第66話 大切な日、通過点の日

 入浴を終えたアキラとシェリルがシェリルの自室に戻る。部屋に戻る途中のアキラを、アキラと同性の者達が羨ましそうに見ていた。シェリルと同性の部下達も、別にアキラを非難しているような気配はない。シェリルの方がアキラに入れ込んでいるのは明らかだからだ。


 アキラは1000万オーラムをあっさり支払うほどの大金を持つハンターだ。シェリルが徒党のボスでなければ、アキラに色目を使おうとする少女が出ても不思議はない。


 ただし実際にアキラを誘惑すれば、それはシェリルへの明確な敵対行為であり宣戦布告だ。シェリルが徒党のボスの地位にいるのは、今のところはアキラの威光のおかげだ。そのシェリルからアキラを奪おうとする行為は、徒党のボスの座を奪おうとしているのと同じだ。そのため実際に行動に移す者はいなかった。


 アキラはシェリルの自室に戻ると眠気を覚えた。強い睡魔にあらがいながらシェリルに告げる。


「……シェリル。俺はもう寝る。そこのソファーを借りて良いか?」


 シェリルが少しうれしそうに答える。


「ベッドを使って良いですよ。広いですから」


「……そうか? ありがとう」


 アキラはベッドの使用許可の礼を言うと、荷物を近くの床に置いてベッドに潜り込もうとする。シェリルの発言には自分も同じベッドで一緒に寝るという意味が含まれていたのだが、気が付かなかった。なお、シェリルは言葉を選んで答えていた。


「服を脱いでもらっても構いませんか? 服の汚れがベッドに移ると掃除が大変ですので」


「……分かった」


 アキラは睡魔に意識を半分ぐらい奪われながら、服を脱いで自分の荷物の上に置き、肌着だけになってから再びベッドに潜り込む。まぶたが重そうで、もう完全に寝るつもりだ。


 シェリルが少し残念そうな表情を浮かべた後、微笑ほほえんでアキラに話す。


「ゆっくり休んでくださいね。お休みなさい」


「……お休み」


 アキラは眠そうにそう返事をすると、すぐに眠りに就いた。


 アキラが寝た後も、シェリルはしばらく徒党のボスとしての仕事をしていた。部下に割り振った仕事の進捗を確認し、結果を確認し、新たな仕事を割り振る。部下の仕事に問題があれば改善案を出し、徒党全体の活動を考えて徒党の仕事の予定を調整し、部下同士のめ事を仲裁する。仕事量を単純に比較することはできないが、徒党で最も働いているのはシェリルだろう。


 シェリルは本日の仕事を終えると、自室に戻って部屋の扉に鍵をかけた。そして服を脱いで下着姿になると、アキラが眠っているベッドに潜り込み、そのままゆっくりアキラに抱き付いた。


 既にアキラの体温がベッドに移っていた。アキラは簡単な薄着でシェリルも下着しか着けていない。シェリルは伝わってくるぬくもりを堪能し満足げに微笑ほほえんだ。


 シェリルがアキラに抱き付いたまま目を閉じて、今日の出来事を思い返す。


(……いろいろあったけれど、今日は良い一日になったわ。アキラに見捨てられないように、これからも頑張らないと……)


 これからのことを考え続けていると、その内にシェリルの意識も睡魔に飲み込まれる。シェリルは幸せそうに眠りに就いた。




 翌日、目覚めたアキラはシェリルに抱き付かれていることに気が付いた。シェリルは安心しきった表情でアキラに抱き付いていた。


 まだベッドで横になっているアキラに、アルファが声をかける。


『お早うアキラ。よく眠れた?』


『……お早う。……ああそうだ。シェリルの所に泊まったんだっけ』


 アキラはシェリルを引き剥がすと、ベッドから降りて着替え始める。ベッドに横たわっている下着姿のシェリルの姿がアキラの視界に入る。


 しっかり睡眠を取って平静さを取り戻したアキラが、昨日の出来事と今のシェリルの姿を見て、何となく思ったことを話す。


『よく分からない理由で抱き付いてくるし、昨日は一緒に風呂に入ったし、下着姿でベッドに入ってくるし、こいつは俺を何だと思ってるんだ? 襲われないとでも思ってるのか?』


 アキラは冷静に考え、ずれたことを発言した。アルファがあきれたように話す。


『何を言っているのよ。襲われようとしているのよ。好きにして良いって、前に言われたでしょう?』


『そうなのか? そうだとしても自分から襲われようとしなくてもいいじゃないか』


『手を出せば情が移る、とでも考えているんでしょうね。実際私もそんな気がするわ』


 アキラが複雑な表情でシェリルを見る。


『そうか? そういうものかもな』


『まあ、私との約束をないがしろにするほどに彼女に入れ込んだりしなければ、私は別にアキラがシェリルに手を出そうとも構わないけれどね。手を出すならその点は気を付けてね』


『アルファが指定する旧世界の遺跡の攻略だろう? 大丈夫だよ。アルファに見捨てられたら、俺はすぐにそこらのモンスターに殺されるからな。俺も死にたくないからそんな真似まねはしない。その点は安心してくれ』


 アキラははっきり言い切った。アキラが生き残っているのはアルファのサポートのおかげだ。アキラはそれを理解し、自覚している。


『それは良かったわ。それにしても、同世代の下着姿の女性が近くにいるというのに、アキラは全然気にしないのね。興味があったりしないの?』


『それはあれだな。どこかの誰かが俺の視界内を全裸で彷徨うろついているから、耐性が付いたんだな』


 アキラが笑ってそう答えると、アルファが不敵に楽しげに笑う。アキラが嫌な予感を覚える。その予感はすぐに的中した。


 アルファが自分の服を全て消して全裸になる。実在しない視覚情報のみの人工物であるために、精密に芸術的に計算され尽くした女体美の裸身を、惜しげもなくさらす。アルファがアキラを観察して得たアキラの嗜好しこうを反映した上で、大多数の男性の願望を過度に満たす極上の裸体だ。


 更にアルファはアキラを誘うように見つめながら、蠱惑こわく的な姿勢で妖艶に微笑ほほえんだ。


 アキラは少し顔を赤くしてアルファから目をらした。少し悔しそうな表情のアキラを見て、アルファがクスクスと笑う。


『耐性が付いていたのではなかったの?』


 アキラが少し照れながら文句を言う。


『うるさいな。時と場合と相手によるんだよ。早く戻せ』


 アルファが服を戻す。残念だなどとは思っていないと、アキラは自己暗示をかけていた。


『また見たくなったらいつでも言ってちょうだいね』


 アルファが悪戯いたずらっぽくアキラにささやいた。


 アキラを常に観察しているアルファは、アキラにも性欲や異性への興味が人並みにあることを知っている。


 シェリルは間違いなく魅力のある美少女だ。それにもかかわらずアキラの反応が著しく鈍いのは、抱き付かれても、一緒に風呂に入っても、下着姿で無防備に横たわる姿を見ても動じないのは、単純にアキラにとってシェリルがその手の対象ではないからだ。


 アキラは基本的に他者を2種類に分類している。敵か、敵ではないか、である。その2種類のどちらも異性への関心の対象外なのだ。そしてそのどちらにも一致しない極一部の例外、味方、あるいはそれに類する者に対しては、アキラもそれなりの反応を示すのだ。


 それは何の打算もなくアキラを心配し手を貸してくれたシズカであり、アキラの命を救ったエレナとサラであり、アキラをいろいろサポートしているアルファだ。アルファが知る限り、その4名に対してはアキラは相応の態度を取っている。


 例えばサラ達の家で薄着のサラの姿を見た時や、体の線が強く出る強化服を着たエレナの姿を見た時、アルファが作り出したサラとエレナの全裸の姿を見た時、そして先ほどのアルファの姿を見た時などだ。


 何かの拍子でシェリルの立ち位置がその例外側に移動した場合、アキラは瞬く間にシェリルに籠絡されるかもしない。アルファはそう考えて少し探りを入れてみたのだ。


 この調子ならば問題ないだろう。アルファはそう判断した。


 よほどのことがない限り、シェリルがアキラの、敵ではない、の分類から移動する可能性は低い。シェリルの真意がどうであれ、シェリルのことを少し縁のある利害関係の仲と認識している限り、アキラがシェリルへの態度を変える可能性は低い。


 しばらくしてシェリルが目を覚ました。シェリルは寝ぼけながら近くにいるはずのアキラを手で探す。その手がむなしくベッドのシーツをまさぐるだけに終わると、僅かに残念そうな哀しそうな表情を浮かべた。


 シェリルの意識が少しずつはっきりしていく。身を起こしてアキラを探すと、アキラは既に出発する準備を終えていた。


 アキラはソファーに座って情報端末を操作し、アキラのハンターコード宛てに届いているメッセージを確認している。そのメッセージの中には、アキラがキバヤシに要求した賃貸物件の情報もあった。


 アキラがシェリルに気付く。


「起きたか。お早う」


「お早う御座います。……もう出発するのですか? 朝食ぐらい出しますよ?」


「大丈夫だ。適当に外で食べるよ」


 アキラの食事の分だけ、シェリル達の分の食事が減るのだ。スラム街での食事の貴重性を知っているアキラは、その気持ちだけ受け取っておくことにした。


「わかりました。では見送ります」


 アキラが苦笑して話す。


「……その格好でか?」


 アキラに指摘されて、シェリルは自分が下着姿であることに気が付いた。シェリルは少し恥ずかしそうにしながら慌てて服を着た。




 シェリルの拠点を後にしたアキラは、そのまま不動産業者の事務所に向かうことにした。


 事務所に向かうその途中で、アルファがアキラに尋ねる。


『アキラはどんな家に住みたいの? 確実に聞かれることだから、今のうちに考えておいた方が良いわ』


『そうだな。まずは大きな浴室は欲しいな。車を買った時のことも考えて、大きめの車庫もいるな。装備品や予備の弾薬を置くスペースも欲しいな。後は私物を置く場所と寝床が有れば良いんじゃないか?』


『後は家賃ね。キバヤシから話が通っているはずだけれど、その所為でアキラが1億オーラム持っている前提で物件を薦められても困るわ』


『それもそうだな。……昨日だけで9000万オーラムも使ったのか。俺の金銭感覚は確実に狂ってきているな。20万オーラムで慌てていた俺は一体どこに行ったんだ?』


『無駄遣いはしていないわ。成長のあかしとしましょう』


 アルファの言葉を聞いたアキラが少し表情を曇らせてつぶやく。


『……成長、か。正直実感ないな。俺は成長してるのか? 装備が高性能になっただけで、アルファに頼ってばっかりの俺の実力は大して変わってないんじゃないか?』


 アキラには自分が強くなっている実感は全くない。敵との戦闘は苦戦が当たり前であり、アルファのサポートのおかげで辛うじて生き残っているだけだからだ。


 アルファがアキラを安心させるように微笑ほほえむ。


『安心しなさい。アキラはちゃんと成長しているわ。でもそれで良いと思うわ。自分の実力を過大評価して油断するより、過小評価して警戒しなさい。アキラが多少強くなったぐらいで、急にモンスターとの戦闘が楽になる訳ではないからね。簡単に殺せるような相手ならモンスターなんて呼ばれないわ。元々命賭けの稼業なんだから、初心を忘れずに行きましょう。不安になるぐらいなら訓練に精を出しなさい。そしてもっと私を頼りなさい』


 アルファの言葉で気が楽になったアキラが軽く笑う。


『……そうか。そうだな。これからも頼む』


 アキラは気を取り直して歩き続けた。


 アキラがキバヤシに指定された不動産業者の事務所に到着した。受付でハンター証を見せてキバヤシの名前を出すと、すぐに担当者が現れた。


 担当者はアキラを見て少し驚いていた。アキラが子供だと言うことも含め、クガマヤマ都市からの紹介を受けられるようなハンターには見えなかったからだ。しかしそれもほんの僅かな間で、担当者は愛想良く接客を始めた。


 アキラが担当者に物件の希望を伝える。その後、軽い相談を済ませてから希望に添った物件を実際に見に行くことになった。


 紹介された物件は都市の下位区画の外れにあった。東部では土地は幾らでも余っている。しかし安全な土地は極めて少ない。防壁で覆われている上位、中位区画と、防壁の外の下位区画では、土地の価格に雲泥の差がある。そしてその価格の差はそのまま安全の差であり、治安の差なのだ。


 家賃は基本的に下位区画でも荒野に近いほど安く、防壁に近いほど高くなる。例外も存在するが、そういう場所は民間警備会社が治安維持に努めている区域だ。要するに警備代なのだ。


 アキラは担当者に案内されながら紹介された一軒家の中を見て回る。家はアキラが1人で住むには十分すぎるほど広い。浴室も広く部屋も多く車庫も広い。備え付けの家具も多く、新たに家具を買いそろえなくともそのまま住める状態だ。アキラが提示した希望は十分満たされている。


 担当者がアキラに物件の説明をする。


「ハンター向け物件でして、本来ならハンターランク30以上のお客様に紹介させていただいております。建築素材も強固な物を使用しており、火器の暴発等が発生いたしましても最小の被害で抑えられます。自衛のための警備用重火器類を設置する許可は下りておりますが、その使用時に近隣のハンターとトラブルが発生した場合は、お客様自身の手で解決をお願いいたします。当社と契約している民間警備会社が周辺の治安維持に努めておりますが、強盗等との交戦時は基本的にお客様自身の手で対処するとお考えください。破壊された家屋の修理や死体の処理等は、御連絡いただければこちらで対処いたします。家賃の方はお客様を御紹介された方の顔を立てまして、月50万オーラムとさせていただきます。水道代、光熱費、警備代、及び各種保険等は家賃に含ませていただいております。お客様物件の巡回の強化や非常時の武力援護等はオプションとなっておりますので、お気軽に御相談ください。何かご質問は御座いますか?」


 アキラに紹介された物件は、本来ならアキラ程度のハンターには絶対に紹介されないものだ。キバヤシの紹介、つまりクガマヤマ都市の紹介の力である。この機会を逃せば次はないだろう。


 アキラが担当者に尋ねる。


「いつから借りられますか?」


「家賃の振り込みが済み次第となります。この場でお支払いいただければ今すぐにでも」


「分かりました。ではお願いします」


 アキラが担当者にハンター証を渡す。担当者はそのハンター証を読み取り機器で読み取った後、情報端末を操作して契約処理を進めた。担当者がアキラに深々と頭を下げる。


「お支払の確認が済みました。当社の物件を御利用いただき、誠にありがとう御座います。こちらが家の鍵となります。紛失時は至急御連絡ください。来月以降の家賃はお客様の口座から自動的に引き落とされます。支払が1秒でも遅れた時点で、賃貸契約は打切りとなります。物件内の全ての物品の所有権は管理会社に移行いたします。くれぐれも御注意ください。備え付けの家具はお客様の好きにしていただいて構いません。不要でしたら買い取りも実施しております」


「もしかして、この家の家具って……」


「はい。以前にここにお住みになっていたお客様が使用していた物です」


 アキラは改めて室内を見渡す。部屋にある多くの家具は以前ここに住んでいたハンターの遺品だ。つまりアキラが死ねば、アキラの遺品となるのだ。


「では、私はこれで失礼いたします。何か御座いましたらお気軽に御連絡ください。当社を御利用いただき誠にありがとう御座いました」


 担当者はもう一度アキラに深々と頭を下げた後、立ち去っていった。


 アキラが家の鍵を閉める。そして部屋に戻り、荷物を下ろし、装備品を外す。


 そしてアキラは近くにあった椅子に座ると、感慨深く大きく息を吐いた。


「……家か。……俺の家か」


『賃貸だけれどね』


「良いんだよ。それでも俺の家だ。スラム街の路上で生きていた俺が、俺だけの家に住めるようになったんだ」


 アキラが感慨深く部屋を見渡す。昨日よりましな明日を目指して、アキラはハンターとなった。荒野に向かってからいろいろなことがあった。アキラはその日々を思い返した。


 かつてのアキラからは、アルファと出会う前のアキラからは、とても考えられない夢のような生活が、今、現実になったのだ。


 アキラはアルファの方に姿勢を正して立つと、真面目な表情で頭を下げた。


「全部アルファのおかげだ。ありがとう。それと、これからもよろしく」


 アルファがいつも通りの微笑ほほえみで話す。


『どう致しまして。これからもよろしくね』


 今日はアキラにとってはとても大切な日であり、大きな区切りの日だ。しかしアルファにとっては然程さほど意味のない通過点の日にすぎない。それはアキラとアルファの表情に大きな差となって表れていた。




 その後アキラは、その日を食料や日用品、部屋着などを都市の下位区画で買い込んで戻ってきたり、新しい情報端末をアルファが操作できるように設定したり、家の全ての部屋をもう一度見て回ったりと、いろいろなことをして過ごした。夜になる頃にはアキラの新居での新生活の準備も終わっていた。


 アキラは風呂に入って一日の疲れを癒やしている。アキラの希望通り新居の浴槽は十分広い。手足を伸ばしてゆったりと湯にかっていた。アルファも映像だけではあるが、アキラと一緒に風呂に入っていた。


 アキラは入浴時に全裸のアルファがそばにいても、もう気にしなくなっている。アキラにとって入浴時とはそういうものなのだ。アルファの態度が普段と変わらない平然としたものであることもその理由だ。アルファがアキラを蠱惑こわく的に誘えば、アキラの態度もまた少し違ったものになるだろうが。


『アキラ。これからの予定だけれど、明日から装備が届くまでの間は、勉強と訓練で家に籠もることになるからね』


「分かった。……訓練って何をするんだ?」


 アキラが不思議そうにアルファに尋ねた。射撃訓練も近接戦闘訓練も、家に籠もってできるとは思えない。車のない車庫なら辛うじて格闘訓練ぐらいはできるだろうが、かなり制限されたものになるだろう。アルファの答えはそれらとは異なるものだった。


『体感時間の意図的な圧縮とその切替えの意識的、無意識的な操作、条件付けとかよ』


 アキラが少し悩んでから答える。


「……ごめん。よく分からない。つまり何をすれば良いんだ?」


『まあ少しずつやってみれば分かるわ。明日からね』


「分かった」


 アキラには目指す内容や具体的な訓練方法が全く分からなかったが、アルファがそう言う以上やれば分かるのだろうと考えて深くは聞かなかった。それはアルファへの信頼と信用の表れだ。


 アルファはアキラの返答を聞いて満足げに微笑ほほえんでいた。




 翌日、アキラの訓練は家の車庫で始まった。アルファがアキラに訓練内容を説明する。


『今からアキラがする訓練は、自分の体感時間を自由に操作する技術よ。簡単に説明すると、時間がゆっくり流れて世界がスローモーションで動いているような錯覚、自分の意識だけが極度に加速している状態に、意図的に、又は特定の条件を満たした時に移行できるようにする訓練ね。それができるようになったら、今度は体感時間の圧縮率を上げる訓練よ。現実の1秒を体感的には10秒に感じられるように、100秒に感じられるようにする。そしてその状態を少ない負担で長時間維持できるようにする。それができるようになれば、アキラの実力は飛躍的に向上するわ』


 アルファはごく普通にアキラに説明している。しかしその説明を聞いているアキラは、アルファと同じ態度ではいられなかった。アキラの感覚では無茶苦茶むちゃくちゃなことを、空を飛べと言われるぐらいに突拍子もないことを言われているようなものだからだ。


「そう簡単に説明されても……、俺にそんなことができるのか? 正直、自信はないぞ?」


 アルファがアキラの疑問を吹き飛ばすように笑いながらあっさりと答える。


『できるわ。というより、無意識にならもうできているわ。後はそれを意識的にできるようにするだけよ』


 アキラがアルファの意外な言葉に驚いて聞き返す。


「……もう、できてる?」


『そうよ。分かりやすい例を挙げると、地下街でシオリとネリアの2人と戦ったでしょう? あれが良い例ね。多分あの時シオリは加速剤を服用していたはずよ。体感時間を圧縮させて、更に反応速度を劇的に向上させて、精密な高速戦闘を可能にしていたわ。ネリアの方は高速戦闘が可能な義体を操作するために、転換手術の一環で脳改造でもしたんでしょうね』


 アキラが2人との戦闘を思い出す。アキラはあの時に、アルファが操作する強化服の動きに何とか追いつこうと、死に物狂いで体を動かしていた。


「それが何の関係があるんだ?」


『アキラは相手の動きを目で追って、相手の動きにある程度対応していたわ。私が操作する強化服の動きに何とか追いつこうとしていたわ。その時のアキラは必死で気が付いていなかったけれど、それは通常の時間感覚では不可能なのよ? 死の危険を感じたアキラが極度の集中力を発揮して、無意識に体感時間を圧縮させていたのよ。死ぬほどの危機的状況を回避しようとしてね』


 アキラは驚きながらアルファの説明を聞いていた。アキラ自身もある程度納得できる内容で、信頼しているアルファに説明されたこともあり、アキラはそれを信じた。


 事実がどうであれ、アキラがそう信じ、認識したことで、それはアキラにとって確固たる事実になる。それはアキラの中で到底不可能だと考えていたことが、ある程度実現可能な内容に変化したことを意味していた。


『まずアキラにやってもらうことは、危機的状況だと自分の脳をだますことね。そうやって、今まで無意識に自分の体感時間を操作していたのを、意図的に操作できるようにする。それができるようになれば、状況とは無関係に自分の意思で操作できるようになるわ』


「……やることは分かったけど、具体的にはどうすれば良いんだ?」


『訓練を始めれば分かるわ。早速訓練を始めましょう』


 アルファはそう言うと、自分の服装を変化させた。アルファの服装は装飾過多のドレスのようにも、異常に布地の多い踊り子の服にも見える。肌の露出は顔の部分程度で、両脚は床まで届くスカートが、両手は非常に長い袖が隠していた。


 アルファは両手に剣を持っている。長い袖の先から非常に切れ味の良さそうな刀身が伸びていた。アルファが右手の剣先をアキラに突きつける。アキラの眼前に突きつけられた刃は、それが現実には実在していない剣だと理解していても、アキラが思わず少し引いてしまうほどに鋭利に見えた。


『私がアキラの前で踊るから、アキラは踊る私をしっかり見ること。そして踊っている途中で私が突然斬りかかるから、その攻撃をかわしなさい。分かった?』


「わ、分かった」


『体感時間の圧縮の訓練なのだから、攻撃を十分かわせる距離まで離れようとしないこと。私が近付いてきても、私が攻撃するまではその場を離れては駄目よ?』


「分かった」


『良し。では、始めましょうか』


 アルファはアキラからある程度離れた後、アキラに向けて恭しく一礼する。アルファは均整の取れた美麗の顔に凜とした表情を乗せ、ゆっくりと踊り出した。


 大量の布地を宙に舞わせて踊るアルファの姿は幻想的なまでに美しい。アルファの動きに合わせて光沢のある布や装飾品、空を裂く刀身が反射した光を宙に舞わせる。両目をつぶりながら凜とした表情のまま、僅かな体勢の崩れもなく踊るアルファの姿からは、信仰と崇拝の先への祈りすら感じられた。


 しっかり見ろとアルファに言われるまでもなく、アキラの意識は踊るアルファに奪われている。アルファの踊る場所が、アルファの衣装とも洗練された踊りとも場違いな車庫であることなど、アキラはすぐに忘れてしまった。


 アキラが我に返った時、既にアルファの攻撃は終わっていた。アキラの近くで踊っていたアルファが、右手に持つ剣でアキラの首をぎ終わっていた。アキラはアルファの攻撃に全く反応できなかった。アルファの剣が実在していれば、アキラはあっさり殺されていたことになる。


 唖然あぜんとしているアキラに、アルファが悪戯いたずらっぽく笑う。


『ちゃんとないと駄目よ?』


「……分かった」


 アキラは気を切り替える。刃物を振り回している人間が近くにいるのに、欠片かけらも危機意識がないのでは話にならない。アルファに見れるのではなく、アルファを観察してその挙動に集中しなければならない。アキラは強い意志を持ってアルファに意識を集中させた。


 アルファは再びアキラから少し距離を取る。アキラはアルファを僅かな変化も見落とすまいとしっかりとている。そのアキラが怪訝けげんな顔をした。


 アルファの衣装から、装飾の布が1枚剥がれた。剥がれた布は床に落ちる前に消えてしまう。アルファの衣装は、アキラの視覚情報にしかない映像のみの作り物だ。勝手に剥がれ落ちることなどない。つまりアルファが意図的にしたことなのだ。


「……アルファ。何でその布を外したんだ?」


『難易度を少し下げただけよ。私のこの布地たっぷりの服装は、私の動きを捉えにくくしているの。攻撃の予備動作を隠したりね。相手の体の各部位の動きを把握できれば、それだけ攻撃に気付きやすくなるでしょう?』


「それはそうだけど、相手からの攻撃にいち早く気付いて、反射的に体感時間を圧縮して、かわせるようにするための訓練じゃないのか?」


『良いのよ。アキラが私の攻撃にまるで反応できないなら、そもそも危機的状況だと認識できないでしょう? そもそも攻撃を知覚できないと、攻撃されている事に気が付かないと、体感時間の感覚を切り替えるトリガーにならないわ』


「……まあ、確かに」


『アキラが私の攻撃を受けるたびに、私の衣装の布を1枚ずつ減らしていくからね』


「……は?」


『もしアキラが私の裸を見たいのなら、思いっきり手を抜いてもかまわないわよ?』


 アルファは艶麗に笑ってそう話すと、少し焦っているアキラの前で再び踊り出した。


 華麗に舞うアルファの姿を、アキラは自身の内心を表情に出さないように、顔を強張こわばらせながら見続けた。

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