第3話 伸ばした手
日が暮れた大学構内。人の気配がないこの時間に、大苗代崇人は忍び足で廊下を歩いていた。頼りになるのは手にした懐中電灯の明かりのみ。そして向かう先には石棺が置いてある部屋。その部屋の扉の前で立ち止まる。
この部屋の中には世紀の大発見となる石棺がある。当然扉は電子ロックされており、暗証番号を入力しなければ扉は開かない。そしてこの部屋を現在管理しているのは政府や宮内庁の人間だ。部外者は立ち入ることができない。
しかし例外もある。この部屋を大学に申請して確保したのは他ならない大苗代崇人。部屋を確保した張本人だからこそ、暗証番号を知っている。入力装置に記憶にある番号を入力すると、ロックが解除される音が静まりかえった廊下にわずかに響く。
「……誰も、いないな」
見える範囲を見渡し、人の気配が全くないことを確認した。そしてロックが解除された扉を開け、部屋の中へと足を踏み入れた。
「部屋の中は……特に変わってないか」
日中追い出されたときと特に変わった様子はない。懐中電灯の明かりだけなので細部まではわからないが、見た感じ大きな変化は見当たらなかった。
「さて、と……」
部屋の中に存在感のある石棺が置いてあり、そこへ吸い寄せられるように無意識に足が進んでいく。
そもそも何故人目を忍んでこんな時間にここへやって来たのか、自分自身でもよくわかってはいなかった。まるで催眠術をかけられて何かに誘われるかのように、自然とこの場所にやってきてしまった。
部屋を追い出される瞬間にモニター越しに見えた石棺に収められた美しい女性。その表情がわずかに微笑んだように見えたことが気になっていないわけではない。しかしそれだけでここまでの行動を起こしたりはしない。
「なんで来ちゃったんだろうな」
自問自答するように独り言を呟きながら石棺のそばまでやってくる。何故ここまで来てしまったのかはわからない。だがここまで来てしまったのならしかたがない。こうなったら一つだけ気になっていることだけを確認して、何事もなかったかのように帰ることに決めた。
そしてその確認のために、手に持った懐中電灯の明かりを石棺の中へと向ける。そこに収められている美しい女性の顔を見るための光を石棺の中へと突き刺す。
「……え?」
しかし、そこに女性の姿はなかった。石棺の中はがらんと空洞があるだけで、日中に見た美しい女性の姿はどこにも見当たらない。
「ど、どこに行ったんだ?」
歴史的な大発見であり、政府や宮内庁の許可が無ければ研究や調査を行うことが許されない。日中部屋を追い出された後はどうなったかわからない。映画やドラマの定番では、政府の命令で密かに運び出されたりする。それが実際に行われたのか、そんなことを考えている時だった。
月明かりが差し込み、部屋の中がわずかに明るくなった。
「……え?」
なんとも言えない恐怖から、背筋を冷たい物が通った。
この部屋はカーテンが完全に閉められている。そして一人でこの部屋へとやってきた。当然カーテンには一切触れていない。だからこの部屋に月明かりが差し込むことはあり得ない。
しかし月明かりが差し込んで来て、部屋の中が実際に明るくなっている。それはつまり、今この瞬間に大苗代崇人以外の誰かがこの部屋の中にいる。そしてその人物がカーテンを開けたということだ。
この部屋にはこの時間にやってきた大苗代崇人を除けば、石棺の中に収められていた彼女以外に人はいない。しかし石棺は大昔の物で、しかも海底で発見されたものだ。石棺の中の空気の量などたかがしれている。女性が生きているなどあり得ないはずだ。
しかしカーテンを開けた人物が確かにここにいる。その正体が石棺の中のあの女性でないのならいったい誰なのか。疑問や好奇心が入り交じった心と頭が、恐怖に支配されて固まっている体に鞭を打つ。動けと、開いたカーテンの方をしっかり直視しろと、強く何度も指示を送ってくる。
「……だ、誰かいるのか?」
恐怖という枷が着いた重い体。それをゆっくりだが、無理矢理と動かす。視線が石棺から月明かりの差し込む窓へと移動する。
「い、いた……」
開いたカーテンから差し込む月明かりを全身に受ける人がそこにいた。その女性の顔は日中にモニターで見たあの美しい女性で間違いない。月明かりと女性の美しさが相まって、神秘的な雰囲気を彼女は纏っていた。
女性の衣服は現代の物ではない。ボロボロで茶色く変色した昔の紙のような質感の衣服を身に纏っている。もしかするとそれは大昔の物で、元々は白かったのではないかという想像が頭をよぎった。
「き、君は……いったい誰なんだ?」
女性に声をかける。しかし女性は声には応えない。まっすぐ窓から月を見上げているだけで、動きそうな様子が微塵もない。
「君は、この中で眠っていたよね?」
もう一度声をかける。しかしその声も女性には届いていないのか、彼女が全くの無反応だった。
二度の声かけに無反応だった彼女はそれからもしばらく月明かりを見つめていた。何も言わず、月明かりを浴びながら見上げているだけ。しかし、そんな彼女にもわずかながらに動きがあった。
月を見上げる視線を追うように、彼女の手がゆっくりと挙がった。懐かしい何かに触れようとしているかのように、その手は月の方へと伸びていく。
そして『コツン』と、彼女の手が窓に当たった。
「……?」
彼女はわずかに首をかしげる。そしてまたしても手を月へと伸ばすが、その手の行く手を窓に阻まれる。そこからさらに二度三度と、彼女の手は伸ばしきることができないまま窓とぶつかり続ける。
見えないガラスにぶつかってしまう動物のようだと思っていると、彼女の顔がゆっくりと向きを変える。この部屋に唯一いる大苗代崇人へと顔が向けられ、この時初めて視線が交わった。
「あ、あの、君は……」
視線が交わったところで質問を投げかけようと口を開いた。しかしその続きの言葉は出てこなかった。質問を投げかけようと言葉を発した直後、瞬きをした瞬間だった。距離があった彼女はホラー映画の幽霊のごとく、いつの間にか目の前に立っていた。
「ひぃっ!」
突然のことに驚き、その場に尻餅をついてしまう。立っている彼女に見下ろされる形でお互いの視線が交わっている。
一瞬の間を置いて、彼女は先ほど月へと手を伸ばした時と同じように、大苗代崇人の顔へその手をゆっくりと伸ばしていった。
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