第70話 英雄の資質

 カツヤは仲間と一緒に下位区画の大通りを歩いていた。カツヤ、ユミナ、アイリ、レイナ、シオリ、カナエの6人だ。最近クガマヤマ都市に派遣されてきたカナエにクガマヤマ都市の下位区画を案内する名目で、いろいろな場所を回っている途中だった。


 女性陣の容姿は全員下位区画の平均を上回っている。更にメイド服を着ている女性が混じっているため、カツヤ達はそれなりに目立っていた。


 メイド服を着ているのはカナエだ。都市の下位区画でハンター向けの戦闘服を着て出歩く女性は珍しくないが、メイド服を着て出歩く女性は珍しい。そのため周囲の人間の好奇の視線がカナエと、彼女と一緒にいるカツヤ達にそこそこ集まっていた。


 レイナがめ息を吐いてカナエに尋ねる。


「カナエ。本当にこれからもその服で私に付いてくる気なの?」


 カナエが平然と答える。


「そのつもりっすよ?」


 カナエも自分の格好が周りから注目されていることは理解しているが、全く気にしていなかった。これは彼女の性格にるものだろう。


 しかしレイナはかなり気になっていた。


すごく目立ってるじゃない。それを脱ぐ気はないの?」


「いや、私が下に強化服を着ているからって、そんなことを言われても困るっすよ。あんな痴女手前のぴっちりスーツで公共の場に出歩く趣味は私には無いっす。人にそんな服を着せて見せびらかす趣味がお嬢様にあるとしても、それは私の仕事の範疇はんちゅうを超えているっす。ちょっと勘弁してほしいっすよ」


 われのない趣味をさらっと付けられそうになったレイナが少し大きな声で話す。


「私にそんな趣味はないわ! 着替えろって言ってるのよ! 他の防護服を着れば良い話でしょ!?」


「そう言われても、手持ちの中でこれが一番性能が良いやつっすからね。多少目立つ程度のことを嫌がって、安値の防護服に着替えて死ぬ危険を増やす気は無いっす。荒野に出れば視線なんか関係ないし、別に良いじゃないっすか。ああ、お嬢がもっと高性能な防護服をプレゼントしてくれるんなら考えるっす。まあそんな余分な金が有るのなら、お嬢の装備代に回すべきっすけどね」


 レイナが言葉に詰まる。その格好が気に入らないから性能の低い装備に変えろ、とまではレイナも流石さすがに言えないのだ。


 レイナが助けを求めるようにシオリを見る。シオリは黙って首を横に振った。


 シオリにとってカナエはレイナの盾である。カナエはレイナの護衛として、万が一の場合にその身を盾にしてレイナをかばうのが仕事だ。その盾を薄くする気はシオリにはない。


 カナエが他人ひと事のように笑って話す。


「まあ、お嬢がもっと強くなって、追加の護衛なんか不要だと判断されたら私は帰るっすから、それまでの辛抱っすよ」


 暗に、レイナが弱いのが悪い、不満なら強くなれ、とカナエに言われて、レイナは言い返す内容を思案するのを止めた。


 そもそもレイナの護衛がシオリ一人では不十分だと判断されなければ、カナエが追加で派遣されることもなかったのだ。そしてそう判断される原因を作ったのはレイナ自身だ。


 レイナは少し不満げに顔をゆがませたが、め息を吐いて軽く項垂うなだれた。レイナも自身の実力不足を身に染みて理解しているからだ。


 カツヤが落ち込んでいるレイナを元気づけるように声を掛ける。


「俺達も協力するから頑張って一緒に強くなろう。レイナならすぐに強くなれるさ」


「……ん、ありがとう。……ん?」


 カツヤに気遣われ、レイナは少し元気を取り戻した。と、同時に会話に引っかかりを覚えた。


 それは正しく、カツヤが続けてレイナに提案する。


「だから、その、レイナが俺達のチームから抜けるって話、止めないか?」


 レイナ達はカツヤをリーダーとするドランカムのチームに所属していた。レイナがまだカツヤの実力を認めていない頃、カツヤの実力を見極めるために少々強引に加入したのだ。


 カツヤの実力を認めた後もレイナはそのままチームに所属し続けていた。レイナは自分の実力と実績を増やしてカツヤに追いつくために、レイナの実力では少々厳しい依頼にも無理矢理やり気味に参加していた。


 レイナはクズスハラ街遺跡の地下街での戦闘後にカツヤのチームから抜けていた。カツヤはそれをシオリの体調が回復して追加の人員であるカナエが到着するまでの一時的なことだと考えていた。


 しかしカツヤの予想に反してレイナはそのままカツヤ達のチームから正式に抜けることになった。レイナがそれを望んだからである。


 ドランカム所属のハンターチームにドランカム側から紹介される依頼は、チームに所属するハンター達のハンターランクの合計と平均を基準にして割り振られる。当然その数値が高いほど、難易度と報酬の高い依頼が割り当てられるのだ。


 レイナがカツヤのチームから抜ければ、レイナに割り当てられる依頼の難易度と報酬額はかなり低くなる。クズスハラ街遺跡地下街関連のような高額の依頼が紹介されることはほぼなくなる。レイナのハンターランクを上げる機会は大分減ることになる。


 カツヤが善意で自分を引き留めていることはレイナも理解している。下心、例えばシオリやレイナの美貌、レイナの護衛としてそばにいるシオリとカナエの戦闘技術など、それらを含めて引き留めているのかもしれないが、カツヤの性格から考えてそれが主目的ではないことはレイナにも分かっていた。


 しかしそれを分かった上でレイナは首を横に振る。


「ごめん。カツヤのチームから抜けるのを止める気はないわ。元々私が無理にカツヤに付いていこうとして、地下街の依頼に加わったのが原因だからね。身の程を超える依頼に手を出して、それでシオリにすごい迷惑を掛けたわ。だからこれからは、私一人でも何とかなる程度の依頼から少しずつ焦らずにやっていくつもりよ」


 地下街でレイナ達が別行動をしていた時に何かがあった。それはカツヤも知っている。しかし具体的に何があったかはまでは分からなかった。


 カツヤも一応レイナ達に尋ねてはみたのだ。しかしレイナもシオリも適当に濁すだけで話そうとしなかった。カツヤが知っているのは結果だけだ。レイナは戦闘不能なまでに疲労困憊こんぱいになり、シオリは病院送りになった。その結果だけだ。


 カツヤはレイナ達のそばに居らず、2人を守れなかったことを悔いていた。自分がそばにいて自分が何とかすれば回避できた事態ではないか。カツヤはそう考えていた。


 カツヤは少し照れながらも、自信のある笑顔でレイナに話す。


「俺のチームに所属したままでも、ある程度依頼のり好みはできる。それに、一緒にいれば、また何かあった時は、俺がレイナを守る。だからその、考え直さないか?」


 カツヤとレイナのり取りを聞いていたユミナとアイリが異なった反応を示す。ユミナは呆れと諦めの混じっため息を吐き、アイリは少し不満げな表情を浮かべて目つきを鋭くする。


 カツヤの言葉はまるでレイナを口説いているようにも思えるが、カツヤにはその自覚は全くない。カツヤは似たような言動を他の異性にも繰り返しており、しかも有言実行で、時には自分の身を顧みず相手を助けたり守ったりもしている。


 その結果カツヤは助けた相手から好意を抱かれる事が多く、異性の取り巻きを徐々に増やす原因になっていた。


 ユミナはカツヤとの長年の付き合いから、カツヤの言動を修正するのは諦めている。アイリは自分もカツヤに助けられた身の上のため、カツヤを止めることができないでいる。


 カツヤの身近にその誤解を招く言動をたしなめる者がいないため、既にカツヤのチームに所属しているハンターの男女比は異常に偏った数値になり果てていた。


 ユミナもアイリもこれでレイナが考えを曲げるだろうと思っていた。しかしレイナの返答は異なるものだった。


 レイナがカツヤに問い詰め気味に尋ねる。


「……カツヤ。そう言ってくれるのはすごうれしいわ。本当よ。でもね? 私はそんなに駄目? 元々シオリがいて、追加でカナエが来て、更にカツヤにしっかり守ってもらわないと駄目なほど、私はどうしようもない? カツヤの目から見ても、私はそんなに駄目に見えるの?」


 レイナの表情にカツヤを非難する色はない。しかしその表情は真剣そのもので、どこか危うさがあるものだった。


 レイナの気迫に押され、カツヤが慌てながら答える。


「そ、そんなことはないって。チームで助け合った方が安全に効率的に戦えるってだけだよ。レイナの実力を認めているからこそ、俺のチームにとどまってもらいたいと思って言ってるんだ」


 レイナはカツヤの真意を探るようにカツヤを見た後、首を横に振った。


「……ごめん。悪いけど、私は私の実力をそこまで認められない。だから止めておくわ」


「そ、そうか。残念だけど仕方ないな。レイナの気が変わったらいつでも言ってくれ。待ってるから」


 カツヤがそう言い終わると、カツヤ達の間に沈黙がよぎった。


 レイナは押し黙っている。シオリはレイナの気持ちを理解して、下手な慰めは逆効果だと判断して口を閉ざしている。カナエはこの場で変なことを言うとシオリに恨まれそうなので黙っている。ユミナはレイナの心情の背景を知らないため、下手に声を掛けることができずにいた。アイリはカツヤに引き留められたレイナに嫉妬を覚え、口を開くと余計なことを言いかねない自分を抑えるために黙っていた。


 カツヤは微妙な居心地の悪さに注意力が散漫になっていた。そのため通路から勢いよく飛び出してきた少女を避けることができなかった。


「おい! 気を付けろ!」


 カツヤは苛立いらだちから、彼にしては強い調子で少女に声を掛けた。少女がひどおびえた表情でカツヤの方を見た。


 そこまでおびえさせるほど強く怒鳴りつけてしまっただろうか。カツヤはそう疑問に思ったが、取りあえずその疑問は後回しにして少女を落ち着かせるべく、微笑ほほえみながら優しい声で声を掛ける。


「大丈夫か?」


 効果があったのか、少女の表情が落ち着きを取り戻したものに変わる。一連のり取りをユミナはあきれながら、アイリは表情を険しくして見ていた。またか、などといった彼女達のつぶやきは空に溶けた。


 カツヤ達は少女が飛び出してきた通路から更に誰かが走ってきているのに気が付いた。少女の表情に再び強い恐怖が浮かぶ。


 少女がカツヤに抱き付いて、叫ぶように助けを求める。


「助けてください! 追われてるんです!」


 少女はアキラの財布を盗み、アキラに追われていたアルナだった。


 そして新たに通路から出てきた人物は、アルナを追っていたアキラだった。




 アキラは困惑しながら状況の把握に努めていた。


 アキラの財布を盗んだアルナがカツヤに抱き付いている。ユミナ、アイリはアキラを強く警戒し、非難や軽蔑に近い視線を向けている。カツヤはアルナを左腕で抱き締めつつ、右手は何時でも銃を構えられる体勢を維持している。カツヤがアキラに向ける表情と視線は、既に敵対者へ向けるものに変わっている。


 レイナとシオリはアキラと同様に困惑しつつ状況の把握に努めている。カナエは事態を楽しんでいるかのように薄く笑っていた。


 アキラとカツヤ達がお互いに視覚から得られた情報の精査を終えた。


 カツヤ達を警戒するアキラにアルファがくぎを刺す。


『アキラ。冷静に行動しないと駄目よ?』


『分かってる』


 アルファとの会話は念話で行う。その程度の冷静さはアキラも取り戻していた。カツヤ達と対峙たいじすることで、警戒しなければならない戦力を持つ人物達と相対することで、アキラは急速に冷静さを取り戻していく。


『アルファはどう思う? あのスリと、えっと、カツヤ? だっけ? あいつの知り合いだと思うか? あいつの知り合いなら、あのスリはスリを副業にしているハンターの可能性もあるのか? 所属はドランカムか?』


『どの程度偶然なのかによるわ。全て偶然なら、闇雲に逃げた先に偶然人の良さそうなハンターがいたので、適当なことを言って助けを求めたのかもしれないわ。全て必然なら、事前に念入りに把握していた逃走ルートで逃げていて、スリの元締がいそうな場所に駆け込んだのかも。スリの上がりの何割かと引き替えに、バレた時に守ってもらう約束でもしていたのかもね』


『……偶然の方かな。スリの上がりを欲しがるほど、金に困ってるハンターには見えないし』


『人は見かけによらないと言うし、塵も積もれば山となるとも言うわ。でもどちらかと言えば、私もアキラと同意見ね。それで、どうするの?』


『……どうしようか』


 このまま黙って対峙たいじを続けても事態の進展はない。アキラは当初の目的を果たすため、一応提案してみることにした。


「俺はそいつに用がある。渡してもらえないか?」


 それを聞いたアルナの体が大きく震える。カツヤはすがるように抱き付いているアルナから、その震えをしっかりと感じ取った。カツヤがいだくアルナへの庇護の意識が大きくなり、それはアキラに対する敵意を燃料にして膨れあがった。


 何の罪もない幼気いたいけな少女であるアルナを、理不尽かつ身勝手な理由でアキラが追っている。既にカツヤの中ではそれが既定事実となっていた。


 カツヤがアキラを明確な敵としてにらみ付ける。


「そう言われて素直に渡すとでも思っているのか?」


 大方予想通りだったカツヤの返事を聞いて、アキラは険しい表情で次の行動を思案する。


 ユミナとアイリは万一の場合にカツヤを援護できる位置に移動している。レイナはまだ困惑から回復しておらず、シオリはレイナをかばいつつ状況の推移を注視している。


 徐々に緊迫感を増していく中、カナエだけがどこか楽しげにしていた。それは状況を楽観視しているのではなく、荒事を楽しむカナエのさがによるものだ。


 カナエがどこか場違いのような明るい声でアキラに尋ねる。


「それで、何で彼女を追っかけていたんすか?」


「そいつが俺の財布を盗んだからだ」


 全員の視線がアルナに集中する。アルナがあからさまに狼狽ろうばいし始める。カナエがアキラへ向けたものと同じ口調でアルナに尋ねる。


「そう言ってるっすけど、盗んだんすか?」


 アルナは必死になってカツヤに訴える。


「知りません! 突然すごい怖い顔で私を追いかけてきたんです! だから必死に逃げてきたんです! 本当です!」


 アルナが慌てている原因が、身に覚えのない冤罪えんざいを押しつけられたためなのか、それとも隠し事が露見したためなのか、カツヤには判断できない。しかしアルナの必死さだけは正しくカツヤに伝わった。


 カツヤは自身のアキラに対する評価に引きずられ、どこか軽んじた口調でアキラに尋ねる。


「彼女がったっていう証拠でもあるのか?」


「証拠か……」


 アキラが返答内容を思案してしばらく黙る。カツヤはアキラの沈黙を否定と捉えた。


「黙ってるってことはそんなものないんだろう? どうせ財布もどこかに落としたとかじゃないのか?」


 アキラとカツヤの目つきが共に鋭さを増す。場の緊張が高まっていく。


 アイリがアルナに詰め寄る。


「私が彼女を調べる。盗んだのなら、調べれば財布が出てくるはず」


「わ、分かりました。調べてください」


 アルナがカツヤから離れ、アイリの前に両手を挙げて立つ。アイリがアルナの体を調べようとする前に、アキラが口を挟む。


「財布は出てこない。そいつは俺の財布から金だけ抜き取って、財布自体は逃げる途中で足が付かないように捨てたからだ」


 アキラの説明を聞いて、アイリがアルナを調べるのを止める。アイリは少し思案し、アキラに尋ねる。


「財布には幾ら入ってた?」


「10万オーラムぐらいだ」


 アイリはアルナの服装を見る。アルナの服装はそれなりにしっかりしたものだ。スラム街でよく見かける100オーラム持っているかどうかも怪しいボロボロの服装ではない。


 アイリがアルナの体を調べ、10万オーラムが出てきたとしても、それを盗んだ証拠だと言い張るのは難しいだろう。偶然持っていたで済む話である。


 アイリがアキラの様子をうかがう。証拠はない。だから引き下がれ。仮にアイリがアキラにそう言ったとして、アキラがそれで引き下がる相手には、アイリには欠片かけらも見えなかった。


 今度はユミナが口を挟む。


「誤解や何かの間違いの可能性は全くありませんか? 本当に、絶対に、間違いなく彼女なんですか?」


「間違いない。そいつだ」


「確実にそう言い切ることができる根拠は、そう判断した根拠は何ですか? 服に手を入れられた時に一度捕まえて逃げられたんですか? 財布がなくなったことに気が付いた時、周辺に彼女しかいなかったからですか?」


「いや、それは、その」


 責めるわけでもなく落ち着いた口調で話すユミナにそう問われて、アキラは言いよどんだ。


 財布を盗まれたことに気付いたのはアルファだ。アキラではない。少なくともアルナがアキラの財布を投げ捨てるまでは、アキラはアルファを信じてアルナが犯人だと決めつけていた。盗まれた時点でアキラがそう判断した根拠は、アルファがそう言ったから、それだけだ。しかしそれを話すわけにはいかない。


 言いよどんでいるアキラにユミナが続けて尋ねる。


「情報収集機器の記録から判別したとか、そんな理由ですか? 自衛のために情報収集機器を町中でも常に起動させているハンターもいると聞いています」


「いや、違う。第一、俺が使ってた情報収集機器は前の戦闘で壊れたんだ」


「では一緒にいた知り合いに教えてもらったとかですか? 今から会いに行けば、証言してもらえますか?」


「いや……、その……」


 ユミナの指摘は正しい。しかしアルファはアキラにしか認識できないのだ。アキラは再び言いよどんだ。


「盗まれた場所に監視カメラなどは設置されていませんか? 下位区画の大通りとかなら設置されている可能性があります。調べれば分かるかもしれません」


「……いや、盗まれた場所はスラム街の近くだから、多分ないと……思う」


 ユミナと会話を続けていく内に、アキラの声の調子はどんどん下がっていく。


 当初に比べかなり勢いを落としているアキラに、ユミナが落ち着いた口調で続けて話す。


貴方あなたうそを吐いているとは言いません。貴方あなたの判断が間違っているとも言いません。複雑な事情があって私達には話せないけれど、確信できる根拠が貴方あなたにはあるのだと思います。それでも、私達にその内容を話せない以上、貴方あなたが言っていることを鵜呑うのみにして、根拠なく信じて、彼女を引き渡すことはできません。分かってもらえませんか?」


 ユミナはアキラの言い分をある程度信じた上でアキラに理解を求めた。ユミナの話はアキラも十分納得できる内容だ。相手の非を決めつけるわけでもなく、相手の立場を理解した上での話は、アキラをそれなりに落ち着かせ、その勢いを削いだ。


 アキラはユミナと話して大分平静を取り戻している。無関係な人間を巻き込むのはアキラも本意ではない。


 既に場の空気は弛緩しかんしている。このまま何事もなく終わる。そのような空気が流れている。カナエは少し不満げな表情を浮かべていた。


『アキラ。ここは引きましょう。確かに何も説明できないのに、黙って信じてもらうのは難しいわ』


 アルファにもそう諭され、アキラはそれに同意しようとしていた。


 物事の勝敗の基準は様々だ。現状に対し無理矢理やり勝敗を割り当てたとする。


 アルナに財布を盗まれて、金を取り返すことができずに引き下がろうとしているアキラは負けたのかもしれない。アキラから財布を盗み出し、カツヤに守られているアルナは勝ったのかもしれない。自分に助けを求めてきた少女を守ることができたカツヤは勝ったのかもしれない。


 しかし、全てはまだ物事の過程にすぎない。


 カツヤは少し浮かれ気味だった。威勢良く出てきたアキラは、ユミナに言いくるめられて引き下がろうとしている。自分が嫌っている人物から逃げてきた少女を、アキラからまもり引き渡さないことができている。それらの事象がカツヤを高揚させている。更に弛緩しかんした場の空気がカツヤの意識に緩みを生んでいた。


 そのような様々な要因が複合した結果、カツヤが軽口をたたく。


「ふん、られたとしても、ハンターがそんな油断しているのが悪い」


「カツヤ!」


 ユミナがカツヤを強めにたしなめた。そしてカツヤの代わりに謝ろうと、慌ててアキラの方を見る。


 アキラを見た途端、ユミナが硬直した。


 アキラの雰囲気が一変している。先ほどまでの弛緩しかんした空気が消し飛び、臨戦手前の緊迫感が漂い始める。アキラは能面手前の無表情で項垂うなだれるように顔を下げていた。


 そのアキラが顔を上げた。アキラはカツヤを見ると、わらいだした。


「そうだ。お前の言うとおりだ。俺が悪い」


 アキラは自虐的に笑い続ける。


「油断した俺が悪い。すきだらけだった俺が悪い。ろくに反応もできなかった俺が悪い。財布をしっかり守ることができずに奪われた俺が悪い」


 アキラは自虐の度を高めてわらい続ける。


「あれは俺の金だ。俺が稼いだ金だ。俺が頑張って稼いだ金だ。ズタボロの体を山ほどの回復薬飲み込んで無理矢理やり動かして、同じ日に何度も死にかけて辛うじて生き残って、そのまま病院送りになって装備も全部失って、ようやく得られた金なんだ。そこまで苦労して稼いだ金をあっさりさらわれた! 本当に無能も無様も程がある! どうしようもない馬鹿だ! そんなヘマをらかした俺が悪い!」


 アキラは自らを責めるようにわらってそう言うと、急に表情から自身への嘲笑を消した。アキラの表情には自身への侮蔑と詰責のみが残る。


「この無様は取り消す。奪われた金を奪い返し、奪ったことを後悔させる。絶対にだ。それでようやく取り消せる。消せないまでも、拭うぐらいはできる」


 ろくに金を稼ぐこともできず、握っていた金はすぐに奪われて取り返すこともできず、金を持つことすら許されない。かつてのアキラはそうだった。頑張ってそこから抜け出すことができたのだとアキラは思っていた。


 しかしアキラは稼いだ金を奪われて、取り返せないでいる。かつてのアキラと然程さほど変わらないように。


 アキラは他者に、そして自らに証明しなければならない。かつていたあの場所から、あの環境から、あの世界から抜け出せたのは錯覚ではないと、誰よりも、自らに。


 アキラの表情から自身への叱咤しった、叱責が抜けていく。無表情に近いアキラの表情に残っているのは、目的と、その目標と、その障害物を見る意思だけだ。


 アルナはカツヤの背に隠れて震えていた。アルナがそこから逃げ出さないのは、その場所が一番安全だと無意識に理解しているからだ。


 アキラが静かに告げる。


「渡せ」


「……断る!」


 カツヤはアキラに気圧けおされることなく、アキラにアルナを渡すことを拒否した。


 今のカツヤからはアキラに対する下らない嫌悪など消えせている。たとえ自分が危険な目に遭うのだとしても、自分に助けを求めてきた者を助けたい。そのカツヤの善良な本質が引くことを許さなかった。

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