ハルノ凰

真楽実弦

第1話 何処からともかく風は吹く

 事件に前触れは無い。異常は日常の中から湧いて出るものだった。

朱村雲雀あけむらひばりも、まだ平凡な男子高校生の一人に過ぎなかった。

「――っ。少し休憩しようかな」

夕食、風呂をとっくに済ませ、既に両親が床につくなか、雲雀は問題集の山と格闘し続けていた。来たる大学入試に向けた勉強に早くから取り組む姿には両親も感心し、部屋に籠りっぱなしであろうとも文句の言葉も一つも無かった。

しかし当の雲雀自身に、自らの生き方に疑問を持たない日は無かった。

台所へ向かい、夜食のカップ麺に湯を注ぎ、完成までの三分間を待ち始めた雲雀。こういった何をするでもない時間は、考え事をする為の絶好の機会なのだ。というよりも、自然と体がそうなる、いわば性と言ってもいいかも知れない。三分後にセットされたタイマーが動き始めたのを見ると、彼は自然に腕を組み、椅子に座って明後日の方向を向き、絡まった自らの思考を解きほぐそうと試みた。

 朱村雲雀あけむらひばり、高校二年生、男、それが今の自分だ。両親は健在。兄弟はいないが、家庭には特に問題は無い。学校にも仲のよい友人がいる。趣味や人生の楽しみも人並みに持っている。大病を患った事も、事故に巻き込まれた事も一度もない。何の問題も無い人生である。

だがそれは良い事なのか?順調に、ただスムーズに進んでいく人生は、本当によいものなのだろうか。まるで工場でベルトコンベアに運ばれる缶詰の様ではないだろうか?別に好んで苦労をしたり、苦しんだり、傷つきたい訳ではない。受験勉強など今の生活に大きな不満がある訳でもない。ただ、今とは違う別の、新しい生き方をしても良いのではないかと思うのだ。けれども具体的にどうすればいいのか、それが分からない。今とは違う自分なんて想像もつかない。どうすれば、どうすればよいのだろう……。

彼は彼なりに真剣に将来を考えていた。そして将来の為にも、今が正しいのか、考えていた。

もし、それを嘲弄する者がいたのなら、彼は知りえる言葉の限りを以て、それに反論しようとするだろう。それ程に、彼は真剣だった。


タイマーが三分を知らせた。しかしそれから一分が経ち、三分が経っても、カップ麺の蓋を取る者はいなかった。そういう事は依然にもあった。疲れて寝落ち、朝起きてみて、カップ麺だった何かを見て呆然とする、と言うことが。しかし今回は異なった。明かりのついたままの台所には誰もいない。雲雀の姿は、もはやこの家にはなかった。

それから一時間経っても二時間経っても、朝日を迎えても、彼は戻って来なかった。


 若葉の朝露が落ち、額を濡らした。一粒、また一粒、水滴は肌の上に跳ねて、雲雀を優しく叩き起こした。いったい何が自分に構っているのか、雲雀には分からないが、やけに寝苦しさ、湿り気を感じ、同時に不思議であった。まだ重たい瞼半分開くと、映ったものは緑。抽象的な色としての緑ではなく、若葉の色をもった植物そのものであった。

「……え?」

訳が分からず、急いで立ち上がって周りを見た。一面に植物が生い茂り、どこかの裏山の様な場所であった。訳が分からない、何故こんな場所にいるのだろうか。雲雀は最初に夢や幻覚を疑った。だがこれほど意識がハッキリとした夢があるとは思えなかった。故にこれを現実であると捉えることにした。次に自身の状態を確認すると、昨日の晩に着ていた物に相違なかった。おかげで外にいるというのに、履いている物はもこもこのスリッパであった。

と、大仰に彼なりの状況分析を行ってはみたものの、一番大事な事『これからどうするか』は、『人を探しに行く』という単純な事で済んだ。周りを見渡しても人の痕跡は何もないが、川の音が聞こえる、気がする方向へ行くことにした。川を下っていけば何時しか下山できる、と考えた故であった。

「しかし、意味が分かんないな。何でこんな所で寝てたんだよ。……足は痛いし、喉は乾くし、本当に夢じゃあないんだよなぁ」

歩いてみるとやはり室内用のスリッパ自身は足に良いのだが、如何せん野外の為の物ではないので、小石や小枝を踏んだ感触が殆どそのままに伝わって何とも気持ちが悪かった。それでも彼は藪を開き、獣道を進み、ひたすらに下山を目指して川の方角へ進んでいった。歩いて歩いて歩いて、ずっと歩き続け、東から上がった太陽もすっかり南中を越えて、今にも西へと沈もうとしていた。それでもやっぱり無理があったか、川のせせらぎは聞こえども、その音に近づいている気配はしなかった。息を切らせても水も得られず、雲雀は疲れ切った体で西に沈む太陽を見て、気分を一段と落とした。そうして頭を悩ませていると、ふと視界の端に洞穴の入り口が見えた。

直径四メートル以上はあろうかという大穴が、反り立つ崖にぼっかりと開いていた。

「どう、しようかな」

再び彼の熟考が始まった。

洞窟の中でなら、熊や猪に怯えずに一晩寝過ごす事も出来なくはない。無論、そこが巣穴であったなら元の木阿弥。そうでなくとも蛇、百足、ヤスデ、蜘蛛の類がいる可能性は十分にあるのだから安全とは言い難い。だが、少なくとも野宿よりは数倍マシである。

「……でもやっぱり心配だな。こんな、訳も分からない所で。」

と、彼は一時そこから立ち去った。だがその矢先、暫く歩いた彼の頭上に一滴の水滴がおちた。始めは一滴、だがその数は次第に数を増やしていき、あっという間に雨に変貌した。雨粒は体から熱を奪い、それは確実に体の自由も奪っていくのだった。


という訳で仕方なく彼は洞窟まで走って戻った。急いでも濡れてしまった体を入り口の隅で小さくして雲雀はじっと雨が止むのを待つことにした。だが空は願いを受け入れず、灰色雲のキャンバスに雷鳴と稲光を殴り書きし始めた。

変わらない雨足を膝を丸めて眺めるだけ、それしかする事が無い、どうしようもないむず痒さが渦巻いた。


だがそれについて悩み始める前に、奇怪かつ大きな音が背後から聞こえた。ぐちゃり、と聞くものに不快と嫌悪感を与える、聞いたことも無い音だった。驚き、振り返るが深い洞穴の暗闇が広がり、なにもそこには存在しないと思わせた。しかし稲妻が走り、閃光が暗闇を吹き飛ばし、そこにあるものを露わにした。

「あ、あああぁぁあ!」

雲雀は奇声を上げて飛びあがり、腰を抜かして動けなくなってしまった。そこにあったものは、大口を開けた熊の頭だった。だが熊は彼の方へ向くことも、近づく事も無かった。それが何故なのか、雲雀には一目見ただけで分かっていた。熊は上から無惨に逆さづりにされ、頭はその下で血達磨になって転がっていた。雲雀は虚ろな熊の瞳に捕らられ、カチカチと歯を鳴らし、身を震わせ、喉を詰まらせた。彼はもはや、自分の体を自分のものと出来なかった。身を震わせる恐怖、それに伴う体の震えは次第に大きさを増していった。

「あぁぁぁぁぁうるせぇぇぇなあぁぁぁぁぁぁ」

爆発にも似た轟音が突然に、洞窟の闇の奥から響いた。その怒号は、字の通り雲雀を打ちのめし、岩壁に叩きつけた。鼓膜が破れずに済んだのは、殆ど奇跡に近かった。だが身体と精神の疲労は頂点に達し、考える頭が止まりかけていた。

そこへ、一歩、二歩、何かが近付いてくるのが聞こえてきた。朦朧した雲雀にも聞こえたのは、その音があまりにも大きく、重く響いたからであった。牛歩の様にゆっくりとしたテンポだが、その主が現れるまで一分と待たなかった。

稲光が光り、見えた。甲冑だった。腰には帯刀しておらず、弓も矢筒も無い。兜の底には鬼の顔の総面が朱色に光っていたが、確かに時代劇で見るようなそれだった。だがその大きさが尋常では無かった。でかい、でかいでかいでかい――、縦も横も洞窟全体に広がって、それでも尚、まだ広がらんばかりの大きさだ。ゾウか、ちょっとした家屋くらいの大きさだ。間違っても人間であるはずがなかった。今まで感じた事も無い圧倒的な迫力と圧が、雲雀の失いかけた自我を叩き起こし、言語中枢を麻痺させた。

鎧は丁度クマが吊るされている辺りで歩みを止めた。

「あぁ?なんだぁ、てめぇ」

ガラガラとした大きな、低い声が兜の鬼面の奥から聞こえた。人間の言葉、しかも日本語であったのは驚きだが、姿形に比べれば大して驚きは無かった。血みどろの熊の首を拾い上げ、、鬼面の口へ放っても同様だった。そのまま鎧は、おぞましい音を立てて首を咀嚼しながら顎に左手をかけ、大声でつぶやき始めた

「……ふむ、普通の恰好とは違うな。侍にも見えんし、妖術師の類か、南蛮連中か」

侍、陰陽師、南蛮。いかにも古典に出てくるような単語が、怪異の口からつらつらと漏れた。それらを自分の現状把握に活かそうと、雲雀もまた思案し始めた。だが無意味に終わった。これほどの怪異、異常事態に見舞われて尚、彼は常識の範疇に囚われていたのだった。

無論、彼の精神に、周りがわざわざ追随してくれるはずもない。大鎧は住宅の扉くらいはある手を顎から離し、背中に回した。回した左手が再び前に出ると、そこには巨刀が、鎧の巨躯に匹敵する大振りで、粗雑に岩石でそれらしく作られた大刀が握られていた。そして呟きではない、今度はしっかりと雲雀に向けられて口を開いた。

「まぁなんにせよ運のない小僧だ。雨に見舞われ、逃げ込んだ洞窟がまさか、化け物の住処とはなぁ。小腹の空いた化け物ワシにとっては幸運なことだがな」

そしてゆっくりと大刀を持ち上げていく。勿論、次にそれを振り下ろすため。雲雀は考える間も無く、立つこともままならないうちに逃げ出した。にも関わらず、彼は何とか生きて洞窟から出ることが出来た。ひとえに大刀を振り上げる動きが緩慢であった事、両者の間に十分な距離があったおかげであった。だが大刀が頂点に達すれば、振り下ろすのは一瞬、一撃、圧倒的であった。まるで爆発のような破壊が起き、生じた衝撃は洞窟外にも及んだ。轟音と共に崖が崩れて入り口を完全に埋め、勢い止まらぬ土石瓦礫は雲雀の目前に迫っていった。

「やばい――」

気づいても、まさか避ける事が出来るはずが無く、雲雀の姿は土石流と共に消えていった。

「――あぁ、いけねぇや。やっちまった」

崩れた洞窟の中、右手で無造作に頭を掻きながら、大鎧は独り言ちた。崩れた土石は洞窟の口を完全に埋めてしまっていた。そしてしばらくして、眠たそうに大あくびをかき、その巨体を闇の奥深くに隠していった。

「まぁいい、あと一月だ。たった一月。それに備えてまた眠るとするか……」

そう呟き、ガラガラと笑い声を立てながら。


 崖崩れに巻き込まれた瞬間、雲雀は反射的に死を覚悟した。けれども彼の瞼は再び開く機会を得ることができた。映ったものは知らない天井、梁が通った和風建築のそれ。部屋の三方は襖、彼から見て左手側には障子になっており、障子の向こうから側から陽の光が届けられていた。背中に伝わる感触は柔らかく、自分の身が布団に挟まれている事はすぐに分かった。さらには、身に着けている物が藍色の着物になっていた。体はまだギシギシと痛んでいる。

何処なのだろうか、と考える前に右手側の襖の開く音がした。上半身を起こして視線を向けてみると、部屋に人が入ってきていた。女だ、和装の女、着ている和服の紺色と同じように、女の容姿は派手さこそないものの、静かな美しさと気品が輝き、後ろで一束に纏められた黒髪が美しく映えていた。歳こそ同じくらいに見えたが、同級生にも後輩にも先輩にもあれ程の佳人はいなかった。綺麗だ、と寝起きの頭でもシンプルに認識できた。そんなかんじで呆けた顔に、女は笑顔をみせて応えた。

「あらあら、気分は如何ですか」

「ひぇっ、あ、はい。げ、元気です……」

しどろもどろになっているのが分かったが、修正する事は困難だった。

こんな状況にも関わらず紅潮していく頬を隠そうと布団に潜り込んだ。

「それなら良かったです。ですが、どうやら熱があるようですね。少しお待ち下さいな」

頬の赤らみを、発熱のせいと勘違いしてくれたのは、雲雀にとっては幸運だった。だが肝心な事を聞けないまま、女は襖を開けて行ってしまった。十分程して女は右手にお盆を持って戻った来た。お盆の上には粥の入った茶碗と緑茶、加えて食器があった。

「はい、どうぞ。お口に合うか分かりませんが」

粥の匂いが鼻孔をくすぐり、彼は腹が減っていた事を思い出した。

「頂きます」と丁寧に挨拶だけすると、その後は夢中で食べ始めた。具は菜っ葉しか無く、味付けも単に塩味でしか無い素朴な代物だったが、とても美味しかった。一心不乱に飲み込み、完食まで三分とか掛からなかった。

「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした」

「いえいえ、お粗末なものですか。とても美味しかったです」

互いに謙虚な言葉を送りあったが、女のお淑やかな笑みに雲雀は勝てそうもなかった。いつの間にか女は隣に座っており、先程よりも近くなった距離が胸の鼓動を加速させた。いざ視線が合うと、どうしようもなくなって目を逸らした。タチの悪い事に、きっと女としては無自覚なのだろう。

「私はおぼろと申します。この家に一人、この山で狩りなどを生業としながら住んでいます」

「雲雀、朱村雲雀です」

女、朧が名乗ったので、当然彼も名をなのった。いい名前だ、と気の利いた言葉の一つもかければ良かったかも知れないが、残念ながらそんな気概はなかった。

それよりも『狩り』という殺伐さを感じる単語が、大人しそうな朧の口から出た事への驚きが大きかった。着物から現れている細腕に弓を引いたりするパワーがあるとは想像つかなかった。

だがそのギャップが、かえって朧への興味を倍増させた。顔が熱くなるのを感じ、雲雀は茶を呷って鎮めた。

「谷の間際で見つけた時は心配しましたが、こうして目覚めてくれて本当によかったです」

「あなたが、ここまで連れて来たんですか?」

「えぇ、まあ」

朧は微笑み、こんどは彼女が質問を始めた。

「では朱村さん。あなたはどこから来たのですか?わざわざこの山に入ってきたという事は、この辺りの人間ではないでしょう?着ていた服も変わった物でしたし、みやこなどからですか?」

みやこ、など言い回しに引っ掛かりを覚えたが、取り敢えず自分の住所を答えた。だが女は答えを聞いても釈然としない様子であった。

「むぅ……分かりませんね。まず県とは何ですか?」

「県って、都道府県の県ですよ」

「とどうふけん?」

朧は頭を悩ませている様子だったが、雲雀の困惑はその百倍以上にも膨れ上がっていた。

まさかと思い、雲雀は恐る恐る口を開いた。

「あのぅ……、ここは何という場所なのでしょうかぁ……?」

「ここはウツクノの、ホウマのヤマです」

「うつくの……え?」

彼の頭は真っ白になった。朧はおそらく嘘をついてはいない、真実を語っているのだ。だがそれは、事態が雲雀の理解の及ばない範疇にある事を示していた。というよりも、事態は彼にとって信じがたい事態あるという事だった。目覚めれば知らない土地、鎧の化け物、通じない常識。ここは、自分が住んでいた場所とは違う、似ている所もあるが、根本から異なっている。別の世界、別の時間軸であると。

「いや、でもそんなバカな事が……」しかし彼はこの期に及んで、自分の常識に固執していた。事態を説明出来ないのは自分の思考不足である、と言い聞かせて、更なる考察に没頭しかけた。

だが朧にはそれが、突然に顔をしかめた様に見えたらしい。

「もし?大丈夫ですか、何かお気に障る事でも?」

と、こんな調子で顔を覗き込んでくるのだからたまらない。これでは迂闊に熟考なども出来なくなってしまった。

「えぇ⁉あ、いえいえ、何でもありません」

それなら良かった、と彼女は笑顔で答えてくれる。なんと心が広く優しい人なのだろう、と雲雀は感動にも似た心持になった。彼女の親切な行動、笑顔は、理不尽で理解も出来ない状況に傷心していた身には滋養深く染み込んだ。

「帰る所は、あるのですか?」

雲雀は返答に困った。あると言えばあるのだが、しかし、恐らくそれはこの世界には存在しない。彼の帰る場所は、彼の元いた世界であり、それをおいそれと信じてもらえるとは楽観しなかった。自分でもまだ信じられない事を、どうして信じてもらえるだろうか。

トントンと指で膝を叩きながら考えること十秒、開きかけた朧の口を遮るように答えた。

「わからない」と。

「わからない、とはどういう意味ですか?」

言葉には出さなかったが、彼女の声と表情に疑念が混ざったのを雲雀は漏らしはしなかった。まずい、と咄嗟の嘘を補強するために、新たな嘘を練り始めた。同時に説得力を増すために神妙な表情も浮かべた。

「思い出せないんです。自分がいったい何処から来たのか」

それから彼は、彼女からの質問の殆どに「思い出せない」と答えた。両親の姓名、身分、その他諸々、さっき答えてしまった自分の姓名以外、一切のことにしらを切った。何を聞いても要領を得ない答えしか返らず、彼女も段々と眉をひそめた。だが雲雀は白々しさと胡散臭さを巧妙に隠した名演を披露し、見事に演じきった。

じっとした朧の目からは段々と疑惑の念が薄れていった。

「……にわかには信じがたいですが、あなたの言葉を信じましょう」

「あ、ありがとうございます」

表情には未だほんの少し懐疑が混じっていたが、ひとまずは納得したようだった。起こった安堵は腹の中にしまい込み、人目につかない様に処理した。だが飲み込んだ安堵は、次の瞬間に毒薬に変化して彼の腹を痛めた。

朧は一瞬何か考える様に明後日の方向に目を向け、すぐに雲雀へ戻すと笑顔でこう言った。

「もし行く宛が無いのでしたら、しばらくこちらに留まりませんか?」

「えっ!」

「如何ですか。ここには私一人で住んでいます故、大して気苦労もせずに済むと思いますよ」

「いや、如何ですかと言われましてもねぇ……」

すっかり罪悪感が復活した雲雀はまともに返答出来ず、視線を逸らすしかなかった。その提案は、この先の諸問題を取り敢えず解決してくれるものであるとは分かっていた。だからといって二つ返事で承諾できる事では無い。しかし右も左も状態で外界へ向かえば、再び遭難する事は必至だった。

「……考えさせてください」

結局どちらとも決断できず、この場は問題を有耶無耶にして明確な回答を避けた。こちらを思った言葉に対して幾分に不誠実なように感じて心苦しさが増大した。

「わかりました、ひとまずはここでゆっくりとお休みください」

二コリ愛想よく笑い、お盆を持って彼女は去って行った。雲雀は愛想笑いで見送り、襖が閉まると大きく息を吐いて布団へ倒れ込んだ。同年代の少女にこの赤面の理由が露見する事は、思春期後期の少年にとって最大の患い事だった。陥った状況に比べれば些末な事だが、逆に考えると、それだけの余裕が一時的にでも生まれたのだった。とにかく胸の高鳴りが治まるまでは布団に丸まって、死んだように休むことにした。しかし一人になり、仮にも落ち着いた時間が手にはいると、頭の中で疑問や謎がどんどんと数を増していった。

「いや、もうよして眠ろう。疲れてあちこち痛いし、本っ当にもう……」

うんざりした気分だが布団はあるのだし、木綿で出来た和服の触感が肌に直接触れて気持ちがよく、よく眠れそうだった。だがぬくぬく布団の中をうごめくうちに、着物と全身が直接触れているのに気が付いた。更に一枚、下に着けていたはずなのに。

「あれ、そういえば俺はいつ着替え……」

セリフを言い終わる前に気づいてしまった。

倒れた彼を彼女が見つけ、彼女が介抱したのだ。

と、いう事は――。

火が付いた様に真っ赤になった頭から、彼は出したことも無い絶叫を放った。


 朧が雲雀を助けられてから体感で三週間以上の時が経った。

あれから結局、雲雀は朧の家で厄介になる事になったのだった。居候するからには雲雀も出来るだけの手伝いは行った。申し出た時、朧は苦い顔をして断ろうとしたが、頑なに申し入れ続けると渋々認め、いまでは色々と一任してくれていた。働くときは働き、そして時間が空けば朧の家の書物を読み漁り、この世界の知識を頭に入れた。と言っても、彼にとって目新しい収穫は無いに等しかった。

朧との会話から、ここの言語は日本語と酷似したものという事は半ば察していた。だから文字、ひらがなやカタカナがある事は予想できていた。建築や衣服、食事などもよく似ている。というか、全く一緒だった。資料集で見た昔の暮らしを、そっくりそのまま抜き出したような感じだった。

「でもウツクノのクニなんて無いよな……。だいたい今は西暦何年、というか西暦の概念があるのかなぁ……」

今は畑仕事や家事に励んでいるが、ついこの間までは受験勉強に勤しんでいた身である。それには歴史に関する事も含まれており、完璧とまでは言わずとも、旧国名の殆どは頭に入れてあるつもりでいた。

加えて、聞いた話から考えると、ここの暦は太陰暦に近いものであるらしい。しかし、「今は何月何日ですか」と聞いてみると、「今日はスズカゼのツキ、三カですよ」なんて答えるのだから困った。

知れば知るほど、考えれば考えるほど、自分の居場所が分からなくなる。ただ暮らしただけならば違和感を覚える事は少ないが、この世界そのものへ興味を移すと、元いた場所とは根本から違うと思い知らされるのだった。数十を越す書物を解き、朧にも村人にも尋ねたが、雲雀を納得させられる答えはなかった。

「あー分からん。全てが分からん。帰れるのかなぁ、俺」

読み終えた古本の山に新たな一冊を加えた。その高さと、現在地の特定、得られた帰還への可能性を天秤にかけると溜息しか出なかった。

それら山になった本を返す為に与えられた自室から書庫へと向かう道中、雲雀は朧と鉢合わせた。山のように積みあがれば古本と言えども相当な重量になり、その力は雲雀に牛歩を強いり、なんとも間抜けな態勢で会う事になってしまった。

「あ、どうも」

月並みに、会釈を一緒に簡単な挨拶をした。朧もそれに応えて軽く頭を下げた。いつものとおり、人当たりの良い柔和な表情だった。

「また読書ですか?勉強熱心ですね」

「ずっと受験勉強を続けてきたから、どことなく落ち着くんですよ。……いや、なんでもないです」

「?まぁそれよりも、それらをお渡し下さい。私が返してきておきますから」

言葉上では丁寧に、行動上は殆ど強引に奪う形で雲雀が持った本の山を取り上げた。

「あぁ、いや、どうもすみません……」

「いいえ、気になさらないで下さい」

淑やかに朧は笑い、そのまま去って行った。荷物が持っていかれてしまった雲雀は、バツが悪そうに頭を掻いた。それから一言、

「どう、しようかな」と一人ごちた。

それには『今から』という意味と、将来的な意味の二つがあった。

雲雀は依然、記憶喪失のふりを続けていた。今更身の上を説明するのも面倒であったし、そもそもうまく納得させる自信がなかった。それに、もし嘘とバレたら追い出されるに違いないと考えていた。未だこの世界の全容が掴めない雲雀にとって致命的な事だ。


 雲雀は部屋に戻り、残しておいた本の一冊を開いた。それは風土紀、この周辺の村々に伝わる伝承や民話が記されたものだ。栞代わりの木の葉に従い、彼の視線はその中の一ページに目を向けた。

そこには、おどろおどろしい鬼の姿が墨で見事に描かれていた。鎧を身に着け、自らの身の丈ほどもある刀を持ち、空いたもう一方の手には牛が捕まっている。

「やっぱり間違いない。洞窟で見たあいつだ」

三日前、初めてこの絵を見た時、緊張で力んでしまい、雲雀は思わず本を破きかけた。今は冷静になれているが、それでも嫌な汗は流れる。脳裏には未だ、首のもげた熊の死骸、自分に向けられた殺気、あの一刀の重さが明確な恐怖心と共に染みつていた。ひとまずは落ち着いてきたせいで、自然と忘れかけていたというのに。

隅に書かれた『不動うごかざるもの』とはこいつの名前なのだろうか。ページをめくると、今度はかな文字がびっしり敷き詰められている。

『ガライヤマニスム』『ニジュウシャクバカリノオオオニナリ』

『ゴネンニヒトリ、イケニエヲモトメルナリ』

『ブシドモ、コレヲウチニイクモ、イズレモカエラズ』などと書かれ、その後には辺りの村が滅ぼされた話や、村の武家が段々と衰退していく様が続いていた。

怪物に夫を殺された妻の嘆きや、生贄として捧げられることになった少女の遺書、村を滅ぼされた男の話、それら全てがあまりにも生々しく、事細かに記され、まるで実際の出来事かと思わせるエネルギーがあった。そこに彼が実際に目にした怪物の姿が重なり、これをほら話と一蹴することは雲雀に出来なかった。

「化け物かぁ……」

なんとなく気分を悪くした雲雀は無言で本を伏せ、そのまま畳の上にだらしなく仰向けに転がった。気分を変えようと外の景色を眺めたり、下手な歌を歌ってみたものの、頭の中はどうにも晴々とはしない。切るのも面倒で長く伸びてきた髪を弄りながら、物憂げに呟いた。そろそろここを出立してもいい頃合いだろうと思った矢先、出ばなをくじかれた様な気分だった。

「でもあと少し、あともう少し時間が欲しい。外に出ていくには、まだこの世界の情報が足りない。何でここにいるのか訳が分からない上に、化け物がだからなぁ……」

化け物の存在についても、いざ聞いてみて、『おまえは何をいっているんだ』みたいに思われたら嫌なので、中々聞きづらい。

その他、必要な荷支度もまだ不足しており、物理的にも精神的にも出発ははるか先であろう。


 結局、気分は晴れないまま、夕食の時間になった。調理は朧が行い、その他の片付け等は雲雀が手伝うのが取り決めだ。これに関しては単に料理の腕によって決まった事だ。

「いつ食べても、朧さんの料理は美味しいですね」

「ありがとうございます。こちらこそ、人に振舞うとなると気合が入りますよ。さあ、さあ、遠慮なく」

今晩は焼いた鮎や菜っ葉の汁。バリエーションには乏しく、量も如何せん物足りないが、それでも旨いものは旨い。

「うん!やっぱりどれも美味しいですよ」

「鮎は今が一番美味しいですからね。釣糸を垂らせばすぐに食らいついて、釣るのも楽しいですよ」

「俺は……ボウズでしたけどね、この前連れて行ってもらった時」

「一匹釣りませんでしたか?とても喜んでいたような気がしましたが」

「釣ったは釣ったんですけれど……」

「けれど?」

「鷹に持って行かれました」

朧は思わず噴き出し、雲雀は恥を上塗りされた気分になった。だが悪い気はしなかった。

二人の間で会話は弾み、心地の良い食卓であった。

「朱村さん、お願いがあります」

話の途中のこと。朧の口から出てきた言葉に雲雀は少なからず驚いた。朧が今まで頼み事をする事などなかったからだ。

「お願いですか?」

「隣村の親戚が急病で、見舞いに行かなければならなくなりました。それで明日から三日程、留守番をお願いできますか」

「それぐらいならお安い御用ですよ。任せて下さい」

「よかった。ありがとうございます」


ほんの些細な頼み事。しかし今まで頼るだけだった雲雀にとっては、充足感を得るのには十分だった。恥ずかしいので表立って喜んだりはしないが、その後の片付けも、気分は高らか。つい鼻歌を歌いながらになった。

「ふふん、人から頼られるってのも、案外気分がいいものだな。これでまぁ俺も少しは面目が立つかな」

そう呟いた瞬間、

「何を歌ってなさるのですか?」と言って、朧がやって来た。思わぬ来訪に不意打ちを食らった様に雲雀は大声で驚いた。

「と、突然話しかけてこないで下さいよ。びっくりしたなぁもう」

「あぁすみません。驚かせるつもりは無かったんです、すみません……」

「いやいや、別に気にしていませんから。頭を上げてください」

朧があんまりにも素直に頭を下げるのものだから、雲雀はかえって気後れしてしまい、双方とも頭を下げながらガヤガヤとしていた。

「あぁもうそうじゃなくて、あなたにお渡しするものがあるのです」

混沌に片足突っ込んだ状況を、朧が無理やり話を変えて修正した。彼女は自身の着物の袖から、一枚の折りたたまれた紙きれを取り出し、差し出した。

「……これは?」

「手紙です。もし私が七日経っても戻って来なければ、この手紙を読んでください。私が帰ってきたら、そのまま破り捨てても結構ですので」

「わかりました。家の事は任せて、気兼ねなく行ってきてください」

「!はい……、ありがとうございます。明日は早いのでお先におやすみなさい」

「おやすみなさい」と雲雀が返すと、朧は一段と落ち着いた風に笑い、その場を去っていった。


朧がいなくなると、途端に雲雀は表情を曇らせた。もし戻って来なければ。何故そんな事を言うのだろうか、疑問には思ったが、何となく口にするのは気が引けたのだ。かといって、今さら聞きに行くような気は起らないが。

「いやいや、ただの思い過ごしだろう」

そうやって自分に言い聞かせて、雲雀はさっさと片付けを終わらせ床についた。頭に溜まった余計な思いの一切を忘れようと努力はしたが、結局はモヤモヤが残ったまま、睡魔の意のままに眠りについた。


雲雀の眠る部屋には、障子戸からの月の光がさしている。その向こう側から人影が現れ、障子戸が静かに開いて入ってきた。突然の来訪者は音を立てないように眠る雲雀へと近づいていく。そして彼が眠っていることを確認すると腰を下ろし、

「ありがとうございます雲雀さん。あなたのおかげで私、寂しくありませんでした」と、小さく囁くような声で語った。当然、彼は全く気づいておらず、間抜けな寝顔を晒している。

「……さようなら、どうかお元気で」

最後にそう言い残すと、その後には何も残らず、静寂な夜闇だけが広がっていた。


朝日と共に目が覚めるのが習慣じみた雲雀は、その日も周囲が暗いうちに目を覚ました。家の何処を探しても既に朧の姿は無かった。出発が早いと言ってはいたが、まさか黙って行ってしまうとは思わなかった。

「静か、だな」

孤独を感じずにはいられない。今の雲雀は見知らぬ場所で、訳も分からず右も左も分からぬままに生きている。それでも、彼は自分を助けてくれる女性に会うことが出来た。それがどんなに幸せで幸運な事か、雲雀は一人になってようやく真に理解できた。

                                  

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