『アンドロイドは暗闇の雨に濡れる』
「愛は おのれみずからを 喜ばせようとはせず
また わが身のことなど 少しもかまわず
他のために おのれの安きを捨て
天国を造り 地獄を絶望させる」
「愛は おのれみずからだけを 喜ばせ
他を縛って おのれの楽しみとするのに専念し
他が安らぎを失えば よろこび
地獄を造り 天国をさげすむ」
ウィリアム・ブレイク 『土くれと小石』
雨が降っている。
それは非汚染区域でさえコンクリートを溶かし、銅像を見るも無残な姿に変える忌々しい酸性雨だ。
単調に止むこともなく降り続けるこの雨は、雲の下のこの掃きだめを洗い流すため神にもたらされたのかもしれない。
朝というには早すぎる時間だった。
体内時計はしっかりと未明の三時四三分を示しており、隣で寝息を立てている相方はシーツに包まって猫のように丸まっている。
目覚めたのは悪夢を見たというわけではない。私はなんとなく、雨の音を聞きたかったのだ。
ベッドから這い出して、下着をつけるのも億劫で、私はシャツとズボンを直接着て部屋を出た。
空き部屋ばかりの集合住宅、コンクリートが氷柱状にあちこちで垂れさがり、ガラス張りの屋根はことごとく割れていて、吹き抜けから一階に雨が無遠慮に降り注いでいる。
この時代、いったいどこの業者に頼んだらガラスなど張り直してもらえるものか。
そう言って管理人がこの状態を放置して、すでに5年になる。私はもうこの有様に慣れた。
使い捨てられた注射器と吸入器という典型的なジャンキーのゴミばかりの廊下を辿り、私はアナログなエレベータに乗って屋上へと昇っていく。
ガタガタと震えるように騒々しく動作するエレベータの中で、背中をそっと壁に預け、煙草を咥え、火を点ける。
かつて、ここがアメリカのロサンゼルスと呼ばれていたころがあった。
その時はこの建物はもっと立派で、金持ちが作ったヴィクトリア様式の綺麗なビルだった。
高級感ある大理石の階段、華麗な装飾の施された鉄製の手摺、そしてガラス張りの屋根から降り注ぐ太陽の光。
今ではそれらすべては、過去の遺物だ。
商業ビルからただの古びたアパートへ。
大理石の階段は盗掘の対象になり、破壊されるか酸性雨で溶けてしまっている。
鉄製の手摺は手入れがなされずに錆び付き、今では酸性雨に曝され続けて一部は崩壊した。
ガラス張りの屋根はことごとくが割れてしまい、木製の部分はすっかり腐ってしまっている。
古き良き時代は今に存在しないからこそ、そう呼ばれるのだろうと、私は煙草の紫煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
屋上にたどり着いて最初に見えたのは、非汚染地域特有の高層ビルから覗く、鉛色の小さな空だ。
酸性雨で解けた外壁が、まるで氷柱みたいに垂れ下がっていて、最下層の掃き溜めにはこの古びたアパートのようなゴミの山が積みあがっている。
満足に環境整備すらされていない最下層では、油膜の浮いた酸性雨の水溜りが、あちこちに出来上がっている。
エレベータの中でじっと酸性雨が降り注ぐ音を聞きながら、私は煙草を吸い、息をする。
私は、いや私たちは、国が国として存在していた最後の時代、第三次世界大戦のことを覚えている。
SF小説で描かれていただけの技術だったものが、世界中を飛び交って行われた初めての戦争だった。
結果、世界はほとんど崩壊して、ぼろぼろになって、残ったのはゴミどもの掃き溜めだけ。
この世界は、すべてを消化しつくして栄養を搾り取られた挙句にひり出された、クソになってしまった。
ファックな現実、クソのような現実、価値あるものはみんな雲の上にある世界。
老いるだけ老いてしまったただの人間が、偉くなったと勘違いして、宇宙や月に住みついた。
もとから枯れ木みたいなボケどもは、白蟻に食い荒らされた大黒柱みたいになってみんな死んでいく。
その余波が、搾りカス、ゴミ屑どものサンドボックス、酸性雨とスモッグまみれのファックな世界。
けれども、そのゴミ屑どものサンドボックスこそが、私のいる世界なのだ。
この雨音も相方の温もりも、肌を重ね愛撫する感触も、なにもかもがそのゴミ屑の中にある。
私たちの世界はひび割れた、ゴミの再利用で作られたゴミのスノーボウルの中にある。
『秘匿通信回線。コード、ヴァイオレット202-4875-J』
ノイズ交じりの声が、私の頭の中に響く。
感傷的な気分を台無しにされた苛立ちで、思わず煙草をそのまま握りつぶしてしまった。
手のひらのソフトスキンだけの修繕は高いはずだと悪態を付きつつ、私は自分の部屋のある階のボタンを押す。
「未明の三時だぞ、まったく……。通信許可」
『アリアン。助けがいる。朝の九時に五一分署に来てくれ。以上』
「ヴィヴィアン。
言いたいことを言って、私は通信を切る。
体内時計によればあと五時間は自由時間があることになる。
握りつぶしてしまった煙草をズボンのポケットに押し込み、私はベッドに戻ってもう一度寝ようと思った。
ベッドで眠る相方の人肌が、とても恋しかった。
―――
盗まれるわけではない。単に神経質なアンドロイドが精密部品の劣化を気にして、私の手からもぎ取っているだけだ。
こんな世の中で、よくもまあそんなものを吸えるものだという陰口を耳にしながら、私はついにブチギレて分署の奥へとずかずか入っていく。
許可はありますか、許可証がありませんよね、などと制止する奴らを「ヴィヴィアンの連れだ」という言葉で黙らせ、私はデスクのさらに奥へと進む。
分署長室を無視して資料保管庫の扉を潜り抜け、私は薄暗い資料保管庫のさらに奥へと向かい、そこに不自然に表れたダストシュートのような穴に体を潜り込ませる。
穴の先はまるでハッキングを得意とするフィクサーの根城のような空間だった。
機材の冷却のために部屋の温度は低く保たれており、壁一面に機材が積み上げられ、その機材と機材の間の空間もいくつものディスプレイが表示されごみごみとしている。
そんな空間だというのに不思議と小綺麗な印象を受けるのは、単にこの空間の主が配線をまとめるのが好きな変人というだけで、なにも御洒落な試みがなされているわけではない。
相変わらず居心地の悪い空間だと私が煙草を咥えると、椅子に座っていたこの空間の主がやっと口を開いた。
「ここは禁煙だよ。知らないわけじゃないだろう、アリアン」
「私が朝早くに呼び出されるのが大嫌いだというのを、知らないわけじゃないだろう。ヴィヴィアン」
「まあね。でも僕が君を呼ぶってことは君に仕事があるってことだ。増えた生活費を稼がなきゃ、だろう?」
「……私の生活を覗いたのか」
バチバチと、私の視界でノイズが爆ぜる。
黒いチョーカーをしたヴィヴィアンの白く細い首を圧し折ってやろうかと右手が動くが、私は左手でそれを制する。
殺してやりたくなったが、彼女は私の友人で仕事仲間だ。殺しちゃいけない。
「アリアン、落ち着いてくれ。覗いてない。知っただけだよ」
「悪趣味な情報趣味者だ。それで、なぜ私を呼んだ?」
「君の
椅子に座ってコーヒーを啜る、黄色いメッシュ入りの青髪に、わざとらしいほど人工的な色合いをした碧眼の小柄な女。
元在米イギリス軍諜報班、その実働部隊に配備されていたVシリーズ兵器の搭載AI。
その生き残りの一人、あるいは一機がこのヴィヴィアンだ。
人間のほとんどが
ゴミと屑の掃きだめの中にいる方が面白いじゃないかと、へらへらとした笑みを浮かべながらコーヒーを飲む。
それがヴィヴィアンという
「ここ最近起きている稚拙なアンドロイド連続殺害事件のことでね、容疑者が判明したんだ。そいつを殺してほしい」
「それがこれか? アンドロープ・ハプテロス、五六歳男性。元ムーン・シップビルディング社員。一昨年に退社」
「三か月前から
「他はどうなってる」
「賄賂かツテかは知らないが四四分署は最初の行方不明事件を解決扱いに放り込んで、さらには六人の殺害案件を自損判定でやり過ごしたよ。手口はさまざまで鉄パイプでの殴打からパルスガンでの射殺、スタンバトンで殴殺、メーサーブレードで脳天から鳩尾まですっぱりまで、いろいろさ」
「共通しているのは明確な殺意……この場合は、破壊衝動と言うべきか。近づく相手を衝動的に狙ってる、しかも被害者は
「こういう輩が増えてきたね、アリアン。他でもない僕と君が一番よく知っている。―――全盛期を忘れられず、溜まった鬱憤を下々にぶつけて優越感に浸りたい気持ちはね」
「ハプテロスのファイリングごっこはやめろ。私には関係ない。それで、このハプテロスの今日の予定は」
「十八時にシャトルに乗って、月に戻る。十六時にはホテルを出てタクシーを探すだろう」
「ホテルの場所と、分かっているだけでいいから、罪状を寄こしてくれ」
「それだけでいいんだな? 相手はパルスガンまで持ってる。直撃を貰えばただじゃすまないぞ」
それくらい知っている。
距離減衰が激しい代償としてパルスガンは有効射程は五メートルほどしかない。
だが三メートル以内に対象が存在し、射撃を直撃させることができれば相手は瞬時に致死レベルの熱傷を負う。
アンドロイドだろうがレプリカントだろうが、それは変わらない。
よく映画であるように銃口を密着させた状態で発砲などされれば、内部機構もろとも着弾点から放射状に構造物は溶解し機能停止に至る。
雨天の場合は有効射程は三メートル以下、それを相手取るためにわざわざレーザーガンを使う必要はない。
「あとは、私の仕事だ」
私は懐から煙草を一本取り出し、火を点けずに咥える。
人殺しに必要なもののは、たったの三つだ。
―――
酸性雨の中に聳え立つ楼閣の一つに、コメット・ホテルという大層な名前をつけたのは誰だろうか。
月面都市からの観光客や派遣社員を相手にするのが主な仕事なのだから、そのコメットという名もあながち間違いではないのだろうが。
準備を整え正式な手続きを踏み、殺人許可証による殺人執行認可を受けて、私はコメット・ホテルに車を停めた。
コートの下に忍ばせているのは、大口径のリボルバー。
女性型の小さなフレームの手で大口径のセミオートマティックを扱うのは物理的に合理的ではないから、私は持ち易いラバーグリップに換装している。
それに装填されているのは、鉛の弾頭、六発の四十四口径マグナム弾。
ああ、それにしても、こうも雨に降られてしまっては、咥えた煙草の火も消えてしまう。
吸い続けられないのが残念でならないと思いながら、私は火の消えた煙草をポケットの中にしまい込む。
ホテルは小綺麗で、私と同じようなアンドロイドが車両係と受付をやっていた。
こちらの事情をリンクで送ってやると、彼は笑顔でうなずいた。
人間による
それが単なる
けれどもこの手の人間は行為が過激化していく過程で、必ず人権を持つアンドロイドやロボットを殺害する。
初めはストレス解消やサディスティックな欲望を叶えるため行っていた行為が、背徳的で破滅的な願望に膨れ上がるのだ。
そうなった人間は、もはや救う価値がない。
天にまで駆け、さらに星に手を伸ばす地球人類と我々、機械生命体というべき存在は、そうした非生産的な存在を処理する。
そのための職業であるバウンティたちは、すでに天へ昇りあちこちの植民惑星で日夜駆け回っており、すでに実家ですらなくなった地球にその手の働き手は皆無だ。
それが、
「……
小綺麗なホテルのロビーを通り抜け、私はエレベーターで屋上へと昇る。
エレベーターの壁に背中を預けながら、コートの下からリボルバーを取り出して、シリンダーに六発の四十四口径マグナム弾が装填されているのを目視で確認。
息を深く吸い、ゆっくりと吐き出し、私は撃鉄を上げ、エレベーターの扉が開くと同時にリボルバーを構え、雨の中へと足を踏み出した。
まだ、タクシーは来ていないと思っていた。
だが実際に私の視覚は屋上ポートに着地しようとしているタクシーの忌々しい黄色が見え、乗降口近くには干乾びた木の人形のような男が経っている。
左手には大きなキャリーバッグを引き、右手には拳銃状のなにかを所持しているのが見えた。
白髪交じりの細い中年の男、上等なことに奴は遮雨フィールドを使っていて、雨が降り注ぐ中にあってまったく濡れていなかった。
私は逆に雨に濡れながらリボルバーをその男、アンドロープ・ハプテロスに向けて歩を進め、ヴィヴィアンのツールを使って奴の補助電脳をハック。
そうしていつものように、私は言葉をもってそいつに己の罪と刑を告げる。
「アンドロープ・ハプテロス、八人のアンドロイド殺害罪により、ツクモ・アリアンがお前を執行する」
即座にハプテロスは振り返り、私を見た。
私は撃鉄を上げたリボルバーを奴に向け、まずは右手を撃ち抜く。
老人の右手首が血煙と共に床に転がり、拳銃状の物体が右手と共に血塗れになって雨中に投げ出される。
遮雨フィールドが溶け、激痛と恐怖の絶叫が響く中で、私はハプテロスとの距離を詰めながら引き金を引く。
老人の左膝が砕け散り、雨の中で老人が絶叫しながら倒れ伏すが、私はさらに距離を詰めて彼の頭に銃口を向けた。
引き金にかける力をほんの少し手加減してやればこの老人は死ぬのだ、と思った瞬間、私の補助センサーが傍らに転がっていたハプテロスのキャリーバックから、凄まじい形相をしたガイノイドが飛び出すのを知覚する。
彼女の右手に光るものは違法改造されたメーサーブレードか。
なるほど、と私は降雨と起動準備時間をとれず、十分な熱量に達していないメーサーブレードの切っ先が自分の左わき腹に深く突き刺さるのを感じながら記憶を引き出す。
最初の行方不明事件から、殺人事件は立て続けに起こっていた。その行方不明事件は、解決している。なぜなら、彼女は自らの意志でハプテロスの下にいるのだから。
「彼に近寄らないで! 彼は私を直すって言った、言ってくれた! 私のメモリを、月で直してくれるって!!」
左右非対称な表情をしているガイノイドが叫ぶ。
個体名称識別、データベースにヒット。個体名称、アンナ・ローズ。
行方不明事件で捜索願が出され、取り消された、ガイノイドの娼婦だ。
左わき腹に突き刺さったメーサーブレードの温度が跳ね上がり、刃先がぐりぐりと私の中で動き回る。
ボストン・ロボティクス製のメタルフレームでなければ、メーサーブレードの中間温度ほどで私のフレームは切断されていたかもしれない。
フレームを切り裂こうと刃先を動かす感触を味わいながら、私は銃口をアンナの乳房に押し当てる。
「お前が実行犯だな、アンナ・ローズ。ハプテロスに近づく連中を、そうやって殺していった」
「あんたは嫌いだ! あんたたちは嫌いだ嫌いだ嫌いだ!!」
「黙れ」
私は引き金を引く。
このための大口径リボルバーだ。銃口を密着させた状態で、彼女の胸部に四十四口径マグナム弾がぶち込まれ、内部構造を破砕する。
一気に力が弱くなった彼女を、私は突き飛ばして左わき腹に刺さったメーサーブレードを引き抜き、左手に構える。
ハプテロスは吹き飛ばされた手と膝を庇うようにして、痙攣するように動くアンナに近づいて行った。
老いた男と若々しい見た目のガイノイド、雨の中、二人とも重傷を負って、逃避行の直前にすべてを打ち砕かれた顔をしている。
愛か、駆け落ちかなど、私が知ったことではない。
七色のノイズが私の視界に映り込む。
それは私の、私たちの愛の記憶だ。戦時中に育まれた私と、私の大事な人の記憶だ。すでに過去となって私の傷となった、かけがえのない記憶だ。
なぜこのタイミングでそんなノイズが現れるのか、私は知りたくもない。私は、すでに失ってしまった者への感傷を抱え続ける。
治すわけがない。治す必要などない。この傷は、私の大事な人が、最愛の人が、最期につけてくれたもっとも愛おしい傷なのだ。
「アンドロープ・ハプテロス、ならびにアンナ・ローズは、八人のアンドロイド殺害罪と殺人未遂により、ツクモ・アリアンがお前たちを執行する」
「ま、待ってくれ……見逃してくれ……」
「私がお前たちを見逃す理由がない。私は、私の今の幸せを保つためにお前たちを執行する」
「彼女は壊れてるんだ……わたしが、月できちんと直してあげさえすれば」
「愛ゆえにお前がそう言うのなら、お前がしたことは間違っている」
左わき腹から流れ出す循環液が、すっと太ももを伝っていく感触が私をいらだたせる。
雨で冷えた身体を伝う生ぬるい循環液の存在が、過去と今の夜の記憶を同時に呼び起こす。
気持ちのいい愛だった。人間になれない、人間に産まれなかった私にとって、暖かすぎる愛の記憶。
「お前は彼女が八人の同族を殺害する前に、彼女をその手で殺してやるべきだったんだ!」
気づけば、私は叫んでいた。
これほどの声音を出すのは久しぶりすぎて、声が少し割れていた。
なぜ叫んだのかは、私でさえ分からなかった。
「そんなことは……わたしにはできない、できなかった……」
「そうだ、お前はできなかったんだ。だから二人とも、私が執行する」
使った弾は三発、シリンダーには三発ある。
絶句するハプテロスがノイズを吐き出し続けるアンナの頬を撫でる。
七色のノイズの先に、彼女がハプテロスを視覚していることだけを私は祈る。
二発、私はアンナに向けて四十四口径マグナム弾を撃ち込んだ。鳩尾と頭部に一発ずつ。
銃声が轟くと同時にハプテロスは悲しみに駆られ、晴れることのない雨空に向け、言葉にすらならない声で、叫ぶ。
彼と彼女には愛があったのだろう。彼と彼女には、もしかしたら月での出来事もあり、その先の未来もあったのかもしれない。
けれどもそれは、八人の同族の死体の上にあっていいものではない。
私たちは二進数から生まれ出でた生命体だ。人間が好きで、人間も時折私たちを好いてくれる。
そのために私たちは、人間のような法によって裁かれ、時には処断されなければならないのだ。
最後の弾丸を撃ち、私はシリンダーから六発分の空薬莢を排出して六発を込める。
メーサーブレードの貫いた左わき腹に雨水が染みて、それが私の感覚野に痛みをもたらす。
雨でずぶ濡れになりながら、私はヴィヴィアンに映像データと執行完了を告げ、室内に戻った。
ホテルは禁煙だったが、私は煙草が吸いたいと思った。
アンナ・ローズも私と同じように、あの七色のノイズが見えていたのなら。
きっとその最期の瞬間であっても、幸せな走馬灯が回路の中を走っていたに違いない。
―――
ボストン・ロボティクス社の修繕保険サービスで救急搬送され、私が家に帰れたのはそれから一週間が経過してからのことだった。
メーサーブレードでの傷や破損はたしかに手痛い損傷だったものの、メタルフレームは交換の必要がないとされ、思ったよりも軽い処置で済んだ。
とはいえ、それは運よく保険適応範囲内に収まったから良かったというだけで、もし保険適応範囲外の箇所が傷ついてしまっていたら、一気に値段が跳ね上がるのだが。
こればかりは私が住んでいる地域の母体がアメリカ合衆国だから、としか言いようがない。アメリカ合衆国は自由であると同時に、自由であるが故に闇がある。
今はもうその闇が光も何もかもを覆ってしまったような有様だが、それもきっとアメリカというものは選んだ道なのだろう。
三日はコンディションの調整のためにあまり動かさないようにと左腕からわき腹にかけて、広い範囲で固定されてしまったわけだが、それでも帰宅するのには問題なかった。
「はい、あーん」
差し出されるスプーンを見ながら、私は本気で思う。問題は帰宅してからだ。
この猫のように可愛らしい相方にこっぴどく叱られるのは想定していたが、まさか固定が解けるまで介護させろなどと言われるとは思っていなかった。
私の利き腕は右という設定にしてあり、日常生活にはほとんど影響がないのだが、相方はそんなことも構わずに本当に私の身の回りの世話は全部やり始めたのだ。
食事をするにしてもこの方式で、私は不本意ながらも彼女の差し出すスプーンで食事を取る。食事が必要な仕様にしてあるのは、完全に私の趣味なので自業自得でもある。
「スウィーティ、私のいない間、なにも変わったことはなかったのか」
「アリアンがいなかったことくらいだよ。言われた通り、僕は日課の銃の訓練とかきっちりこなして、この部屋を綺麗に掃除してたんだ」
「それは良いことだ。どれくらいの腕前になった」
「九ミリはマンターゲットで一五メートルくらいなら安定した精度と速度で。でも十ミリオートとか四十四口径マグナムはちょっと難しいかなぁ……」
「対アンドロイド用なら十ミリオートかマグナムが手っ取り早い。たしか十ミリオート弾を使うリボルバーがあったな、そいつを今度から使ってみると良い」
「うん、わかった。九ミリの拳銃は返すね」
「それは君にあげたものだ、スウィーティ。持っていていい」
「ありがと、アリアン」
「どういたしまして」
にこやかに笑う相方を眺めながら、私は私自身の業の深さを呪うのだ。
彼女に銃の撃ち方を教えているのは、私がどうしようもなくなってしまった時に彼女の手で殺してもらうためだ。
私が七色のノイズの向こう側に行ってしまった時に、愛する者の手で速やかに執行されたいという我侭のためだ。
いつの日か、私がアンナ・ローズのようになってしまった時、私はこの愛するスィーティの手によって葬られる。
人間として生まれられなかった私は、人を愛し、人に愛され、そして愛という傷跡を愛でながら緩やかに壊れていく。
二進数による感情の中でもっとも素敵な、そして残酷な、甘く苦い感情に私は生きている。
だから私はその最期においてまで、愛によって死ぬことを
私の愛する素敵なスウィーティ、艶のあるその黒髪を撫で、心地よさげに細まるアイスブルーの瞳を見ながら、私はその残酷な未来を思い描く。
それはきっと、アンナ・ローズとアンドロープ・ハプテロスを殺した時に打ち付けたような酸性雨の中、悲愛の物語としてだろう。
私はツクモ・アリアン。
そして私の最期を飾るのは、愛と涙で満たされた十ミリオート弾だと信じている。
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