24話 「好き」
放課後、いつになく夕焼けをまぶしく感じた。
俺は今日も、ひとけのなくなった教室に一人残っている。
鏑木はもういない。
きっと今頃はもう、橋のどこかで俺を待っているはずだ。
彼女の方から話をしたいと言ってくれた。
どんな内容かはわからない。
けれど、俺はそれを聞いて、最後にはあらためて想いを伝えるつもりだ。
俺は鏑木結乃が好きだ。
一挙手一投足に惹かれている。小さな表情の変化にも。
この想いを、真正面からぶつけたい。
たとえ、返事がどうであろうとだ。
†
「やっと来た」
丹波島橋の上。
今日は少し、風が強い。
まだ夕日は隠れていなくて、辺りを橙色に染めていた。
鏑木は、橋のちょうど真ん中で待っていた。
「遅かったか?」
「そんなことない。人に見られないようにするってけっこう大変だものね」
「まあ、うちの学校はみんな帰るの早いからな」
「すぐゲーセンとか行っちゃうもんね」
「ゲーセンは嫌いか?」
「騒がしいからあんまり好きじゃないな。それに前、ナンパされたことあるし」
「どこのゲーセンだ? どんな奴だった?」
「な、なんで急に声低くなるのよ。怖いんだけど」
「鏑木にそんなことする奴がいるのが許せないんだよ」
「大丈夫よ。連れていかれそうになったけど店員さんが止めに来てくれたから」
「どこが大丈夫なんだ……」
めちゃくちゃギリギリじゃないか。
「あたし、これでも運がいい人間だと思ってて」
「いきなりどうした」
「前にそんなことがあって、先月も先輩に似たようなことされたじゃない?」
「されてたな」
「でも、店員さんの時と同じように道原が来てくれた。ね、ついてると思わない?」
「あれはたまたま鏑木が目に入っただけだぞ」
「それがついてるってことなのよ。最初から道原にマークされてたなら、それはそれで怖いし」
「うん、知り合ってすぐそれは気持ち悪いな」
鏑木は暴れる髪の毛を手で押さえる。
「最初にちゃんと話した時は、買い物の途中だったのよね」
「そうだったな。俺がここでぼんやりしてたんだ」
「あの時は、莉緒に迷惑かける変な奴としか思わなかったけど」
「今はどうだ?」
「……ふふっ」
鏑木は笑って、川に目を向けた。そこで濁してくるのか。ずるいぞ。
「…………」
「…………」
しばらく、お互いに何も言わなかった。
横を絶えず車が通り過ぎていく。他の高校の生徒たちも通っていく。チラチラこちらを見る奴もいた。
何も話さず、俺たちは川の流れを見ていた。
……静かすぎる。
なんだか空気が張り詰めているように感じる。この状況で「好き」を言い出すには相当な勇気が必要だ。
しかし、今までだって軽率に鏑木を褒めてきた。同じように……。
いやいや。
勢いだけで行ったらダメなんだ。それが俺の言葉を軽くしているのだから。
しっかり、鏑木の目を見つめて言えなければいけないんだ。
「きゃぶらぎ」
「え?」
「……か、鏑木」
噛んだ。
この重要な場面で。何やってるの俺。
「今日の道原、なんか余裕ないみたい」
「そ、そうか?」
「いつもならもっとふわっとしてるじゃない」
「その表現がふわっとしてるな。俺はどういう風に見られてるんだ?」
「さあね」
また受け流してくる。
このままでは当たり障りないやりとりだけをして終わりになってしまう。鏑木が「帰る」と言い出す前に勝負をかける!
「なあ鏑木」
「なぁに?」
「俺、やっぱりお前のこと好きだよ」
言いながらすでに後悔していた。結局いつものノリじゃないか。重さも誠実さもない。
けれど、言葉を止められない。
「最初は一目惚れだったけど、今でも気持ちは変わらないんだ。俺は鏑木の全部に惹かれてる。好きなんだ」
「……で?」
つ、冷たい。
俺の体は溶け落ちそうなほど熱くなっているというのに……。
「だ、だから――」
俺はまっすぐ、鏑木の目を見た。
「俺とつきあって、くれないか」
「…………」
鏑木は表情を変えなかった。いつも、すぐ赤くなる顔が今日は変わらない。
何か、間違えたか? 言葉が悪かったのか? それとも俺の態度が?
めまいを覚えた。足下がぐらぐらするようで、今にも倒れてしまいそうな――
「もう、道原ってば」
飛びそうな意識が、その声で引き戻された。
鏑木はおかしそうに笑ったのだ。
「こういう時は緊張するのね。自由人じゃなかったの?」
「じ、自分の感情が自由にならない時もある」
「それだけ真剣に考えてくれたんだ」
「あ、ああ」
「そっか」
鏑木が、一歩俺に近づいた。
「いいよ」
ちょうどその瞬間だけ車の流れが途絶えたのは、あまりに出来過ぎと言えた。
静かな、川の音しかしない橋の上。
そこで、鏑木の声ははっきりと俺の耳に届いた。
「道原の彼女になってあげる」
「ほ、本当に?」
「うん」
ぺこっと、鏑木が頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ……」
あれ? こういう時ってどう返事すればいい? 全然わからないぞ。
「あ、ありがとな、鏑木」
顔を上げた鏑木が、今までで一番の笑顔を作った。ちょっと首をかしげて、愛嬌たっぷりの表情で――。
「あたしも、道原のこと好きよ」
「か、鏑木……」
「莉緒じゃなくて、あたしを見てくれた。誰も気づいてくれないところまで見てくれた。全部、道原が初めてだったの」
鏑木が右手を出してきた。
「ねえ、いつもの交差点まで、手をつないでいこう?」
「お、おう」
……まいった。
完全に、鏑木にペースを握られている。いつだってグイグイいくつもりで話してきたのに、今日という大切な日に逆転されている。
でも、悪い気はしない。
俺は右手を出した。
「左手、出してくれ。俺に車道側を歩かせてくれよ」
「……うん」
その声が少し震えているように思えて、俺は鏑木の横顔を見ていた。
鏑木が腕で目を隠して、川の方を向いた。
「み、見ないで。こんなの初めてで……心の中がめちゃくちゃになってるの……」
「わかったよ」
俺は鏑木の左手を握った。温かくて柔らかい、小さな手だった。
「道原の方から言ってくれて、嬉しかった」
「もし今日、俺が何も言わなかったら?」
「あたしが、あの日の答えを返すつもりだった」
「期待に応えられてよかった」
「道原のそういうところ、好き」
「俺も鏑木の誠実なところが大好きだ」
「これからも、ちゃんと相手してね?」
「もちろんだ。その辺の軽い男だと思わないでくれ」
鏑木がこっちを見た。俺も顔を向ける。
視線が合った。
自然と、俺たちは笑顔になれた。
まだ夕日は、まぶしく街を照らしている。
俺たちはその中を、ゆっくりと歩いた。
――こうして俺に、人生で初めての彼女ができた。
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