第71話 恥の上塗り

 敵の敵は味方、とは必ずしも言い切れない。しかし敵の味方は敵だ。カツヤの発言により、アキラはカツヤ達への認識を、偶然巻き込まれた無関係の人間から、敵に極めて友好的な関係者、つまり敵に切り替えた。


 アキラがカツヤ達をいつ攻撃しても不思議はない。そう判断したアルファが険しい表情でアキラを止める。


『アキラ。駄目よ。絶対許可しないわ。7対1、内戦闘要員6名、強化服を着たアキラと五分に戦える人員込み。流石さすがに無謀よ』


「7対1か……」


 アキラのつぶやきはどちらかと言えば自身とアルファに対してのものだ。普段なら念話でするものなので、そのつぶやきをカツヤ達に聞かれることはなかっただろう。


 だが既に臨戦態勢を取っており、集中力を敵の警戒と排除方法へ振り分けていたアキラは、その普段の注意を忘れていた。そのためそのつぶやきは、敵の言動に注意を払っているカツヤ達にしっかり伝わった。


 ユミナにはアキラが自分達との戦力差も理解できないハンターだとは思えなかった。だからアキラのつぶやきを聞いた時、相手が自分達との戦力差を考慮して仕方なく引いてくれることを期待した。


 しかし、それを覆す発言がシオリの口から飛び出す。


「7対1ではありません。私達は中立とさせていただきます。カツヤ様とアキラ様のどちらにも、私達は一切協力いたしません」


 シオリはそう言うと、レイナを無理矢理やりにカナエとシオリの背後に移動させる。


「シ、シオリさん!?」


 ユミナがシオリの予想外の行動に慌てて声を出した。そこにシオリに対する非難の色はない。純粋な驚きの声だった。


 カツヤもアイリもひどく驚いており、アキラに対する警戒をおろそかにせずに、真意を問うようにシオリ達の方を見ていた。


 アキラは表情を一切変えずに、カツヤ達を警戒しながら僅かに視線をシオリ達の方へ向けた。そして不審な動きを見せる別の敵集団の動きを、予想外の行動を取ったシオリ達の動向を探った。


 アキラとカツヤ達の両方の注目を浴びているシオリが、強い意志を表情に浮かべて両方に宣言する。


「カツヤ様。カツヤ様が初対面の一切関係ない人物のために命懸けで戦うこと。わたくしはその行為を称賛しその意思を尊重いたします。しかし、その戦いにお嬢様を巻き込むのであれば話は別です。カツヤ様の裁量と力量で対処をお願いいたします」


 シオリは真剣な表情で、両者を威圧するような空気を出している。


「アキラ様。アキラ様が私達、特にお嬢様に危害を、誤射や誤認を含めて危害を加えようとしない限り、私達からアキラ様に攻撃することはないと誓います。不要な交戦を避ける賢明な判断をお願いいたします」


 シオリはレイナをまもるためにカツヤにもアキラにも協力しないと宣言している。その上でシオリは暗に、カツヤにはアルナのためにカツヤ達がそこまで命を張る必要があるかと問い、アキラにはカツヤとの戦闘が本当に必要かどうかを問う。


 アキラもカツヤも戦闘を避ける選択は可能なのだ。その上でどちらも譲歩しないのであれば、結果を含めて彼らの責任だろう。


 シオリはまだ困惑から立ち直っていないレイナをかすように後退させながら、少しずつアキラとカツヤ達から距離を取る。


「お嬢様。行きましょう」


「で、でも」


 レイナはカツヤ達を置いてこの場を去ることに抵抗があった。しかしシオリの制止を振り切ってカツヤのがわに付き、死を覚悟してアキラと殺し合う気にもなれなかった。どちらかに付くことも、第三者になることも、レイナには選べなかった。


 シオリが厳しい表情で宣言する。


「申し訳御座いません。お嬢様を昏倒こんとうさせてでも引かせていただきます。……お嬢様、また繰り返すおつもりですか?」


 シオリは繰り返す内容の明言を避けた。レイナの思考を促し、彼女が最悪だと考えている事柄を彼女自身で導かせるためだ。


 レイナが一瞬で心当たりがある様々なことを思い浮かべる。


 地下街でのアキラとヤジマの言い争い。両者の証言以外に虚実を判断できる材料がなく、あの時はアキラが真実を告げていた。しかし今回もそうである保証はない。


 レイナが油断してヤジマに近付き人質に取られたこと。アキラをなだめるためにアキラに近付けば、アルナをまもるためにアルナに近付けば、レイナは再びすきを突かれて人質になってしまうかもしれない。アルナに人質に取られ、再びアキラとシオリが殺し合うことになるのかもしれない。アキラに人質に取られ、今度はカツヤ達とシオリが殺し合うことになるかもしれない。


 レイナはまた足手まといになり、自分の所為で殺し合う者達を見ることになるのかもしれない。


 あの日から心に積もっていた悔恨が、レイナを決断させた。


「……カツヤ、ごめん。私はそこまでカツヤにつきあえない。彼女のために、そこまで命は賭けられない」


 レイナとしても苦渋の決断だった。だがレイナのカツヤに対する恋心は、カツヤの無償の善意とシオリを巻き込んでまで心中できるほど高くはなかった。


 ユミナが少しかなしげな視線をレイナに向けている。アイリが少し非難めいた視線をレイナに向けている。ある意味ユミナとアイリは、カツヤの善意に殉じることができるほどにカツヤに恋い焦がれているのだろう。アルナをカツヤの背中から引きはがし、アキラの方に蹴り飛ばさない程度には。それを実行して、カツヤから嫌われることを躊躇ためらう程度には。


 カナエが空気を全く読まない明るい声で話す。


「あ、私は別にカツヤ少年の方についても良いっすよ?」


 しかしシオリからの無言の威圧を受けて、カナエはあっさり前言を翻す。


「今の無しで! 悪いっすね! これも仕事なんで! お嬢の護衛が仕事なんで! じゃあ今日はこれで解散っすね! さあお嬢! 帰りましょう!」


 カナエがレイナの両肩に手を置いて、レイナを押しながら足早に去っていく。シオリはカツヤ達に一礼し、カナエの後に続いた。


 レイナ達がアキラ達から十分離れた後、アキラがつぶやく。


「4対1……」


 カツヤ達は去っていくレイナ達を目で追っていて、アキラへの意識ががれていた。だがそのつぶやきを聞いて我に返り臨戦態勢を取る。


 カツヤ達はまだアキラへ銃を構えて銃口を向けてはいない。しかし指先は装備している銃のすぐそばまで伸びている。カツヤ達の指が銃に触れた瞬間、アキラがそれに反応して反射的に攻撃してくるかもしれない。その判断がカツヤ達の迂闊うかつな行動を瀬戸際で食い止めていた。


 アキラのつぶやきはカツヤ達に自分達の状況を再確認させた。4対1だ。3対1ではない。つまりカツヤ達は確実に足手まといになるであろうアルナをまもりながらアキラと戦わなければならないのだ。


 カツヤ達は表情を非常に険しくさせている。敵を前に厳しい条件で極めて高い緊張を維持しながら経過していく時間が彼らの精神を摩耗させていく。それはアキラよりも早くカツヤ達の方から行動に出るまでの残り時間を徐々に減らしていった。


 アキラは表情を変えずにカツヤ達を見ている。アキラの目からアルナと、彼女をまもっているカツヤ達に対する敵意と戦意は欠片かけらも揺らいでいない。アキラが行動に移らないのは、単純にカツヤ達との戦力差のためだ。


 アキラも自分の命と引き替えにしてまでアルナを殺したいわけではない。そうでなければカツヤ達の意識がアキラかられた時点で行動に出ていた。


 7対1から4対1になり、アキラとカツヤ達の戦力差は大幅に縮まった。それでもアキラの勝率は無謀の域を脱していない。差し違えたとしても、アキラの死を前提に行動したとしても、アキラが勝つ見込みは低い。


 前進して戦端を開くのを、アキラの理性が押しとどめている。後退してこの場から引き下がるのを、アキラの憎悪が抑え付けている。その結果、アキラもまた動けずにいた。


 状況を変える契機を生み出したのはアルファだった。アルファが厳しい表情でアキラを叱責する。


『アキラ。引きなさい。今、この場で、絶対に、もう少し待てば新しい装備が手に入るのを待たずに、明確に不利な戦力差を無視して、命懸けで彼女を殺さなければならない理由はないはずよ。今アキラがやろうとしていることは、私には恥の上塗りにしか見えないわ。戦えば確実にアキラは死ぬわ。アキラ。私の指示には従えない? 私の言うことは信じられない?』


 アルファの言葉を聞いてもアキラの表情に変化はない。敵意を絶やさずにカツヤ達を注視している。


 しかしそれ以外の変化はあった。アキラはカツヤ達への警戒をおろそかにせず、カツヤ達に背中を見せない状態のまま、一歩後ろに下がった。そのままアキラはカツヤ達から少しずつ離れていく。アルナとアキラが出てきた路地の奥へアキラが姿を消すまで、アキラは表情を変えずにカツヤ達を見続けていた。


 アキラの姿が消え、気配が消え、十分時間が経過した後、カツヤ達はようやく警戒を解いた。臨戦の緊張から解放されたカツヤ達が大きく息を吐く。


 戦ってすらいないのにカツヤ達は大きく疲労している。下手な戦闘後よりも精神の摩耗が激しい。対人戦の経験が乏しいことも原因だろう。善良で真っ当なハンターで、ドランカムという大きな後ろ盾もあるカツヤ達には、敵のハンターと殺し合う機会など滅多めったにないのだ。


 カツヤ達はハンター活動の中で多くの戦闘経験を積んでいたが、誰かからここまで激しく敵意と殺意をぶつけられたことはなかった。


 ユミナが彼女にしては珍しく激しくカツヤを叱責する。


「カツヤ! こんなことは二度と御免だからね!」


 カツヤが思わず反論する。


「彼女をあいつに引き渡せば良かったって言うのか!?」


「そっちじゃない!」


 カツヤの反論は、更に声を荒げたユミナに潰された。ユミナの余りの気迫にカツヤが身をすくませる。


「カツヤが余計なことを言わなければ、何事もなく済みそうな流れだったでしょ!? 何であんなこと言ったの!?」


「あ、あそこまで怒るとは思わなかったんだ」


「私が聞いているのは言った理由! それともカツヤはあの程度なら笑って許してくれるとでも考えて、あんなことを口走ったの!?」


「く、口が滑ったんだ。ご、ごめん」


 カツヤは心底済まなそうにユミナに謝った。反省だけはしているようだ。


 ユミナも内心の不満を吐き出してある程度落ち着きを取り戻した。強くにらみ付けていた表情を少し緩めて、再び深く息を吐いた後、カツヤに大きなくぎを刺す。


「次に同じことをしたら、カツヤの口と喉を義体の部品で改造して、私の許可無しじゃ何もしゃべれなくするわよ? 良いわね? 分かった?」


「わ、分かった」


 カツヤの必死な返事を聞いて、ユミナもようや溜飲りゅういんを下げた。アルナの相手をするだけの余裕を取り戻したユミナが、まだ茫然ぼうぜんとしているアルナに声を掛ける。


「御免なさい。カツヤの所為でややこしいことになってしまって」


 アルナが慌ててカツヤ達に礼を言う。


「い、いえ! 私の方こそ巻き込んでしまって申し訳ありません! 助けていただいて本当にありがとう御座いました。おかげで助かりました」


 アルナはどこか熱っぽい視線でカツヤを見ていた。窮地に陥った自分を命懸けで救ってくれた異性に向ける視線としては、然程さほど不思議なものではないだろう。アルナも例外ではない。


 アイリはカツヤ達とアルナのり取りを、一歩離れた位置で観察していた。


 比較的恵まれた環境からハンターに成ったカツヤとユミナとは違い、アイリは比較的恵まれていない環境からハンターになった。アイリは過去の経験による推察から、アキラの話は恐らく事実であると察していた。


 アイリはカツヤ達にそのことを告げるかどうか迷ったが、結局黙っていることにした。アイリがそのことをカツヤ達に伝えれば、その判断の根拠も一緒に教えることになるからだ。それに態々わざわざ真実を伝えてカツヤ達を不機嫌にさせることもないだろう。もう済んだことなのだから。アイリはそう考えて口をつぐんだ。




 スラム街の路地裏をアキラが歩いている。アキラは当初の目的地であるシェリルの拠点を目指していた。その表情はカツヤ達から離れた時と余り変わっていない。


 アキラがこの状態のままで誰かに会うのは不味まずい。事態の僅かな揺らぎで更なる余計なめ事が発生しかねない。そう判断したアルファが相手を落ち着かせる優しい声で話す。


『アキラ。深呼吸でもしたら?』


 アキラが立ち止まり、無言でアルファを見る。アルファが微笑ほほえんで話す。


『ん? やり方が分からないの? 方法を説明した方が良い? それとも手本を見せた方が良い?』


 尋常ではない表情のアキラに無言で見られても、アルファの微笑ほほえみが崩れることは無い。口調もいつも通りのものだ。


 アキラは黙って深呼吸をする。そのままアキラは何度も何度も何度も深呼吸を繰り返す。


 最後にアキラは大きく息を吐いた。アキラの表情は軽い自己嫌悪で少し落ち込んでいる程度にまで回復していた。


 アキラは念話でアルファに謝る。


『……ごめん』


 念話で話したためか、謝罪の言葉に合わせてアキラの様々な心情が入り交じってアルファに伝わっている。謝罪、後悔、後ろめたさ、そして感謝。


『良いのよ』


 アルファはそれらを受け止めた上で、何でもないことのように返事を返した。


 アキラが再び歩き出す。アルファもアキラの横を歩く。


『今更だけど、俺はアルファに頼りっぱなしだな』


『もっと頼っても良いのよ? 私にしてほしいことがあったら何でも言ってちょうだい』


『そう言われても、もう十分世話になっているしな。逆にアルファが俺にしてほしいこととかないのか?』


『そうね。私の依頼を完遂するまで死なないでほしいわ』


『……ごめんなさい』


よろしい』


 アキラは素直に謝り、アルファは満足げに微笑ほほえんだ。


 アキラはシェリルの拠点の前まで来たが、中に入らずにそのまま帰ることにした。落ち着きを取り戻したと言っても、普段通りの平静を保っているわけではない。無意識のうちにシェリルにひどく当たってしまうかもしれない。日を改めた方が良いだろう。


 アキラはきびすを返して家に戻っていった。




 アキラがシェリルの拠点を離れた後、そこに2人の少女が現れる。1人はナーシャという名前のスラム街にいるありふれた少女だ。そしてもう1人はアルナだった。


 アルナが不安そうにナーシャに尋ねる。


「ナーシャ。本当に大丈夫なの?」


「大丈夫よ。ここの徒党のことはいろいろ聞いた上で判断したんだから。ここの徒党に入るのを断られても、殺されたり、身ぐるみ剥がされたりすることはないと思うわ。……多分」


 ナーシャとアルナはシェリルの徒党へ加わることを希望していた。


 シェリルの徒党は小規模ではあるが、この近くで生活しているスラム街の少年少女達から強い注目を集めていた。


 構成員がボスであるシェリルを始めとして、全員子供と呼んでも良い年齢の者であること。それにもかかわらず組織としてしっかり運営されており、構成員の安全もある程度保たれていること。更に一定の銃や食料も確保できていることなど、比較的優良な徒党であることが広まりつつあった。シェリルの徒党に加わり、その恩恵にあずかりたい人間は徐々に増えていた。


 ナーシャがアルナの不安を吹き飛ばすように笑って話す。


「第一、私をかしたのはアルナでしょう? 今更私を尻込みさせてアルナはどうする気なのよ」


「そ、それはそうだけど……」


「理由は分からないけど、ここの徒党のボスは部下に盗みも殺しも禁止させている。だからアルナが徒党に加わっても、アルナにスリはさせないはず。まずは私が先に入って本当にそうなのかを確認する。確認が取れたらアルナも一緒に入る。そう言う計画でしょ?」


 アルナが申し訳なさそうに話す。


「ナーシャ。御免ね。私のために1人で探りを入れさせるような真似まねをさせてしまって。本当に気を付けてね」


「良いって。私も元々ここに入る機会をうかがっていたし、ちょうど良かったわ」


 ナーシャがアルナに右手を出して何かを催促する。アルナが懐から紙幣を取り出してナーシャに握らせる。


 ナーシャもアルナも、伝も金も無しにシェリルの徒党に加われるとは思っていない。同時に、徒党のボスや配下の人間に渡す手土産や心付けがあれば、比較的徒党に加わりやすくなるとも考えている。アルナとナーシャのなけなしの金を使用して、便宜を図ってもらう計画だった。


 ナーシャは受け取った紙幣を数え終えると、表情を険しくさせた。


「9万オーラム!? アルナ、ちょっとあんた稼ぎすぎよ!? 死ぬ気!?」


 アルナの稼ぐ手段はナーシャもよく理解している。アルナから渡された金額は、スラム街の住人なら死に物狂いで取り返しに来るのに十分な額であり、殺してでも奪うに足る額である。


 アルナはおびえの混ざった必死な表情でナーシャに答える。


「分かってる! さっきも話したでしょ!? 本当に死ぬところだったの! 運良く助けてもらえたけど、ギリギリだった! 分かってるからナーシャをかしてるの! スリなんかしなくても生きていけるように! もうあんな目に遭わずに済むように!」


 自分を追ってくるアキラの姿を思い出して、カツヤ達と対峙たいじしている時のアキラの様子を思い出して、アルナは軽く震えた。


 ナーシャはおびえるアルナの姿を見て、彼女を落ち着かせるために抱き締める。アルナの震えは少しずつ治まっていった。


 アルナがナーシャを抱き締め返して話す。


「ごめんね。ナーシャ。十分気を付けてね」


「アルナは私より自分の心配をしなさい。ちゃんと隠れていなさいよ?」


 アルナとナーシャは互いの身を案じて別れた。アルナはスラム街の隠れ家に向かい、ナーシャは覚悟を決めてシェリルの拠点の中に入った。




 アキラは家から一歩も出ずに訓練と勉強を続ける日々を送っている。新しい強化服が届くまで、それに付随するアルファのサポートを取り戻すまで、なるべく外に出ないことにしたからだ。


 多分今は運の悪い時期なのだ。財布を盗まれたのも、きっとその所為だ。アキラは適当な理由を付けて家に籠もっていた。


 アキラはアルファに出会えた幸運で運を使い果たした。だから基本的に運が悪い。その不運を努力とアルファのサポートで乗り越えている。あの時は油断がその努力を打ち消し、強化服のない状態がアルファのサポート能力を低下させていた。だから財布を盗まれるなどという醜態をさらしたのだ。アキラはそう考えていた。


 何の根拠もない話だが、あの時アキラが油断していなければ、又はアルファによる強化服の操作というサポートを受けられる状態であれば、アキラが財布を盗まれることはなかったのも事実だ。ある程度辻褄つじつまが合っているとも言える。それはアキラに取って十分な根拠となっていた。


 アルファとしても、今のアキラを外に出して余計な事態が発生する可能性を上げるのは避けたい。最低でもアキラの新装備、特に新しい強化服が来るまでは、アルファはアキラを外に出す気はなかった。


 アキラとアルファの意思が一致しているため、アキラは家の外に出ないで訓練を続けている。


 アキラの体感時間操作の訓練は順調に進んでいる。アキラの実力が劇的に向上したわけではないが、体感時間の圧縮に成功した回数は徐々に増えている。以前のように、疲労で動けなくなったという理由で、訓練を終了させることもなくなっている。ただしそれはアルファがアキラの疲労の程度を考慮して、攻撃の間隔を狭めているためでもある。


 そのためアキラが体感時間操作の訓練を終えた時、アルファが身に着けている過剰に装飾されていた衣装が、全裸と変わらない程度にまで布地を減らしているのは前と同じだった。


 アキラがアルファの攻撃を避けるのに失敗した分だけ、アルファが身にまとっている布地の量が減っていく。最後の布地がアルファの体から離れて宙に舞い、そのまま音もなく消えた。


 肌を隠す効力などまるでない装飾品のみを身に着けている格好のアルファが、疲労で呼吸を荒くしているアキラに訓練の終了を告げる。


『今日はここまでね。お疲れ様』


 アキラは呼吸を整えながらアルファの格好を見ている。


『どうしたの?』


「……いや、その格好がな」


『ん? 着エロ派のアキラとしては、こういう格好はお気に召さない?』


 アキラが少しだけ向きになったような態度で答える。


「違う。そういう話じゃない。少しは体感時間操作をできるようになったのに、訓練終了時のアルファの格好が、この訓練を始めた頃の時と変わっていない。つまり俺がアルファの攻撃を避けられないことは変わっていないってことだ。それを気にしてたんだ」


 アキラは自分の訓練の成果に不満と不安を覚えていた。自身の成長に実感を持てないでいた。


 アルファがアキラを安心させるように微笑ほほえんで話す。


『それは仕方ないわ。アキラの体感時間が10倍になっても、アキラの身体能力が10倍になるわけではない。意識上の体の動きと実際の体の動きのずれを調整して、その上で自在に動けるようになるのは大変よ。そんなすぐに上達するものではないわ。大丈夫。少しずつだけれどアキラの動きは良くなっている。私が保証するわ』


「……そうか。あんまり実感がないけど、アルファがそう言うならそうなんだろうな」


『そうよ。安心しなさい』


「分かった」


 アキラは気を取り直して、休むために部屋に戻ろうとする。車庫から出るドアに手を掛けて、そこで一度動きを止めて、アルファの方を見て話す。


「服を戻せ」


『ん』


 アキラに指摘されたので、アルファが言われたとおりに服を元に戻した。


 訓練中はアキラも意識を切り替えている。少なくともそうしようと心がけている。そのためアルファの格好も然程さほど気にならない。つまり、アキラの意識が再び切り替わる時、訓練場として意識している車庫から出た後は別なのだ。


 訓練を終えたアキラがいつものように休息を取りながら食事をしている。代わり映えしない冷凍食品だ。


 アキラの家には台所も調理器具もある。前の住人の置き土産だ。しかし当たり前だが料理技術までは置いていってくれなかったので、アキラには料理などできない。冷凍食品がそれなりに美味うまいことも有り、アキラは今のところ自分で作る気がなかった。


 アキラの生活水準が更に向上し、自分で料理を作る娯楽にアキラが目覚めるまで、これらの調理器具が十全に活用される機会はないだろう。


 アキラが食事を続けながらこの後の勉強内容についてアルファに尋ねる。


「今日は何を勉強するんだ? 昨日の社会の続きか? 東部統治企業連盟の実効支配領域における統治企業都市間の資源分布と交易について、だっけ?」


 東部の都市の名前など、自分が住んでいるクガマヤマ都市ぐらいしか知らなかったアキラも、最近はアルファの教育によって常識的な知識を身に着けつつあった。その成果か、アキラの知識欲は少しずつ高まっていた。アキラが常識的な知識を身に着けつつあると言っても、都市の防壁の内側に住む人間の知識に比べれば、アキラの知識はまだまだつたないものなのだが。


 アルファがアキラに知識を与えるのは、それがアキラのためであること以上に、アルファのためになるからだ。


 アルファはアキラに与える知識とその教え方を精査している。アルファの目的をアキラが達成しやすいように。アルファの目的達成の妨げとなりかねない主義主張に対して、アキラが自然と不審懐疑反発を抱きやすいように。


 アキラの勉強は、アキラにも、アルファにも、重要な意味を持っていた。


 今日もその勉強が行われる予定だったのだが、アルファはそれを取りやめた。


『今日は無しよ。シズカからアキラの新装備が届いたっていう連絡が来たから、受け取りに行きましょう』


「おっ! これでやっとハンター稼業に戻れるな。すぐに行こう」


 アルファが目的を達成するためにも、アキラには強くなってもらわなければならない。アキラの装備の充実と練度の上昇はアキラの勉強よりも優先される。


 アルファは少し浮かれ気味のアキラを微笑ほほえんでていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る