ウィータの暗号
レライエ
第0話プロローグ
【
「逃げろ、逃げろ逃げろ!!」
さらけ出した、逞しい上半身が風のように走る。キルカ族の青年はそう、雷を思わせるような大声で叫びながら自分の村へと駆け込んだ。
夕暮れ、日没も近い村には最低限の松明が点るばかりであったが、そこは流石狩人の村だ。寝静まった世界は瞬間、緊張感で満たされた――各々が自分の家を飛び出して、それぞれの篝火を赤々と点したのである。
燃え上がる村が照らし出したのは、若者が、形振り構わぬ全力疾走で広場に向かっている光景だった。
村人たちは驚愕した――恐れ知らずの若者がその瞳に恐怖を抱えていたから、だけではない。
勿論村一番の狩人が恐れているという事実に恐怖はしたが、この村はそもそも狩人の村だ。生半可な事態に怯えることはないし、恐怖そのものにも耐性がある。狩りとは矢尻を通して死と見詰め合う儀式だ――死を恐れなくても成立しないが、乗り越えなくては矢を放てない。
精神に二重の防壁を、村人たちは備えていた。
それでも。
村人たちは驚愕した――恐れ知らずの狩人がその瞳に恐怖を抱えて、それを見詰めていたのだ。
地平線を埋め尽くす黒い波を。
波は生きていた。
泥にまみれた黒い体毛の下には、矢も刃も弾く筋肉の壁。
篝火より尚赤く燃え盛る赤い瞳に映るモノは何もかも踏み荒らし、岸壁も牙の餌食と成り果てる。
【生きた災厄】、【英雄殺し】、【村崩し】。数々の忌名で呼ばれる
見渡す限りを埋め尽くす魔猪の群れが、直ぐそこにまで迫っていた。
大地に轟く突撃の地鳴りは村人の、狩人の精神を打ち砕くに充分すぎる物理的衝撃を持って到来する。
幼体ならばなんとかなる。
一匹ならばまだ、村人総出で掛かれば狩れるだろう。
あぁだが。その群れとなればもう、神に選ばれた勇士でさえどうしようもない、志向性を伴った自然災害だった。雨風に弓を引いても、嵐を撃ち抜くことは出来ないように、地鳴りに弓を構える者は誰もいなかった。
「逃げろ、逃げろ、逃げ……!!」
破滅の先触れとなった若者の絶叫は、束の間村人たちに絶望を忘れさせた――遂に力尽きた若者は、村の直ぐ手前で黒い波に呑み込まれてしまったが、その死は住民たちの心に生存の火を点す火種にはなることが出来たようだった。
着の身着のままで、村人たちは逃げ出した。村を捨てる、それしか手は無いと誰もが判っている。葛藤や郷愁は真っ先に捨てられて、そうできなかった者も捨てられていった。あぁ、神話にある【文明薙ぎ】とはこのことかと、抱えられながら老人は涙を流していた。
――そして。
全てが過ぎ去った、その後で。
先触れの若者がむくりと起き上がった。
昔々、遙か昔。
老竜フレデリックがまだまだ地を這う蛇でしかなかったような、気の遠くなる程昔の話だ。
その日――世界は滅んだ。
空で、陸で、海で。草原で洞窟で山で村で、ありとあらゆる場所でそれは起こり、全生命の80パーセントがたった一日で失われた。
世界最大規模の信徒数を誇る秩序神教会は彼らの聖典で、その日のことを【
次元の狭間に引き籠もる神域の叡智、【マレフィセント】の魔術師たちは彼らの辞書にこう記した――『原因不明の大災害』と。
何かが起きたことは間違いない、なにしろ純然たる結果として世界の八割、生物が減少している。そんな【何か】だ、神の御業にしろ悪魔の所業にしろ、真っ当な理屈の通じる現象とは思えない。
世界中の魔学者たちが頭脳を集結しても、何も、仮説の一つさえ立てられなかったのだ。
現存する技術では、解明することは出来ない。今ある手持ちの材料では、推理など不可能だ。
不可能、だった。
【聖伐】後、1982年。
私は名残を掘り出した。神の、或いは――悪魔の名残を。
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