近いけど遠い、数センチ。

鼠鞠

それはとても脆く、とても儚い

重い足取りで地面を踏みつけ、またそれを繰り返す。繰り返し繰り返し、後ろを振り向かずに歩く。

もう後悔してもしょうがないことを考えないように、ただ前に。体を無理やり前に向かせて、また地面を踏みつける。

どうしようも無い事を、自分の中から消え去りたいがために。

だがどう願っても、どう背いても、その感情は私の心の奥の方で生き続ける。

どんなにどんなに捨てようとしたって、いつまでもいつまでもついてくる。


もう嫌だ。もう嫌だ。


けれど、どんなに嘆いてもそれは変わらない。

なのにどうして嘆くんだろう。どうして喚くんだろう。


この感情を、記憶を忘れ去りたいのならいっその事記憶喪失にでもなればいいのに。

記憶喪失に、なれればいいのに。


全ての記憶を燃やして、新しく羽ばたければいいのに。


ううん、記憶喪失よりも良い方法がある。

そうだよ、そうだ。



私ごと消え去れば良いんだ。






――――――――――






その日海斗が出逢ったのは、道端で泣いていた女の人だった。






――――――――――






「あの〜、大丈夫、ですかね?」


道端で蹲る女の人に精一杯優しく声をかける。


女の人はそんな俺の声に気付かぬまま、ただひたすらに肩を震わせていた。

泣いている。

どうして泣いているのかは知らないし、もちろん俺が泣かしたわけでもない。

ただひたすらに泣いているのだ。

その女の人はワンピースにカーディガン、ハイヒールというとてもお洒落な服装をしている。肩まである髪から覗かせた耳には煌びやかなピアスをしていて、顔を抱え込んでいる腕にはネックレス、指には指輪をしている。

言うまでもない、派手な格好である。


女の人が泣いているのを見かけて声をかけてから、もうすぐ5分は経とうとしているだろう。だが女の人は顔を上げようとはしない。

このままだと、通りかかった人に僕が泣かせたみたいに捉えられるから早く顔を上げて欲しい。

幸いこの道は夕方で人通りが少なく、僕が立ち止まってからは人が通ってないので今は大丈夫なのだが。


「えっと〜、あの………大丈夫ですか?」


やはり女の人は顔を上げない。

けどなんとなくそのままには出来ない。

何故だろうか。分からないけれど、ここでこの女の人を置いて行ってしまったらいけない気がする。


「お〜い………」

「………………ぁ」


もう声をかけたのは何回目だろうか。数え切れないくらい声をかけてやっとやっと、応じてくれた。


「…………だ、れ」


女の人はゆっくりと顔を上げる。

その顔は、会ったことがないはずなのにどこか知っているような感じの面影を感じさせる。

化粧をしているからか、凄くパッチリした目に大粒の涙を溜めて俺を呆然と見る。


「今更ですか?結構前から、いましたよ」

「そうな………………!?」


女の人が何かを言おうとしたが、それを自分で言い終わらせる前に何かを思い出したような表情をする。

何かを思い出したような表情から驚きの表情に変わり、やがてまた涙を浮かべて表情を崩す。


「えっと……………」


どうすればいいのか分からずに、俺は未だ座ったままの女の人を見下ろす。

女の人は表情を崩した後にまた俯き、顔を上げようとはしない。


「どうかした……んですか?」

「……………………どうか、してる」


掠れた声で女の人は呟く。

そしてまた。


「どうか、してるよ」


呟く。

瞳からは大粒の涙をこぼして。


「なんで、なんで………。私は、私は………」


そして女の人は拳でコンクリートを殴りつけ始める。

何度も何度も、何度も。

繰り返し繰り返し、痛みを感じないかのように。


「私は!…………もう、……から、離れたかった…に……」


掠れた声で何かを言うと、また何度も拳を振り下ろす。素手では絶対壊すことの出来ないコンクリートに向かって。壊そうとは思っていないと思うけれど、それでも何度も何度も。

そして大粒の涙をこぼして、たくさんこぼして。


「なんで、私…………ここに…………」


女の人はコンクリートを殴るのをやめて呟く。だが涙は止まらないまま。

酷く掠れた声で、今にも消えそうな声で。


耐えきれなくなった俺は、女の人に向かって口を開く。


「あの、良ければ話聞きますよ」

「黙って!!……………っ」


俺は優しく声をかけたつもりだったが、女の人はそれを遮って怒鳴りつける。けどすぐに我に返ったように俺の方を見上げ、酷く震え出した。


「やめ………やめて………もう、やめて………」

「あの」


女の人の肩に触れようとするが、女の人は俺の手を素早くかわしそのまま蹲る。蹲って手で体を包み込むようにするが、それでも震えは止まらないみたいだ。

そして俺はまた女の人に触れようとする。


「やめ…………」


俺はさすがに疑問する。手を触れようとするだけなのに、これだけ拒否されるのは変だ。確かに普通、何も知らない他人に触られるのは誰も嫌だが。

嫌がられていると言うよりは、怖がられている気がするのだ。


「なんで、そんなに……………」

「っ………………」


女の人は体を包み込むようにしている腕に力を入れる。


「……………じゃあもういいです」


そう言うと俺は女の人の隣に腰をかける。


「泣き止むまで……そうしててください」


少し投げやりだったかもしれない。

ちょっとだけぶっきらぼうだったかもしれない。

女の人は肯定も否定もせずに、肩だけを微小に震わせている。小さな嗚咽を微かに漏らしながら。




「ねえ………あなたって、何歳?」


しばらくたった頃、女の人が涙を拭いながら俺を見上げて唐突な質問を投げかけた。


「………俺は、18歳ですよ」


少し間を開けてから俺は答える。


「18歳か………ねえ…今って、2000何年?」


女の人は目を腫らしたまま、当たり前のことをとても心の奥底から疑問だと思っているように尋ねてくる。

単に忘れているだけだと思うけど。


「2016年」

「……………そっか……」

「俺の年齢と、年がどうかしたんですか」


女の人は表情を曇らせ、口ごもる。

そしてまた黙ってしまった。さっきと違うのは、涙が流れていないこと。


「………名前は?」


また、女の人は俺に問う。


「じゃあ、お姉さんが教えてくれたら、俺も教えますよ」


年齢ならともかく、名前となると話は変わってくる。せめて引き換えに相手の名前も教えてもらわないと。

何か繋がりがあるならともかく、知らない相手に個人情報をほいほい教えるなんて馬鹿なことはしない。

名前くらい教えろよって周りの人は思うかもしれないけどね。


「私は………流生(るい)」

「……るい、ですか」

「男の子みたいでしょ」


女の人改め、るいさんはどこか諦観したような笑みを浮かべる。


「いや、いい名前だと思いますよ。実際に同じクラスにるいさんと同じ名前の奴がいますし」

「…………そう。……それで貴方は?」


目線で、今度は貴方の番でしょ?と言うように促してくる。


「…………海斗(かいと)」


るいさんがフルネームで教えてくれなかったから、俺も下の名前だけを告げる。

だがそれで満足したのか、るいさんは「そ」とひとこと呟く。


「海斗さんは、どこの高校に行っているの?」


もうすぐ日が沈みそうな空を見上げ、るいさんはどこか黄昏ているように聞く。


「向こうの道を曲がったところにある高校」

「そうなんだ………」

「あ、呼び捨てでいいですよ」

「んじゃ、そうさせてもらう…………海斗」


俺の名前を呼ぶと同時に、るいさんが顔をこちらに向け、自然とお互いの視線がぶつかる。

俺はるいさんの瞳を覗く。

るいさんの瞳の奥は、なんだかやつれていた。やつれていたという表現はおかしいだろうが、その表現が1番しっくりくる。


「まあ、もう会わないと思いますけどね」


るいさんから視線を外し、俺はそう告げる。


「ねえ、海斗って1人暮らし?」


俺の告げた言葉には反応せずに、るいさんはまた唐突な質問を俺に問う。


「1人暮らしですよ。実家からこっちに引越して来たんです。るいさんは?」


俺が問い返すと、るいさんは言いたくなさそうに口をパクパクさせる。


「俺に聞いたんだから、教えてください」


しつこく問うと、るいさんは観念したように口をゆっくりと開けて言った。


「…………無い」

「無い……って、この辺の近くにってことですか?」


さすがにそういう意味だろう。

るいさんもそれで合っているのか、頷いて言う。


「うん」

「じゃあ、今日はどうするんですか?」


ごく自然な質問を投げる。


「どうしよう、ねえ」


ふふっ、とるいさんは笑を零し、それから考え込むように下を向いた。

そして訪れる沈黙。

だがその沈黙は、るいさんによってすぐに破られる。


「お金も、無いからさ」

「…………なんで、そんな高級そうな服装を着ていてお金は無いんですか?」

「…………うーん」


どう言葉にしたらいいか分からないというように、るいさんは言葉に詰まらせる。


「別に、話したくないなら………」

「そういうわけでもないんだけど」


俺の言葉を遮り、そのまま続ける。


「この服は、貰い物なの。………結婚しててね。夫が、家の外では恥じないようにって、わざわざ何着もこういう服を買って」


諦観にまみれた、るいさんの声音と表情。もう全てを諦めたというような、そんな眼差し。


「私は、着せ替え人形なんだ。本当は、こんな服着たくない、んだけど」

「じゃあ着なきゃいいじゃないですか。無理に、わざわざ………」

「だめなの」


酷く小さな声で、るいさんは呟く。

それはまるで、俺に言い聞かせるというよりは自分の戒めみたいな。それを自分に言い聞かせるように。


「私は、夫の言うことを聞かなきゃ。夫は私のために、たくさん働いてくれているから」

「………でもそれじゃあ、るいさんが……」

「いいの」


自分の欲望を押し殺すような声。これ以上望んではいけないと言っているような表情。


「私は夫に、感謝しなきゃいけない。仕事もしなくて家にいられるのは、夫のおかげ………」

「それって、るいさんは幸せなの?」


無意識だった。

自分でも聞いてびっくりするほどの声音。

そんな俺にびっくりしたのか、るいさんは目を見開く。

けどすぐに口角をあげて、笑顔を浮かべる。

その表情はさっきみたいに諦観にまみれているわけでもなければ戒めているわけでもない、心の奥底から笑ったような顔。


「………幸せだよ」


どうして、そんなに無理をしているのに幸せなのだろうか。

否、それは好きだからだろう。旦那さんのことが。

愛しているから、自分を押し殺してまで一緒にいたいと思う。

愛しているから、自分がどのように扱われていても我慢したいと思う。

全ては旦那さんと自分のために。


「ちゃんと、幸せだよ」


念を押すように、自分で確認するようにるいさんは言う。


「ちょーっとだけ、怖いんだけどね。でも、好きだから一緒にいたいんだ」


次に浮かべたのは、泣きそうな笑顔。

すぐに崩れて壊れてしまいそうな笑顔。


「………ほんとに、旦那さんが好きなんですね」

「そうだよ〜。もうぞっこんかもしれないなあ」


そしてるいさんは立ち上がる。

「さあてと」と言うように。

張り詰めていた空気が一気に緩むような間隔。


「私、泊まる家無いからさ」


るいさんの続けようとしている言葉は何となく予想ができた。


「俺の家に泊まらせて、ですか?」


俺が言うと、るいさんは満面の笑みを浮かべて頷き、そして言った。


「お願いします」




――――――――――


るいさんの考えていることが、思っていることが、俺には何ひとつ分からない。

予想は出来るけど、分からない。

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