少女も同様の所作をする。確かに鏡を見るという習慣は全くなかったので自分の顔をちゃんと覚えていたわけではないが、果たしてこれほど明瞭に女々しかっただろうか。

 参年という月日をかけて伸びた髪が助長しているせいもあるかも知れない。ともかく男であれば、いや男でなくとも虜にしてしまいそうな浮世離れした美貌には、茫然と舌を巻くだけでは不足だった。

 自分の姿に見惚れそうになるなんて恥ずかしいにもほどがあるので、狐霊は咳払いし努めて冷静を装った。


「ま、まあ……、おもむきがないでもない、ような。……えらく嗜好が倒錯的な気がするのは、なんか釈然としないけど」


 他人事のように鏡の向こうの相手を評価する。きっとこれも首輪の影響に違いない。話によればこの姿は急に変身してしまったのではなく、経年とともに徐々に変化していったのだそうだ。そのため狐霊を定期的に見舞っていた面々にはさして違和感がないらしい。

 真白は懐旧に耽溺するように目を細めて言った。


「そっかぁ、狐霊はお気に召さないかぁ」


「お気に召さないっていうか……だって僕、男なのに!」


 どうせなら、条治のように屈強そうな体格になりたかっただけにこの惨状を受け入れがたい。なのにも関わらず外張はおろか初子や、いっそ三春よりも小柄で華奢ではあるまいか。

 ぷくっと頬を膨らますと、馬鹿にするみたいに外張に真似をされた。悔しいが、にらめっこに負けて笑ってしまった。それにつられて皆も笑う。条治も小さくながらそれに加わっている。心では嬉しく思いながら、口では冗談めかしく文句を垂れた。


「ひっどー。おじさんも、あんまり笑うともう魚買ってあげないんだからな」


「ははは……ああ、ああ、そうだな」


「?」


 どこか煮え切らない返事に狐霊は疑問を抱く。ところが首を傾げているのは狐霊のみで、周りは合点がいっている様子である。


「そっか、みよくんは知らないもんね。条治おじさんが漁夫をやめたの」


「嘘、え、だって!」


 狐霊は素っ頓狂な声を上げた。今日一番の驚愕かもしれない。

 条治にとって漁は生業というだけに留まらないはずだ。水溜りの向こう側に並ならぬ執着を持っていることは大丹波の誰もが知っていることだ。それを辞めたというのは俄に信じがたい。当然、狐霊は説明を要求した。


 条治は口をもごもごと動かすと、やがて話し始めた。


「まぁ……なんだ。自分の口から話すのも差し出がましい気がするが、心配しなくても吟日を探すのを諦めたわけじゃねえ。ただその……罪滅ぼしのつもりだったんだ」


 狐霊は「うん」と相槌を打つ。


「お前、蓮葉苑が動いたって話は聞いたか?」


 それがどうして漁夫を辞めた話になるのかはわからなかったが首を振った。


「ううん。聞いてないけど……っていうか、そもそも動いたってどういうこと?」


 蓮葉苑はすばえんとは大丹波郊外に位置する平原だ。

 狐霊が気を失う前に外張と待ち合わせをしていたところでもある。その辺りは足場が比較的平坦で、水もくるぶしが浸かる程度の浅瀬が続いている。その最端には『しな場足きさのこ』と書かれた腐りかけの澪標が、まるでそこが世界の果てであるのをを示すかのようにぽつねんと棒立ちしている。


 広々と続く殺風景な水溜りと、鉄や瓦礫の残骸が散見されるのは相変わらずながら、この場が蓮葉苑と呼ばれる最たる所以は、年代測定不能の建造物があるためだった。

 その建造物は半球状で壁と天井の境目を持たず、亀の甲羅のように石で骨組みが編まれている。これも日華宿の邸宅と同じく巨人のための建物かと思うほど広く天頂が高いが、意匠はまた一風違う。そして中は伽藍堂で居住に適した作りでもなく、尚且つ半壊しているため何のための建物だったのかは一切不明とされている。それが動いた、と言われても反応に困る。

 想像に難色を示すと、外張が当時を掻い摘んで追想した。


「あの日、初子と三春を連れてお前を待っていたら、前触れ無く蓮葉苑の外壁壱面に青白い光の筋が浮かび上がったんだ。時間にして、おそらくお前が首輪をつけたのとほぼ同時刻だろうな」


 その後慌てて街へ報せに行ったところ、そこで入れ替わりに倒れた狐霊の話を聞いたのだそうだ。


「蓮葉苑についてはいろんな噂が広まったよね。超古代の遺跡だとか、地底人の拠点だとか」


「それ私も聞いたことあるよ。今はもう誰も話題にもしないけど」


 初子と三春はその時の街の反応を振り返る。なるほど、しかしあくまで噂の域を出ない眉唾な話として認識されているようだ。当初こそ大盛り上がりしたそうだが初子いわく、それも漆拾伍しちじゅうご日で霧散してしまったという。


 狐霊は『古代遺跡』という単語にまたたく間に目の色を変えた。前人既到ながら未知の歴史の隧道。かぐわしきは浪漫の風。好奇心の井戸がこんこんと湧き出る限り、うずく体を抑えることなどできないのだ。狐霊は布団を飛び上がり、身を乗り出して外張に詰め寄った。急に激しく動いたせいで、寝間着が少しだけ着崩れる。


「すごいすごい!何かあるとは思ってたけど、どういう仕掛けなんだろう・・・!そ、それでそれで!?そのあとどうなったの!?実は地下に巨大な空間とか、文献とか、旧人類の遺骸とか!」


「ち、近え!近えよ!いや、見てねえ!あのあと蓮葉苑は老朽化のせいかすぐにぺしゃんこに崩れちまって、民衆は立ち入れなくなっちまったから」


「えーっ!そんなぁ」


「それについてだが……」


 こほんと咳払いして、条治が注釈を入れた。「これは狐霊にとっても大事な話だ」と前置きが入る。


「まぁ、そういうわけで蓮葉苑の話はひと晩で大丹波中に広がって、その後数日にわたって瓦礫の撤去作業があったんだ。もとから人が寄り付くようなとこじゃねえが、もしかしたら運のねえやつがいるかも知れなかったからな。けど、出てきたものは俺達の想像してたものとは全く違うものだった。大丹波の連中にとっちゃ大したものじゃあねえかも知れねえ。だがその光景は俺にとっては死体が出てくるよりも心胆寒からしめるものだった」


 急に真面目な雰囲気になり狐霊は困惑しながらも背筋を伸ばす。条治は一旦言葉を区切って居住まいを正し、顔を拭う素振りをした時だった。大丹波のある北のほうから、水溜りに両足を叩きつけるような音が徐々に大きくなってゆくのに誰もが気がついた。


「条治ぃ!ここだなぁ!?いるのはわかってんだ返事しやがれぇ!」


「げっ、この声は原井船はらいぶねか?もう抜け出してきたのを感づかれたか……」


 唐突な怒号に条治は立ち上がり、外の方へ向かって叫んだ。横槍を入れられたことに、狐霊は密かに口を尖らす。


「わ、わりぃ!けどあと少しだけ待っちゃくれねえか!」


「うるせえ!怠業は見なかったことにしてやるから、ごたごた言わずに早く手ぇ貸しに来い!が発掘されやがったんだ!いいか、すぐ来いよ!とにかく人手が要るんだ!」


 声の主はそれだけ捲し立てると、すぐにまた水溜りを叩くようにして去っていってしまった。


「はぁ!?く、くそっ……まだ何も話せてねえってのに……!済まねえ、続きはまた今度話す。だから……」


 しかし聞いてしまった。聞き逃しはしなかった。『発掘』という言葉が耳に届いたとき、狐霊は条治が現在何に携わっているのかおおよそ理解してしまった。しかも男の声色から察するに、前代未聞の発見の可能性すらあり得る。この一大事にじっとしているわけには行かない。何がなんでもその発掘とやらを拝まねば。

 狐霊は条治が立ち去ろうとする前にすかさず叫んだ。


「僕も行く!」


「はぁ!?」


 狐霊は有無を言わせないつもりだった。立ち上がるとその場で着替えを始めようと寝間着を脱ぎ捨てる。三年ものあいだ陽の光を受けることのなかった肌が顕になる。それは雪のように真っ白で、余分な肉や脂肪など一切ない。しかして骨と皮のみに痩せこけたかと思えばそのようなことはなく、何も飲まず食わずであったのが嘘のように血色がよく、瑞々しいはりとつやがあった。


「ちょっ、おまっ!」


「きゃあ!」


「んぐぁっ!」


 条治は後ろを向き、三春は悲鳴を上げ、初子は目を覆い、外張は鼻血を噴いた。狐霊は彼らの反応に首を傾げたが手を休めはしなかった。唯衣は顔を真赤にして叫んだ。


「こっ、狐霊!少しは人目を気にしなさい!はしたない!」


「え、なんで?」


「なんでじゃない!」


 この場にいるのはみな家族か顔馴染みだ。なんなら全員素っ裸で水溜りを泳いだし相撲だってした仲でもある。いまさら何を気にする必要があるだろう。


「お前、さっき鏡見たろうが!」


 外張が鼻を押さえながら言うのを聞いて、ようやくその意味を理解した。言われてみれば今の自分の姿は冷たき香も匂い立つ清々楚々たる少女が如し。


「……いや、でも。僕男だし?」


 依然恥じらう素振りはなく狐霊は寧ろ堂々と腰に手を当てた。確かに少女のような外見になりはしたが、別に性別まで変わったわけではないのだし。


 ああだこうだと周りが騒ぐうちに着替えは済んでしまった。参年前の服はあったが残念ながら虫に食われて穴が空いてしまっていたので、仕方なく(勝手に)姉の服を着ることにした。歳は拾伍になろうというのに背丈はたったの伍尺もないくらいのままで、寸尺合わずぶかぶかである。


「あの、もう目開けても……?」


 ぼそぼそ声が初子の方から聞こえるが内容まではわからない。直後はっとして唯衣が言った。


「っていうか、行かせないからね!?お医者さんにも安静にしてろって言われたでしょ!?」


「じゃあ安静に、外張におぶって貰って行くね」


 我田引水、唯我独尊。唯衣の堪忍袋はとうとう切れた。浮かび上がるはまさしく寓話書誌にて有名な鬼の面相に他ならない。


「い・い・か・げ・ん・に・しなさーーーい!」


 唯衣は力づくで狐霊を拘束しようと掴みかかった。別段珍しいことではない。昔から話を聞かなければ実力行使。参年経ってもそれは変わらない。そしてそれは周知の事実。故に誰も止めようとはせず、「やれやれまた始まった」と生暖かい目が横行するのみだった。


 狐霊は病み上がりであるというのが嘘のように健康そのものの活力を示した。猛攻をことごとくすり抜け、おちょくるようにわざと背後に回って見せたり、股の間を滑って見せたりした。唯衣がぜえぜえと徐々に呼吸を乱すのに対し狐霊は余裕綽々であった。


 唯衣の動きが完全に鈍り、ぺたんとへたりこむのを見て、狐霊はやはりにひひと笑った。勝者は決した。

 一部始終を見ていた外張は頭をかきながら言った。


「あのぉ、唯衣さん、姉弟の間に俺が口をだすのも何ですが……狐霊はこう見えて意外としっかりものだ。俺がちゃんとこいつのこと見てますから……行かせてやりませんか」


 唯衣はぐぬぬと歯噛みしたが、やがて大きなため息を付いて観念した。


「……もー、しょうがないな。まぁ外張くんがついててくれるなら少しは安心か……母さんは?」


「私は、そうね。でも、なるべく早く帰りなさいね。外張くんは狐霊が少しでも調子が悪くなった素振りを見せたら、引きずってでも連れ帰ってくること。頼んだよ」


「任せてください」


 真白はふたりの目を見て、しっかり言い聞かせた。狐霊は黙って頷いた。


「おいおい、俺は連れてくなんて一言も言ってないんだが……」


 ただし最も困っているのは条治だった。

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