第141話 再点火

 キャロルと別れたアキラがシェリルの拠点に向かっている。


 アルファがどことなく機嫌の良さそうなアキラの様子を見て尋ねる。


『随分機嫌が良さそうだけれど、キャロルとの話がそんなに楽しかったの?』


 その自覚がなかったのだろう。アキラは少し驚いた様子でアルファに聞き返す。


『そんなに機嫌が良さそうに見えるのか?』


『ええ。私はアキラをよく見ているから、それぐらい分かるわ』


『そうか。まあ、確かに楽しかった。ハンター稼業の知らない話をいろいろ聞けたからな』


 アキラの素直な感想を聞いて、アルファが優しく微笑ほほえんで話す。


『そう。良かったわね。それなら私もそういう話を集めてアキラに話した方が良いかしら?』


 表面上はアキラのために、裏ではアキラがその類いの話題を求めてキャロルに近付くのを防ぐために、アルファは優しくアキラにささやいた。


 アキラが少し考えて答える。


『うーん。アルファからはハンター稼業の一般知識の前に、東部の常識的な知識とかを習っているからな。アルファにはそっちを先に頼むよ。俺はクガマヤマ都市が東部のどの辺にあるのかも知らなかったし、そっちの知識は後回しだな』


『分かったわ』


 突然アキラが自分のそばにいた男の腕をつかむ。男の手にはアキラの財布が握られていた。


 男は驚きの表情を浮かべている。アキラは機嫌良く笑って財布を奪い返すと、男を路地裏へ蹴飛ばした。


 強化服も防護服も着用していない男の腹部に、アキラの蹴り足が強化服の身体能力でたたき込まれていた。アキラは加減をしていたが、それでも男の痛手は重大だ。男は苦悶くもんの表情で路地裏に転がっている。


 アキラはうれしそうに財布をしまうと、機嫌良く男に歩いて近付いていく。苦痛にもだえている男は近付いてくるアキラに気が付くと、男としては必死に素早く、客観的には苦痛のために緩慢に、懐から拳銃を抜いてアキラに向けた。


 アキラが笑ってその拳銃を蹴飛ばした。男の手から離れた拳銃が路地裏を転がっていく。拳銃を握っていた男の手は蹴りの衝撃で骨が折れていびつに変形している。男が激痛で苦悶くもんの声を上げた。


 アキラは上機嫌だった。アルナに財布を盗まれた時のような無様をさらすことなく、命懸けで稼いだ金を盗まれるのを防げたからだ。アルファに男の存在を教えてもらう必要もなく、自力で男の存在に気付くこともできた。アキラは雪辱を果たしたような達成感を味わっていた。


 だからこそ、アキラは相手が命懸けで稼いだ金を盗もうとした者であっても、その人物が自分に銃口を向けたのにもかかわらず、男の命を気遣うような緩い攻撃で済ませることができた。それだけ機嫌が良くなければ、アキラは既に男を殺していただろう。ここはスラム街の路地裏だ。死体が1つ増えることぐらい何の不思議もない場所だ。アキラの機嫌以外に、アキラが男の殺害を躊躇ちゅうちょする要素はないのだ。


 男はおびえた表情をアキラに向けている。アキラは男に機嫌良く笑って話す。


「俺を狙うなんて運が悪かったな」


 アキラはどこか晴れ晴れとそう言った後、もう一度男を蹴飛ばした。蹴飛ばされた男は小さな悲鳴を上げて路地裏の地面に転がった。


 アキラとしてはこれで済んだ話、終わった話だった。自分は強くなった。もうあんな無様はさらさない。その実感を得て、きびすを返して表通りに戻ろうとする。


 しかし、その終わった話を覆す声がアキラの背後から聞こえてくる。路地裏に倒れている男が苦痛にむしばまれながら呪詛じゅそつぶやきを吐いている。


「……話が、違うじゃ、ねえか……」


 アキラが足を止めた。アキラの表情から機嫌の良さを示す色は消えていた。




 クガマヤマ都市の下位区画に無数に存在するビルの一室にヴィオラの事務所がある。そこにヴィオラとコルベがいた。


 部屋のソファーに座っているヴィオラが、機嫌の良さそうな声でコルベに話しかける。


「そんな場所にいないでこっちに座ったら?」


 ヴィオラから少し離れた場所に座っているコルベが、誘うようなヴィオラの声にはっきりと告げる。


「嫌だね」


「つれないわね」


 コルベの冷ややかというよりはどこか警戒気味な態度を見ても、ヴィオラは機嫌を損ねることなく微笑ほほえんでいる。


 コルベはその機嫌の良さそうなヴィオラを見て、ろくでもないことに巻き込まれるのを警戒しながら話す。


「それで、俺を呼び出したのは何の用だ? 俺の報告書の内容が気に入らなかったのか? 報酬を返す気はないぞ?」


「そんなことないわ。報告書は有益な内容だったわ。ちょっといろいろじかに聞きたいだけよ。実際にあの店を見た感想とかをね」


「それも報告書に書いたはずだ。読んでないのか?」


「読んだわ。でもたとえ同じ内容であっても、単純な記述と口頭による説明では結構違うものなのよ。ちょっとした交渉だって、内容的には情報端末の通話やテキストメッセージで済む話であっても、相手とじかに会って交渉したりするでしょう? じかに会って得られる情報はそれだけ重要だってことよ。少なくとも私はそういう情報を重要視しているの。分かるでしょう?」


 曲がりなりにも雇われている。自身にそう言い訳をしてコルベが答える。


「……それで、俺は何を話せば良いんだ?」


「いろいろよ。それじゃあまずは、シェリルって子のことでも聞きましょうか」


 ヴィオラが妖艶に楽しげに微笑ほほえみながらコルベから話を聞く。


 コルベはシェリルの店を訪れたのは偶然ではない。ヴィオラから依頼でシェリルの店を調べるためだ。ヴィオラからの依頼は報酬もかなり良いため、少々悩みはしたが依頼を引き受けた。


 コルベがレビンの相談に乗ったのは依頼のついでであり、万一ヴィオラからの依頼であることが露見した場合の口実だ。加えてヴィオラのたくらみに巻き込まれるのを避けるための予防処置だ。ヴィオラは良くも悪くもそれなりに名の知られた存在だ。ヴィオラが派手に動くとろくでもないことが起こると警戒する者は多い。警戒することに越したことはないのだ。


 コルベはヴィオラの質問に答えていろいろなことを話した。大抵は既にヴィオラに渡した報告書の内容と同じだったが、一部はコルベがどうでも良いことだと判断して報告書には記載しなかった内容だった。


 ヴィオラは興味深い様子でコルベの話を聞いている。コルベはヴィオラとの付き合いで、その表情が内心とは無関係だと知っている。どうでも良い話を非常に興味深い表情で聞くことも、非常に興味深い話をどうでも良い表情で聞くことも、そのどちらでもないことがあることも知っている。情報の価値をヴィオラの都合の良いように操作するための偽装だと知っている。


 行動の判断の基準となる情報の価値をヴィオラに操作され、ヴィオラの意のままに動いてしまう者は多い。コルベはそれを知っていた。コルベは注意深く気を付けてヴィオラと話している。それすらもヴィオラのてのひらの上であることを疑いながら。


「……俺の印象としてはそんな感じだ。あの店の店主の、あの連中のボスのシェリルはなかなかの人物だと思う。あのアキラを手懐てなずけているようだし、顔が良いだけの子供じゃないだろう。俺の勘だが、あの店は結構繁盛するんじゃないか?」


「随分高評価ね」


「俺の主観だ。気になるなら自分で会って自分で判断してくれ。第一、ヴィオラは何であんな店を気にするんだ? スラム街に幾らでもある遺物代理店が1つ増えただけだろう。あの店にアキラが関わっているからか?」


「そういえば、あの店にアキラはいなかったの?」


「俺が行った時は見掛けなかった。どこかに隠れていたかもしれないがな。あの部屋は白いシーツが大量に垂れ下がっていたから、その裏にいた可能性はあるだろう。真相までは知らん」


「そう。まあ、私にもいろいろあるのよ。新たに増えた商売敵の情報を欲しがる人は多いとだけ言っておくわ。別に不思議はないでしょう?」


「……そうだな」


 コルベはヴィオラの答えの裏に、隠れた別の理由を山ほど見る。それは幻視かどうかはコルベには分からない。勘違いかもしれないが、確かめる術はない。


「……用が済んだのなら俺は帰る。また何かあれば連絡してくれ。……確認しておくが、昨日俺があの店で買った遺物は俺の好きにして良いんだな?」


勿論もちろんよ。それは私からの報酬。好きにしてちょうだい。善意で言っておくと、単純に金に換えることをお勧めするわ。その遺物をハンターオフィスの買い取り所に持って行くことはお勧めしないわ。そんなハンターもどきの行為に慣れてしまうと、真っ当なハンターには戻れなくなるわよ?」


 コルベが少しだけヴィオラをにらんで答える。


「ふん。俺の勝手だ」


勿論もちろん貴方あなたの勝手よ」


 ヴィオラは微笑ほほえんで答えた。コルベは少し悔しそうに表情をゆがめると、黙ってヴィオラの事務所から出て行った。


 コルベが少し強く扉を閉めたため、扉が閉まる少し大きな音がした。ヴィオラがその扉を見ながらつぶやく。


「あの調子だと、真っ当なハンター稼業への復帰は難しそうね。ま、それも生き方よね」


 コルベに自分の依頼を受けさせるために、報酬を金ではなく旧世界の遺物にしたのはヴィオラだ。ヴィオラはコルベの真っ当なハンターに復帰したいという気持ちに付け込んでいた。


 ヴィオラの情報端末に通話要求が届く。ヴィオラは情報端末を手に取って愛想良く答える。


「私よ。……ええ。情報はもう流したわ。……それは違うわ。私の仕事は情報を流して行為を促すまで。実際に行動に出るかどうかまではね。勿論もちろん、私がそこまで請け負っても良いけれど、別途料金をもらうわ。……嫌なら待ってなさい。しっかり流したから、その内よ。……ええ。それじゃあね」


 ヴィオラが通話を切ってつぶやく。


「どうなるかしらね? 楽しみだわ」


 様々な結果を予想して、ヴィオラは楽しげに笑った。




 アキラから財布を盗もうとした男が路地裏の地面に転がっている。アキラは険しい表情で男に近付いていく。男は手の骨折の痛みによる苦痛よりも、近付いてくるアキラに対する恐怖を、その顔に濃く表していた。


 男は逃げようと後ずさりをしようとするが、骨折と腹部の苦痛と殺されるという恐怖により、非常にゆっくりとした動きとなっていた。逃亡は不可能だ。


 アキラは男のそばまでくると、静かな声で男に尋ねる。


「話が違うって、どういう意味だ?」


 男はアキラの問いには答えずに、必死に許しを請う。


「か、勘弁してくれ! 俺が悪かった! 頼む!」


 アキラは男に銃を突きつけて、再び男に尋ねる。


「俺の質問に、答えろ。話が違うってどういう意味だ? ……話すのなら、俺の回復薬を少し分けてやる。……死んでも話したくないのなら、死ね」


 アキラの機嫌はかなり悪化していた。男がアキラの質問に答えなかった場合、それが恐怖による錯乱などで真面まともに話せる状態ではなかったという理由であっても、アキラは男を殺すだろう。


 男が錯乱手前の状態で必死にアキラを止める。


「わ、分かった! 話す! 話す! 話す! 話すから止めろ!」


 アキラは銃を下ろすと、回復薬の箱を取り出して中身を少しだけ取り出す。そして困惑している男を無視して、回復薬を強引に男の口の中に詰め込んだ。更に男の骨折している手をつかみ、折れた骨を強引に合わせた。


 アキラに折れた骨を無理矢理やり動かされたため、男が激痛で悲鳴を上げながら表情をゆがめた。その男の表情が驚きと困惑に変わっていく。回復薬の鎮痛作用が効いて、アキラに蹴飛ばされた腹と手の痛みが和らいだのだ。先ほどまでいびつに変形していて、アキラに強引に形を整えさせられた手も、僅かだが動くようになっていた。


 男はアキラが本当に回復薬を分けたことにかなり困惑していた。だがその困惑もアキラが再び男に銃を向けたことで消し飛んだ。


 アキラは本当に回復薬を分けた。つまり本当に男を殺すだろう。男が慌てて話し始める。約束を破ったとアキラが判断して引き金を引く前に、辛うじて話し始めることができた。


「……情報を買ったんだ。大金を持っているくせに、ガキのスリに簡単に金を盗まれる間抜けって話だった。……金を盗まれたことに気付いてスリを追いかけても、後ろ盾の他のハンターに、それも子供のハンターに少しすごまれただけで、びびって慌てて逃げ出すような雑魚だって話だった。……簡単に金を盗めるし、仮に見つかっても追っ払える。そういうカモの情報だった……」


 アキラは少し前に油断してアルナという少女に財布を盗まれたことがあった。残念ながら盗まれた金を取り戻すことはできなかった。カツヤがアルナをかばったからだ。


 アルナがカツヤと出会ったのは偶然で、身に覚えがないのにアキラに追われているというアルナの説明をカツヤは信じたのだ。


 その時のカツヤとの戦力差は絶望的で、アキラは不本意だが引き下がった。アルファが止めなければそのまま戦闘になり高確率で殺されていただろう。


 その時のことを思い出したアキラが機嫌を一気に悪化させる。表情がどんどん冷たいものに、暗い怒気を感じさせる無表情に近いものに変わっていく。


 アキラの様子におびえた男が慌てて声を荒らげて弁解する。


「お、俺じゃない! 情報屋が! 情報屋がそう言ったんだ!」


 アキラが静かな声で尋ねる。


「どうやって俺を探したんだ? 俺の写真でも見せてもらったのか?」


「……髪型とか、背丈とか、簡単な容姿を教えてもらった。……後は、かなりぼやけた写真を見せてもらった」


「そんなので見つかるのか?」


「だ、だから、間違えたんだろ? お前をそのカモと間違えたんだ」


「話が違う。お前はそう言った。俺がそのカモだと思っていないと、そんなことは言わないんじゃないか?」


「そ、それは……」


 男が言葉に詰まる。アキラは黙って男を見ている。恐怖に耐えきれなくなった男が表情をゆがめて話す。


「わ、悪かった。あんな情報屋にだまされて、偽の情報をつかまされて、挙げ句の果てにこんな結果になった俺が間抜けだった。だ、だから、勘弁してくれ」


 アキラは男に銃口を突きつけたまま男をじっと見ている。男は引きつった表情でアキラを見ている。


 アキラが急に銃を降ろした。男の表情に安堵あんどの色が浮かぶ。しかしその安堵あんどもすぐにかき消えた。


 アキラは男の首をつかんで無理矢理やり立たせると、男を路地裏の壁に強く押しつける。苦悶くもんの表情を浮かべている男に、アキラは男の顔を見ずに底冷えする声で話す。


「まず、言っておく。お前は別に情報屋にだまされてはいない。俺は確かにガキのスリに簡単に金を盗まれる間抜けだった。そいつの後ろ盾の他のハンターに少しすごまれただけで逃げ出すような雑魚だった。間違いない。その情報は合っている」


 恐怖におののく男の顔をにらみ付けながら、男の目の奥をのぞき込みながら、アキラが続けて話す。


「だが俺はその件をそれで終わらせる気はない。その件はまだ終わっていない。お前がどこの情報屋からその情報を買ったかは知らないが、その情報屋にその件がまだ終わっていないことを付け加えるように伝えておけ。分かったな?」


 男はアキラに首をつかまれながらも、何とか何度もうなずいた。アキラが男から手を離す。男はき込みながら地面に座り込んだ。


 アキラが再びきびすを返して男から離れていく。


 男はき込みながら息を整えている。たまたま地面の方を見た時、そこにアキラに蹴飛ばされた拳銃が転がっていた。よろよろと立ち上がりながら、その拳銃を拾おうとする。


 男の手が拳銃に届こうとした瞬間、銃声とともに拳銃が破壊されながらはじき飛ばされた。男が反射的に銃声の方を見ると、アキラが無表情でAAH突撃銃を男の方に向けていた。アキラが男の拳銃を銃撃したのだ。


 男は悲鳴を上げてその場から逃げ出し、路地裏の奥へ消えていった。


 アキラが黙って銃を下ろす。非常に不機嫌だ。カツヤと殺し合う直前で浮かべていた時と同じような表情を浮かべていた。


 アルファがアキラの前に、アキラの視界にアルファの姿が大きく映る位置に立って話す。


『アキラ。深呼吸』


 アキラがアルファに言われた通りに深呼吸をする。深呼吸を何度も何度も繰り返す。しばらく深呼吸を繰り返すと、アキラの表情が少しずつ落ち着きを取り戻していった。


 アルファがアキラを落ち着かせるように優しく微笑ほほえんで話す。


『落ち着いた?』


『……ああ。…………悪かった』


『良いのよ』


 アルファは気にした様子を見せずに微笑ほほえむ。アキラは少し落ち込んだ様子で大きくめ息を吐く。


『割り切ったつもりだったんだけどな』


 アキラの中ではあの件は一度終わった話だった。少なくともアキラはそう思っていた。このまま何事もなく時間が過ぎていけば、そんなこともあったな、と本当に終わった話になっていただろう。


 しかし話の続きを求める誰かの意思により、その話はアキラの中でも終わりではなく中断に、そして再開に変化した。


 アルファがアキラを気遣うように話す。


『今日はもうシェリルの所には行かずに帰った方が良いと思うわ。アキラがそんな不機嫌な状態だと、め事の仲裁なんかできないでしょう?』


『……いや、一応顔だけは出しておくよ。遅れても顔を出すって言ったしな。……それに、シェリルにちょっと頼みたいことができた』


 表情を険しくしているアキラの脳裏には、事態の対処方法が浮かんでいた。




 シェリルが自室で仕事をしていると、扉をノックする音がする。


「開いてるわ」


 アリシアが扉を開けてシェリルに伝える。


「ボス。アキラさんが来たわ」


 シェリルがアリシアの方を見る。そこにはアリシアしかいない。シェリルが不思議そうに尋ねる。


「アキラは?」


「エリオと話してる。すぐに来るわ。それでね、ちょっと言いにくいんだけど……」


 アリシアが少し不安そうな表情で言う。


「……何だか知らないけど、アキラさんの機嫌がすごく悪いみたいなの。気を付けてね」


 アリシアはシェリルに事前にアキラの様子を伝えるためだけに、エリオに頼んで少しだけアキラを引き留めたのだろう。シェリルがそのことに気付いて表情を険しくする。


 部屋を出て行くアリシアと入れ違いにアキラが入ってくる。アキラの様子を見たシェリルは、自分の顔が引きつるのを辛うじて回避した。


 シェリルから見ても確かにアキラの機嫌はかなり悪い様子だ。アキラは自分が不機嫌であることを自覚した上で、それを無理に抑えるような表情をしていた。いつも通りであることを装い、それに失敗している表情だ。


(これは、確かに不味まずいわね……。事前に教えてもらって良かったわ)


 シェリルは内心で冷や汗をかきながら、いつも通りに微笑ほほえんでアキラを迎え入れた。


 シェリルはアキラとテーブルを挟んで向かい合って座っている。シェリルはどこか重苦しい空気を感じながらアキラへの対応を必死に思案していた。


 シェリルは立場的にも心情的にもアキラに嫌われたくない。アキラはシェリル達の徒党の後ろ盾であり、徒党内でのシェリルの地位の後ろ盾だ。そのアキラに嫌われるとシェリルの立場は崩れ去る。アキラはシェリルの安心と自信のり所であり、シェリルが精神的にすがり付いている相手だ。そのアキラに見捨てられるとシェリルの心はへし折れる。


 普段のアキラならば、シェリルが多少判断を誤ってアキラを少々怒らせるようなことを言っても何とかなるだろう。シェリルがアキラを誤解させるようなことを言ってしまったのならば、しっかりと説明して誤解を解けば良い。シェリルがアキラの気を悪くすることを言ってしまったのならば、素直に謝れば良い。それでアキラとの致命的な関係の悪化にはつながらないはずだ。シェリルはそう考えていた。


 しかしシェリルには今のアキラを普段のアキラと同じように扱うことはできなかった。僅かな誤解や苛立いらだちから生じた事象が、アキラとの関係を致命的に悪化させる引き金になりそうな感覚があった。シェリルは地雷原に足を踏み入れるような心境だった。


(……こ、このまま黙っているべきかしら? アキラの機嫌が回復するまで静かにしておいた方が良い? で、でも、その対応がアキラを怒らせたら? アキラから積極的に話を聞いて、アキラをなだめられそうな可能性を探った方が……、余計なことを聞かないように注意しながら? 何が地雷かも分からないのに? やっぱり……、いや……)


 シェリルはアキラの対応について考え続ける余り、それ以外のことをおろそかにし始めていた。シェリルの表情が少しずつ引きつったものになっていく。


 いろいろと鈍い所もあるアキラだが、流石さすがに今のシェリルの様子に気付くことぐらいはできた。それだけシェリルに余裕がなくなってきたとも言える。


 余裕を失いつつあるシェリルを見て、アキラは逆に少し余裕を取り戻した。アキラが話す。


「シェリル」


「はっ、はい!?」


 シェリルは不意を突かれたような慌てた声を出した。


 アキラはなるべくいつも通りの声を出すように注意しながら話す。


「……あー、その、何だ、ちょっとしたことがあって、俺は今かなり機嫌が悪い。それは自分でも分かっている。でもそれはシェリルに対して何か怒っているとか、そういうことは一切ないんだ。あと、気を付けるつもりだけど、機嫌が悪い所為で無意識にシェリル達につらく当たってしまうかもしれない。先に謝っておく。悪い。その時はできれば気にせずに軽く流してくれ」


 アキラはそう言ってシェリルに軽く頭を下げた。


 シェリルは少し驚いた表情を浮かべた後で、我に返ってすぐにアキラに優しげな笑顔を向ける。何とか落ち着きを取り戻して、同時に普段の聡明そうめいさも取り戻した。そして聞き手に回ればアキラの不興を買う可能性も低いだろうと考えて、それとなくアキラに話を促す。


「分かりました。無理にとは言いませんが、誰かに話せば楽になるものでしたら、私が幾らでもお付き合いいたしますよ?」


「……悪いな。気持ちだけもらっておく」


 シェリルがアキラの態度からアキラの機嫌を悪くした何かの深刻度を推察する。


(……相当根の深い問題のようね。私がその問題を上手うまく解決できたなら、アキラからの信用もかなり高くなりそうではあるけれど……、何も知らずに下手に関わると大火傷おおやけどでは済まなそうね)


 シェリルは全く気にする様子を見せずに答える。


「いえ、差し出がましいことを言いました。代わりと言っては何ですが、他に何かありましたら遠慮なく言ってください」


 シェリルがそう答えると、アキラが思い出したように話す。


「そうだ。シェリル達に頼みたいことがあったんだ」


 アキラは情報端末を取り出して少し操作した後、情報端末をテーブルに置いて表示画面をシェリルに見せる。画面にはアルナの姿が映っている。アキラから財布を盗んだスリの少女だ。


「彼女を見掛けたら教えてほしい」


 シェリルが画面のアルナの姿をのぞき込む。服装から判断して恐らくスラム街の住人だろうが容姿は悪くない。磨けば光るだろう。少なくともシェリルにはそう見えた。


 シェリルは自分の裸を見てもろくに興味を示さないアキラが、態々わざわざ自分に頼んで他の少女を探すことに、余り自覚したくない感情を抱いた。シェリルはそれに目を背けて、それはそれとしてアキラに確認する。


「彼女を探し出せば良いのですか? 彼女の名前やアキラとの関係など、彼女の情報をいろいろ教えていただければ探しやすくなります」


「名前は知らない。あと、彼女を探してほしいわけじゃない。シェリル達の普段の生活の中で彼女を見掛けたら教えてほしい。その程度の話だ」


「えっと、でもアキラは彼女を探しているわけですよね? 私達が彼女を見つけ出したら、アキラはどうするつもりですか?」


 シェリルはアキラがアルナとの関係を話さなかったことから、少し深読みしてアキラに尋ねた。


 アキラがアルナを良い意味で探しているのなら、失礼にならないように丁寧に連れてくる必要があるだろう。逆に悪い意味で探しているのなら、多少手荒に扱っても問題ないだろう。どちらであってもアルナを探して連れてきた方がアキラからの評価はあがるはずだ。


 しかしシェリル達がアルナを連れてくる手段は吟味が必要だ。仮にアキラがアルナを自分の恩人として探していたとして、シェリル達がアルナをかなり強引な手段で探し出して連れてきたりすれば、間違いなくアキラの機嫌を損ねることになる。


 アキラがシェリルの質問に極めて端的に答える。


「殺す」


 そう口にしたアキラ自身が少し驚くほどの冷たい声だった。


 シェリルの微笑ほほえみが凍り付く。


 アキラが自分を落ち着かせるように少しめ息を吐く。そしてどこか言い訳するように続ける。


「……そいつは俺の財布を盗んだスリだ。俺が命懸けで稼いだ金をさらっていったので、見掛けたら殺そうと思っている」


「そ、そうですか」


「……あと、そいつを無理に探して連れてこようとするのは止めておけ。そいつの友人かケツ持ちかは知らないが、ハンターが数人そいつを守っている。最低でも俺と同程度、恐らくその上の実力のハンターだ。俺はスリに遭ったことに気付いて追いかけたんだが、そのハンターに阻まれて金を取り返すことができなかった」


「……アキラよりも、ですか?」


「ああ。だから止めておけ」


 アキラはそのハンター達が自分より強いことをあっさり認めた。シェリルはその上でアキラがアルナを探すために自分達を使い潰す気はないことを理解した。シェリルはそのことをうれしく思いつつ、自分達が多少はアキラの役に立たなければ意味がないとも思う。シェリル達の利用価値をアキラに示すことは、シェリル達にも重要なのだ。


 アキラがシェリル達を助けているのは、アキラがシェリルの恋人だから。それ以外の理由を示すことができれば、シェリルの部下達も少しは安心するだろう。シェリルの部下達もまた、アキラに切り捨てられることを恐れているのだ。


 シェリルが真剣な表情で答える。


「分かりました。皆には私から注意するように伝えておきます。連絡方法はどうしましょうか? 見掛けたらすぐに伝えられるようにすると言っても、皆が情報端末を持っているわけではありません。なるべく早く伝えられるように努力をするつもりですが……」


「いや、急がなくて良い。何日か置きに、あの日のあの時間にあの辺りにいた、その程度のことを教えてくれさえすれば良い。もうこの辺りにはいないかもしれないしな」


 シェリルはアキラの話を聞いて少し意外に思う。殺すと言った時のアキラの声には、冷たく濃密な敵意が籠もっていた。しかし今のアキラの話を聞く限り、見つからないのならそれでも良いと考えている節がある。


(アキラの真意は不明だけれど、アキラの言う通りにした方が良さそうね。何かがアキラを葛藤させているのかもしれない。そこに下手に踏み込むのは……、残念だけど私にはまだ早いわ)


 シェリルはアキラの内心に踏み込めるほどまでアキラとの仲を深めてはいない。シェリルはそれを改めて理解して僅かに表情をかなしげに崩した。


 アキラがシェリルの様子を見て、少し勘違いして謝る。


「……すまん。気を付けたつもりだったが、やっぱり八つ当たりをしたな。悪い」


 シェリルは何とか普段の微笑ほほえみを浮かべて答える。


「いえ、気にしないでください。機嫌の悪い時ぐらい誰にでもあります。私に八つ当たりして気が紛れるのなら幾らでもどうぞ。その代わり、後でたっぷり甘えさせてくださいね?」


「……あー、……まあ、好きにしてくれ」


 少し悪戯いたずらっぽく笑うシェリルに、アキラは苦笑して答えた。

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