生まれたその日に別れてどうする

 さて、『居所』を読んでくれた方は果てしてどれほどいらっしゃるのか分からないが、これは私の当時の想いを読んだものである。

 当時は家の外にも中にも居場所がなかった。

 家の外では家族連れや少年少女らの声に心が曇り、家の中では私が用意した家具や家電、元妻の一度も使われなかった荷物、赤ちゃん用品などが私の描いていた未来を想起させた。

 地獄だった。


 別れたその日のことはありありと思いだせる。一生忘れることはないだろう。

 

 私が仕事から帰ってすぐだった。

 入院中の妻から電話があった。

 この頃、既に夫婦仲は破綻していた。


♢♢


 彼女はこの頃、事あるごとに私をけなしたものだ。

 稼ぎが少ない。甲斐性がない。などありきたりなものから、

 お前の子どもじゃない。近寄るな。別れてくれ。など離婚を示唆する直接的なものまであった。


 身ごもっている時にありがちな精神不安定だろうと思われるかもしれない。しかし、彼女は出会った頃から腹と腕に切り傷をつけ、何かにつけて死にたがるような不安定な女の子だった。

 家出し、男の家に泊まる生活。

 私との関係も、初めはそれだった。

 真剣に付き合いだしてから、彼女のそれはなくなったのだが。本質が変わるようなことはなかったのだろう。

 だから、出産が重なってより強く表に出てきた。

 彼女の不安を取り除けるほど、私は良い人間ではなかった。


 別れるその日の前に、彼女に最後に会ったのは出産の4か月前だったと思う。

 突然家に姿を見せた妻は私にこう言った。

「くさ」

 以上である。彼女はそして帰って行った。


 彼女は実家に帰省していた。

 私が新しい家を借りて(『居所』では狭いと書いたが2LDKである。彼女はそれ以上の間取りでなければ嫌だと言って、癇癪を起こした)くるまでは実家にいると言って会わなかった。


 いざ家を借りて、彼女はいつ越してくるのかと待ち始めたのが出産6か月前である。


 彼女が実家に帰省したのが妊娠3か月の時だったので、

 つまり、その時から別れるまでのおよそ7か月間で「くさ」と言われたその1日しか彼女に会えなかった。

 

 彼女の実家に私から会いに行けば良いと言う方がいるだろう。

 「会うと娘が不安定になり、お腹の子にも悪いから会わないでくれ」と義父母に言われ、彼女にも烈火のごとく来るなと言われなければそうした。


♢♢


 さて、電話の話に戻ろう。

 妻は言った。

「子ども生まれたから」

 私は最後まで立ち合いを希望していたが、それが叶わなかったとここで初めて知った。

 そして追い打ちが来る。

「別れて、もうポストに離婚届入れてあるから」

 そして電話はぷつりと切れて、二度と繋がることはなかった。


 もちろんすぐに、私は妻のいる病院に会いに行った。

 時刻は20時前、面会時間ギリギリだったと記憶している。


 そこでの会話ほど、呆気なく終わったものはない。

 その時、妻は妊娠して辞めていたはずのタバコをのんびりと吸っていた。

「もう一緒に暮らせる気しないから、バイバイ。なんも話すことないよ」

 私は激しく言い寄ったが、彼女はそれ以上まったく口を開くことはなかった。


 そして、私も彼女と同じことを考えた。

 このまま彼女と暮らして、幸せになれる気がしなくなっていた。


 そして彼女が妊娠して1か月から言われ続けた、お前の子どもじゃないというセリフに私は縋ることにした。

 彼女はたびたび、そうしたトンデモない事を言って、関心を得ようとする癖があった。

 不安だったり、寂しくなると出てくるセリフだと私は理解していた。

 とはいえ、ひどすぎるが。

 だから生まれた娘は、本当に違う種の子なのだと思い込むことにした。


 そうして私は、子を養うという責任から逃げたのだ。

 大学を辞めてまで覚悟した役目から、目を逸らすことにした。

 私の子なのだという確信が、そうではないという疑念を思い込むことによって半信半疑となって、今の私を生かしている。


 その日に離婚届に記入押印し、翌日には提出した。

 私に残ったのは多額の借金。

 得たものは×が一つと中退の肩書。

 そして私が、子どもを守り育てるべき親という責任から逃れた、ろくでもない人間であるという証拠だけである。


 義父母が責任を持って育てるので、養育費はいただけないと言ってくれたのは、果たして良いのか悪いのか。


 私の半信半疑は、永久凍土に似てとけることはないだろう。


 次では、私の女難が始まったその日を振り返る。

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