夜が更け、街からは明かりが消えた。神の子孫とされる人たちでも、深夜過ぎには皆寝つくらしい。わたしは眠れていなかった。毛布はたくさんあったけれど、汚れた毛布で顔を塞ぐのが嫌だった。単純に汚いというのもあったが、視界を塞いでこの世界から目を逸らしたら、その瞬間に食いつかれる気がした。何よりわたしは妹を憎んでいた。お姉ちゃん、お姉ちゃんとわたしに懐いていたけれど、彼女はわたしから大事な家族を奪ったのだ。怒りがぐるぐると体中を巡り、視界が黒いのはそのせいではないかと思えるくらいだった。二月の冷たい空気が顔と肺を刺した。そのたびに咳をした。風邪を引いたら妹のせいだ。わたしは全てを妹のせいにした。

 少年が言っていたことを思い出し、わたしは町を歩くことにした。祭りの着物だけでは寒いので、薄手の毛布を体に巻きつけ、足が突き出ただるまのような姿で小屋を出た。

 満月の明かりを頼りに、わたしは目を凝らした。見えるものは少ない。石を踏んだりおかしなぐにゃりとしたものを踏んだりして、怖くなったので小屋に戻った。何か明かりがないかとごそごそと棚を漁る。懐中電灯、携帯電話でもいい。でもそんなものはなく、わたしが見つけられたのは小さな箱だった。振ると水のようなものが揺れる感じがする。あちこち乱暴に動かすと、カチッとふたが開いた。ようやく気づく。これはライターだ。大人がよく煙草を吸ったり、祭りで火を熾すのに使うもの。わたしが使うことを許されていないもの。どきどきしながら大人の真似をしてカチカチといじった。なかなか火がつかず、壊れているのかと思い切り動く部分を押すと、ボッと火の明かりが辺りに広がった。同時に痛みと熱も感じて取り落としそうになり、こらえてそれを持ち続けた。

 小屋は本当に粗末なところだった。隙間風を感じるのも当然と言えるほど、荒れ果てていた。女の人の半裸のポスターが壁に貼られており、何ともいえない奇妙な感じがした。わたしの世界では、ここは一人暮らしのおじいさんの家だった。壊れてもいなかったし、無人でもなかった。おじいさんも、たまには里に下りてきていたはずだ。別におかしな人でもなかった。家の中を見たことはなかったけれど、この家があのおじいさんと似た人のもので、このポスターがその人が貼ったものだとしたら、とても怖くて気持ち悪いと思った。

 ここは嫌だ。わたしは小屋を出て、山道を降り始めた。ライターの火が心もとない。町では南北に通っている国道の街灯以外灯りがないから、この火を大事にしなければならない。ミミズクが鳴いている。安全な家の中で聞いているときは何とも思わなかったのに、今は命の危険すら感じる。山肌を覆う土砂崩れ防止のブロックを伝い歩いていると、何かがバシッと顔に当たった。冷たくて平たい何かだった。さすがに悲鳴が出た。すごい勢いで山道を駆け下りた。

 わたしは自宅の位置に向かった。何があるのか、好奇心で勝手に足が動かされるようだった。国道から県道に入り、右手は神社と山と田んぼ、左手に家々の塊があるはず。わたしの家はその一番奥にあった。

 しかし、あったのは知らない家だった。洋風の、レンガ造りの美しい壁。全体は見えないが、庭はお城のように広い。ぐるぐると家の周りを回った。わたしの本当の家は、屋根で圧迫されているような昔の日本家屋だった。二階建てだったし、庭ではなく畑があったはずだ。ここには花壇があり、大きな樹木が植えられている。

 わんっ、と何かが鳴いた。びくっとする。わんわんわん。犬だ。まさか、と思っていると、犬はすごい勢いで吠え始めた。檻に入っているらしい。時折がたがたと物に当たる音がする。わんわんわん。家に明かりが灯った。

 何? 誰かおるとかなあ。女の人の声がした。母に似ていた。お姉ちゃんに行かせよう。女の子が言った。わたし、わたし……ともじもじした別の女の子の声がした。お姉ちゃんに意地悪言うな。お父さんが行ってくるけん。これは、父に似た声だ。

 わたしはがむしゃらに逃げた。山に、舞い戻る。火は消した。それでも獣のように元の小屋に戻ることができた。息が切れる。はあ、はあ、と荒く呼吸をする。冷たい空気に冷やされた喉が痛い。

 つうっ、と涙が流れた。ひどく悲しかった。

 わたしの家があるはずの場所には、わたしの家族に似た人たちが住んでいた。わたしに似た子もいた。わたしの居場所は、ここにはないのだ。


     *


 おい、生きとるか。

 声がして、わたしはそっと目を開いた。生きとるよ。わたしが答えると、ショウゴはほっとしたように笑った。死んだみたいに寝とるけん、死んどるかと思った。死なんよ。わたしはがばっと毛布を跳ね飛ばした。わたしは死なん! ショウゴは面食らったようにわたしを見ている。元の世界に戻るまで、わたしは死なん!

 それはそうとして、朝ご飯、食べる? ショウゴは気にも留めない様子でわたしに持ってきたものを差し出した。小さな、少女趣味的な絵柄がプリントされたトートバッグを覗き込むと、缶詰と魚肉ソーセージと食パンが入っていた。

 あったかいのがない。わたしが文句を言うと、ショウゴは、わがまま言うな、と口を尖らせた。母ちゃんに見つからんようにこっそりちょろまかして持って来とるとぞ。温めたりしたら、ばればれやろ。

 わたしはこっそり飼われている野良犬になったような悲しい気持ちで食パンを食べ始めた。冷たい、乾いたパン。喉が渇いてきたけれど、どうやって飲み物を確保すればいいのだろう。彼はわたしの様子を見て何故か安心した様子で、じゃ、おれ学校行ってくる、と言った。

 学校? わたしが訊くと、ショウゴは、そりゃそうやろ、と不思議そうな顔をした。別の世界にも学校はあるとねえ。わたしが言うと、ショウゴは、おれは学校好かんけどな、と渋い顔をした。

 わたしの世界の圭吾は、学校が大好きだった。皆を従えて、山に行ったり川を泳いだり、草笛を吹いたりした。このショウゴは、正反対の性格のようだった。口数はどちらかと言うと圭吾より多いが、体格は弱々しく、とても皆を引き連れるような印象はない。

 おれは家でゲームするほうが好いとる。オタクって言うなよ。何かを言う前から、ショウゴはわたしに釘を刺した。わたしは言葉を摘み取られたような消化不良の気分を起こしつつも、うなずいた。この世界では彼だけが頼りなのだ。馬鹿にして、うまく行かなくなるほうがまずい。じゃあな。夜また何か持ってくるけん。ショウゴはわたしに手を振り、大慌てで小屋を出て行った。

 どうやら早朝のようだった。窓の外を眺めると、町の様子がよく見えた。小鳥がうるさくさえずる中、わたしは見覚えのあるものを頼りに、わたしの世界とは違うものを探し続けた。

 基本的に、どの家も豪華だった。平屋で広い家、縦に大きい家。わたしの家の位置に建つあの家は、お城のようだった。下のほうはレンガが積まれているのか赤茶色で、上のほうは白い漆喰。洋風の作りで、とても豪華だ。わたしの家はないのだ、とますます実感した。わたしという存在は、この世界にできたたんこぶみたいに余分のものなのだ。

 神社があった場所を見た。わたしたちが神を祀っている神社があった、あの場所。後ろに山があって、敷地内には大きなご神木が両側にあり、本殿と二つの小さな社が、シンメトリーに配置された場所。そこにはビルが建っていた。真四角で、黒い、墓石のような。二十階ほどはあるだろう。わたしは茫然とそれを見つめ続けた。

 神はあのビルにいるのだろうか? そしてわたしたちの世界の子供はあのビルに連れていかれて食べられるのだろうか? 窓が一つもないつるつるとした建造物は、その想像をすると神経を焼き尽くすような恐怖を覚えさせた。

 絶対に捕まらない。絶対に食べられない。わたしは恐怖で息を荒くしながら心に決めた。

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