第二章 感染
第12話「ごめんね」
肌を打つ水滴の刺激がまるで他人の感覚のようだ。ホテルのスイートルームであってもシャワーを浴びていると、我が家でもそうであるように湯気と水音に包まれ、世界が収縮し、束の間ひとりのわたしに戻ることができる。
ようやく鉄太は戻ってきた。
でも、そばにはいない。
残念なようでいてほっとしたような奇妙な感覚は、ほっとした感覚がわずかにまさっていて、わたしはそのことに罪悪感を感じていた。きっとわたしは悪い妻だ。ちくちくと逆立った気持ちを温かいシャワーが優しくなだめさすってくれる。もう少し、もう少しすれば普段のわたしに戻れるだろう。
ゲートの向こうに鉄太の姿が見えた時は、胸がいっぱいになってしまって、それからはなにも言葉が出なくなってしまった。まず、おかえりなさいといってあげなければならなかったけれど、だらしなく泣いている母親に代わって鉄太を地上に迎えたのは、息子の晴人だった。
お母さんの代わりにありがとう。
その晴人はいまベッドで眠っている。
そのあと、少し落ち着くことができて、短い時間だったが鉄太と話すことができた。彼に会うまでは、なにを話そうか、あのことを話そう、いやこのことも話さなければと、いろいろ心に浮かんでくることがきりもなくあったが、いざ顔を突き合わせてみると、すとんと話すべきことが頭から抜け落ちてしまっていた。
結局、わたしは、鉄太に晴人のことを話した。晴人が生まれたときのこと、通っている幼稚園、好きな食べ物のこと、いままでに捕まえてきた昆虫のこと……。
いま思えば、なぜ宇宙から帰還したばかりの夫にあんなことを話したのだろうと思う。いつでも、これからは何度でも、話すことができるようなことではないか。それでも鉄太はいちいちうなずいてくれた。でも、それだけ話しただけで鉄太は再び隔壁の向こうへ消えていく。
「もう行くの?」
話したいことは、ほかにももっとあったのだ。わたしは、肝心なわたし自身のことをなにも話せていなかったことに気がついた。
「このあと、記者会見があるんだ」
「今度は、いつ会えるの」
「精密検査とか運動能力検査があるし……、地球の重力や環境に身体を慣れさせないといけないんだ」
JAXAの係員が時計を示しながら
「心配しなくていい。これからはいつでも話せるようになる。一緒に暮らせるようになるのも……もうすぐだ」
「わからないのね」
まるで恋人にわがままを言いたてるティーンエイジャーだ。わたしは自分でも驚いてしまうくらい不機嫌になり、鉄太を苦笑させた。だって、たったこれだけしか話せないなんて、あんまりだ。
「ごめんね」
鉄太はそれだけいうと身体を翻してわたしたちから離れていった。そして再びブルーのフライトスーツがみっつ、テレビカメラの前に並んで笑顔を振りまきはじめた。
鉄太の視線がわたしの方へ向けられなくなったことは、とても寂しく悲しかった。と同時に、これでしばらくわたしたちの生活はいままでどおりだと、安堵しているわたしがいたのも確かだった。ほっとして本来の自分を取り戻したような気がした。
取材記者のもつカメラのフラッシュがひときわ勢いよく光りはじめ、乗組員たちが手を振りながら研究棟へ続く通路に向けて歩き出した。また、彼は行ってしまう。彼のいるべき世界へ。ゲートの前で三人の宇宙飛行士は振り返り、そろって手を挙げると、拍手と歓声の洪水に送られながらゲートの向こうに姿を消した。
わたしはもう、悲しくなどなかった。
シャワー終えて部屋へ戻ると、テーブルに置いていた携帯端末のランプが点灯していた。岡嶋からの連絡だった。ラウンジで食事をしたときに、牧島夫人の提案で乗組員の家族同士、連絡先を交換したのだ。
しかし、時刻表示を見るともう午前零時を過ぎている。さして親しくもない人間同士が連絡を取り合うのにふさわしい時刻とは思えなかった。牧島夫人ならともかく、岡嶋にそんな非常識な面があるとは思えなかったので、わたしは少なからず戸惑った。
どうしよう――。
しばらくためらってから、送信されてきた岡嶋のメッセージを確認する。
《夜のサイクロプスは綺麗ですか》
なんだろう。この胸騒ぎは。わたしは端末を持ったまま立ち尽くした。
文意は明らかだ。しかし、問題はいまこんなことを尋ねることの方だ。もう数日の間このホテルに逗留しているはずの岡嶋が、
海に面したこの1505室から夜のサイクロプスの様子は分からない。サイクロプスや空港を見るためには、岡嶋や牧島夫妻と昼食をとったラウンジ前のロビーまで行かねばならない。わたしはロビーに通じるドアそばに立って外の様子をうかがった。人の気配はなく、しんと静まり返っている。
そっと取手に手をかけると、ゆっくりとドアを開いた。
カサッ。
重いドアを引くと、毛足の長いカーペットの上に白い紙片が現れた。ドアの下に差し込まれていたのだ。手にとると折りたたまれたホテルの便箋だった。開くと几帳面そうな文字が並んでいた。
《端末のメッセージは検閲され、部屋は盗聴されています。明日の朝、ラウンジで会いましょう。 牧島・岡嶋》
わたしはそっと部屋のドアを閉めた。
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