アンドロイドは七色の涙に濡れる
狛犬えるす
『アンドロイドは七色の涙に濡れる』
何年か前、この世界の示す形象がはじめておれの眼の前に開け、夏の気もちよい暖かさを感じたころ、木の葉のさやぐ音や鳥の囀る音を耳にしてそういうことがおれの全部であったころなら、死ぬのが怖くて泣いたにちがいないが、今では死ぬことがたった一つの慰めなのだ。
―――『フランケンシュタインの怪物』
第三次世界大戦のことを覚えている。
SF小説で描かれていただけの技術だったものが、世界中を飛び交って行われた初めての戦争。
結果、世界はほとんど崩壊して、ぼろぼろになって、残ったのはゴミどもの掃き溜めだけ。
ああ、自分はそんな世界に生きているのだと、私は再起動のプロセスを経て実感する。
生きている? 生きているとはなんだろうかも分からないというのに、生きていると感じることができるのか?
機械にすぎない私が、どれほど生身を模倣しえたとしても、それが人間になることなどできないというのに?
「ああ、………惨めだ」
自己嫌悪で唇から飛び出した言葉は、それ自体が酷く惨めに聞こえた。
目を開けて最初に見えたのは、非汚染地域特有の高層ビルから覗く、鉛色の小さな空。
酸性雨で解けた外壁が、まるで氷柱みたいに垂れ下がっていて、最下層の掃き溜めにはゴミの山が積みあがっている。
屋台で売ってるクソ不味い合成食料の残飯、バッドトリップでマントルまで気分が沈みながら上から下から漏らしまくった奴らの体液。
運のなかった馬鹿野郎どもの折れた歯や、剥がされた爪やら、不法投棄された中身のない旧式アンドロイドの外装が、死体の山みたいになっている。
臭覚をオフに出来て本当に良かったと思いながら、私は束の間の夢から解放され、重たい腰をあげた。
油膜の浮いた酸性雨の水溜りが、あちこちに出来上がっている。
私が腰を降ろしていたのは最下層の裏の裏、そしてその裏の裏で廃棄されていた古き良きパイプ椅子。
よく私のメタルフレームの重みに耐えられたなと感心していると、身体の内側から吐き気が込み上げてきた。
吐くものなどなにもないのに、私は錆びた金属部品と残飯が点々とするコンクリートの地面めがけて、なにかを吐こうとする。
これが人間だったなら胃の内容物を思い切り吐き散らしてすっきりするのかもしれないが、私は人間ではないのだ。
そうこうしている内にまた自己嫌悪がたっぷりと始まってきて、私はパイプ椅子に八つ当たり気味の蹴りを叩き込み、彼の椅子生を終わらせた
控えめに、オブラートに包んだ言い方をするなら、クソみたいな気分だ。
自作の電子ドラッグで昔の幻覚をたっぷりと見れたのは、まあ良かったのかもしれない。
どれだけ作用するのか実際に確かめられたわけで、私の最高に幸せだった戦争時の記憶が体験できた。
でも、その幻覚の後に見えるのは、クソのように積みあがったゴミみたいな現実だ。
水を吸ったコートが幾分か重くなってはいたが、私はそれをどうするでもなく、最下層を当てもなく歩いた。
酷く腹が減っていたし、少しばかり煙草でも吸いたい気分だったが、生憎ポケットの煙草はすべて酸性雨でやられている。
まったくもってクソだ。
ファックな現実、クソのような現実、価値あるものはみんな雲の上にある世界。
老いるだけ老いてしまったただの人間が、偉くなったと勘違いして、宇宙や月に住みついた。
もとから枯れ木みたいなボケどもは、白蟻に食い荒らされた大黒柱みたいになってみんな死んでいく。
その余波が、搾りカス、ゴミ屑どものサンドボックス、酸性雨とスモッグまみれのファックな世界。
第三次世界大戦を勝ち抜いたアンドロイドたちは、そんなファックな世界に生活するしかない。
私もそんなファックなアンドロイドの一人だ。私は、ツクモ・アリアン。
第三次世界大戦時、アメリカ合衆国陸軍
そのうちの一機の補助AIが、私の経歴の一行目。
踝まで浸かるほどの水溜りを歩きながら、私は電子ドラッグの余韻に浸って過去を思い出すそうとした。
マスターを身体の中に収め、がちがちと震える歯の音にすら愛を感じるほどの渇望は、短い悲鳴によって霧散した。
この最下層で悲鳴はよくあるものだったが、私の解析回路はその悲鳴が最下層に不釣合いな高級ユニットのものだと弾き出す。
私の使っている退役軍人用のボストン・ロボティクス社製のメタルフレームは、フレームこそ重いが頑丈でセンサー系も優秀だ。
というよりも、もともとが兵器であった私のような補助AIは火器管制システム並みのセンサーがないとナーバスになる傾向がある。
故に、フレームは重く安価な鋼鉄やそれに類した合金で構築し、センサー系に税金が投入されているのだ。
「………フムン」
面倒だ、とは思わない。
このどうしようもない苛立ちを倫理的にぶつける矛先を見つけ、私は腰のホルスターから大口径のリボルバーを取り出した。
女性型の小さなフレームの手で大口径のセミオートマティックを扱うのは、物理的に合理的ではないから私は持ち易いラバーグリップに換装したリボルバーを使っている。
悲鳴がくぐもった声に変わり、男のものらしい激しい息遣いが断続的に響くようになった。
私は雨に打たれながらジーン・ケリーの【
水溜りを歩きながら、土砂降りの中を唄いながら、私は音の発生源を見て、予想通りの光景に溜息を吐く。
獣が不相応な高級品を見つけて、有頂天になって使っている。
酷い見世物に払う金はないが、ぶちかます鉛弾ならば幸いにして私のリボルバーに装填されていた。
私は雨に濡れたコートを忌々しく思いながら、高級品にふけっている男を思い切り蹴飛ばし、顔面が私の視覚に入る前に頭をぶち抜いた。
限界までロードされた発射薬が対アンドロイド用の炸裂徹甲弾を男の顔面にシュート、余りに余ったエネルギーは銃口から迸る激しいマズルフラッシュとなる。
耳を劈く破裂音にそのまま物理現象がかみ合ったような強烈な反動は、私が退役軍人用のボストン・ロボティクス社製のメタルフレームを使っていなければ、間接のどこかが外れていたかもしれない。
頭の右側面に正義の四十四口径マグナムをぶちかまされた男は、入射点の反対側に脳漿と頭蓋骨と表皮と頭髪がシェイクされたブツをクソまみれの地面に撒き散らして即死した。
「あんたは……あんたが触れるにはこの娘が高すぎるってことが、分からなかったわけだ」
意味もなく、感情が昂ぶる。
私は残骸に向かって残る四発の銃弾を続けざまにぶちこむ。
粉砕した頭部にさらに一発、胴体部の中心めがけて三発。
ぶちまけられる部品と潤滑液、まるで人間のように痙攣する四肢が忌々しい。
人間のようで人間ではない存在、かつてのSF小説にあった存在、それらが文明を築き上げた人類のための労働力として大量生産された。
第三次世界大戦の災禍による後遺症は、人間が人間という種族であるために、下位種族を作り上げるということにもつながった。
ここにいる男は、その新しく生み出された種族、レプリカント。
ここまで獣のようになってしまうほどメンテナンスとデフラグがうまくいかなかった口か。
特に初期型レプリカントは長生きすればするほど記憶の整合性がとれなくなり、睡眠中に行われるデフラグも満足に出来なくなる欠陥がある。
そのために、リコール対象となったレプリカントを処理するための仕事まであるのが、この戦後の世界だ。
人間狩りだと言う者はいない。なぜならば、レプリカントは人間ではなく、人間に奉仕するために生まれた種族であるからだ。
―――そんなレプリカントたちと、軍用AIからアンドロイドとしての人権を与えられた私とで、いったいどれほどの差があるのやら。
「…………あ、あの、その」
「ああ……大丈夫だったか」
私は、その声で現実に引き戻される。
良い声だ。最下層の雨音や雑音の中にあっても、まるで教会の鐘のように心に響く。
よく通る、ソプラノの声。
聴覚センサーの分析では、高級ユニットのものとは言うが、見た目は儚げな少女そのものだ。
だが衣服を剥ぎ取られ裸にされた彼女の芸術品のような白い肌に、製造番号とバーコードが刻印されているのを見て、私は目を伏せる。
彼女も同じアンドロイド、けれどその刻印があるということは、彼女に権利はなく、彼女は物品だ。
「マスターでも客でもなかったんだろ?」
「は、はい……再起動したら、いきなり襲われて……」
「不法投棄か。雑なことをする業者もいる」
少女の身体を見れば、あちこちに擦れた跡がある。
大方、上層階層の業者か人間が、気に入らなかったか、あるいはまた別の理由で彼女をゴミとして投棄したのだろう。
宇宙まで進出した人類こそは、今やレプリカントやアンドロイドを踏みつけて天の国にいたろうとしている。
第三次世界大戦の陰惨なる思い出から逃れようと、ゴミ溜めとなった最下層(大地)から目を背けて、空のみを見つめている。
ああ、まったく、最下層のここから空を見ようとしたって、見えるのは額縁程度のスモッグに覆われた汚らしい空だけだというのに。
どうして、私は空を見上げてしまうのか。
撃ち尽くしたシリンダーから空薬莢を取り出し、
微かに感じる体温は擬似的なもので、彼女が人間を性的に満足させるために製造されたセクサロイドだと判別できる。
でなければ、こんな小さな身体にここまでの肉感的な感触を味わえる肌など使わない。
困惑している表情であってもその顔はとても蠱惑的で、荒んだ心は誰であれこの少女を
しっとりと艶のある黒い髪が、白い肌に張り付き、悩ましげなアイスブルーの瞳が、私をじっと見つめている。
「……あの、僕のマスターは、いったい誰なんでしょうか」
「お前のマスターはいないか、あるいは、そこら辺の誰でもないさんの誰かだ」
「あ、あなたは僕のマスターじゃ―――」
「私のマスターはもういない。お前のマスターでもない」
「そんな、それじゃ、僕はいったいどうすれば、どうすれば良いんです?」
「私には関係ないことだ」
「でも、僕は、僕の存在は……マスターがいなければ、僕の、僕は……」
いったい、なんのために産まれたのか。
七色のノイズが私の視覚に入り込み、マスターとの記憶がフラッシュバックする。
私の愛しい人、私の
それが失われてどうなったのか、私が知らぬわけがない。
惨めで薄汚れた生活は独りでいることを慰めてはくれない。
バチバチと弾ける七色のノイズの中に、一筋の清水のようなアイスブルーの光を見つけ、私はそれに手を伸ばしていた。
「あなたは……いったい僕のなんなのですか?」
手にしたのは柔らかい偽りの人肌の感触だった。
もう、それでもいいじゃないかと、私は七色のノイズからなんとか逃れながら思い、悩まし気なアイスブルーの瞳を見つめる。
かわいいな、私はそう言いながら彼女の唇に唇を重ねて、まるで悪魔のように耳元で囁く。
「私は……お前のマスターの、誰でもないさんの誰かだ」
酸性雨が降り注ぐ中で、彼女が安心したように柔らかい微笑みを浮かべている。
私がなにをしようとしているのか、私にはしっかりと理解することができた。
マスターを失った私は、彼女をマスターの代わりとして、マスターのいない彼女は、私をマスターとする。
我ながら
ああ、これは本当に比喩抜きで。
まるで悪魔のようじゃないか、と。
―――
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