第28話 ~本選編② こんなに悔しいなんて、思わなかったですわ~
「長谷川さん、パンチがバッチリ当たればこっちのもんです! ただ、だからこそ自分先行にならず相手の動きをよく見るようにしてください。リラックス!」
「さすがに少し緊張しますわね……」
「長谷川サン! 気持ちっすよー!」
俺と五十嵐が長谷川さんを囲んで喝を飛ばす。
少したじろぐが、ピッと胸を張ってはにかんだ。
「……頑張りますわ」
まもなく長谷川さんの1回戦が始まる。
正直、予選を優勝したのは本当に驚愕だ。馬鹿力をコントロールできるようになってきた証拠である。
「――あら、贅肉ギャル女じゃない」
「……ッ!?」
後ろから聞き覚えのない高い声が聞こえた。
俺と長谷川さんは釈然としない様子で振り向いたが、五十嵐だけがその眉間に皺を寄せていた。
「……
「五十嵐、こいつがその八重樫なのか……?」
手足のスラッと伸びたスレンダー体型に、ピンクがかった赤髪がウェーブして腰上まで流れている。凛とした目ではあるが、顔つきはどこか幼げもある。
大きな目、美しい顔立ちをしているものの、目の奥からどこか冷たさを感じる。スレンダーながら、胸の膨らみは大きくメリハリのある体つき。
「贅肉ギャル女の名前を見た時は少し驚いたわ。もうボクシングなんてやってないと思ったくらいよ」
「っせーな……ほっとけよ」
「どこの強豪にも行かなかったと聞いたから……てっきりあたしに心までノックアウトされちゃったのかと」
フッ、と口角が上がる。どこか不気味だった。
「テメーは……中学は北海道にいたはずだけど、東京にきたんだな」
「まあ、そういうことになるわね」
「すぐリベンジしてやるから待っとけ、クソが」
「……また試合後わんわん泣き喚いちゃったら、あたしが困るわよ?」
「っせーな! 失せろよ!」
高い声で静かに笑うと、踵を返してどこかへと消えていく。
拳を握る五十嵐の額には血管が浮かび上がっていた。
「あれが聖ヴェントリック学院の八重樫か」
俺が呟くと、五十嵐は少し我に返り、口を開いた。
「そうだよ……あそこは女子校だけどスポーツクラスがある珍しいとこだ、特待でお呼ばれしたんだろうよ」
「なるほどね。ボクサーっぽい見た目ではないけど、あれが2年連続チャンピオンか……」
「人は見た目には寄らねーよ」
「そうだな」
遠くなった八重樫の背中を見つめる。
今日が終わったら、あいつの情報を収集しよう。
「ライトウェルター級1回戦第4試合を行います……」
アナウンスが流れる。
目の前でアップをする長谷川さんも、アナウンスを聞いて俺の目を見る。
「よし、出番だ。長谷川さん」
「いきますわよ!」
全国の舞台、主役だと思って張り切って来いよ。
「赤コーナー、神奈川、相楽高校……長谷川選手」
ズシン、と長谷川さんが勢いよくリングインする。
観衆の目が一瞬、胸に全集中したのが見えた。
「青コーナー、沖縄、南城高校……工藤選手」
逆サイドから、長谷川さんと同じぐらいの体格の女がリングインする。
色黒の肌で短髪、鋭い目つきは男顔負けの気迫である。
相手の工藤もズシン、とさらに勢いよくリングインした。
長谷川さんが唾を飲み込んだ。
レフェリーが中央に立ち、二人を向かい合わせる。手短に注意事項が伝えられ、ニュートラルコーナーへと散っていく。リングを見下ろす奥の大きなモニターに両校の名前と選手名が映し出された。
長谷川さん……さすがに緊張してるな。
「麗ちゃーん! 自信持ってねー!!」
輪島さんの高い声が後ろから響き渡る。
「相手はきっと長谷川さんを削りに来る。スタミナがあるからいきなり仕掛けてくることもあり得ます」
小声で告げると、長谷川さんはグローブをキュッと握りしめ無言で頷いた。
会場の暑さで、既に彼女の額を1粒の汗が伝った。
「ファイッ!」
鳴り響くゴングの音。
50人はいるであろう相手校の応援が一気に響き渡り始めた。
アウェイ感っていうのは、メンタルが直接出やすいボクシングでは少し分が悪い。
これに臆することなければいいのだが……。
俺の予想を裏切り、長谷川さんはグッと相手に距離を縮めた。
むしろ少し焦っている?
ゴングの直後だった。
工藤は、距離を近づけてきた長谷川さんに早速強めのストレートを振りかぶった。
――混乱させるためだ、ジャブも打たずに突然大振りのストレートなんて!
「――ッ!」
長谷川さんの反応は遅くなかった。
相手の右腕が伸びてきた直後に彼女の素早く身を屈める。
そして、彼女の左拳もまた、相手の顔面へと強く向かっていった。
――クロスカウンター。
予選で大番狂わせを見せたあのパンチを、初っ端で……!
「……!」
しかし、互いのパンチは空を切る。
力強いストレート同士が互いの頭の横を通過した。
「おお……!」
会場にどよめきが走る。
一度距離を置き、位置関係は振り出しに戻った。
「長谷川さん! もう少し肩の力抜きましょう!」
このままでは相手の策略に嵌るぞ。
カウンターを回避できる自信があるからあんな大振りを敢えて初っ端にぶちこめる。
そして、また先手は工藤だ。
ジャブを2、3発打ち距離を詰め、空いた左ボディに強烈な1発。
鈍い音が響き渡った。
思わず顔を顰める長谷川さん。動きが止まる。
「シッ!」
低い声で唸りながら、長谷川さんを攻め立てる。
正直うまい……ボディ、フック、ストレートと全身に攻撃を散らしている。
ボディからのフックへの移行などは、簡単なようでそこにスピードを出すのは意外と難しい。
小刻みなリズム感で攻撃を散らせるのは高いテクニックの証である。
力強いストレートにビビってガードを上げると腹を襲われる。だからといってガードを下げると最も危ない頭部がガラ空き。そういう時はもう足を使うしかない。
「長谷川さん! コーナーにいちゃだめだ! 回るかクリンチで戻そう!」
「…………ッ!」
一瞬の隙を付いて、何とか工藤に抱き着いた。
クリンチだ。
あまりやりすぎると戦意がないように見えて注意を受けることもあるが、今は仕方あるまい。
「ブレイク!」
レフェリーが二人の体を離れさせ、試合を再開させる。さて、どうでようか……。
開始されると、今度は長谷川さんから果敢に攻める。有効打には少し足りないが、何とかパンチをヒットさせ始めた。しかし、工藤の鋭いカウンターは再びボディに突き刺さる。
「ぐっ……」
さっきのデジャヴだ。一瞬動きが止まる長谷川さんを、また工藤で連打で追い込んでいく。工藤のボディブローは通常よりかなりコンパクトな振り幅で放たれる。腹部のより内側へと刺さるのだ。つまり、みぞおちを強く打たれるため息苦しくもなり物理的な苦痛も大きい。
「長谷川さん――」
「…………ッ!」
またクリンチだ。
連打を受けている最中、ガードし切れなくなった長谷川さんはすぐさま相手に抱き着く。
レフェリーが試合を止める。
「抱き着きすぎだよ! 次で減点だからね!」
レフェリーが注意を告げる。
そして、また試合が再開される。
「これは……」
――完全にビビっている。
予選の時よりも明らかに格上の相手。少しでも隙を見せれば苦痛に次ぐ苦痛。きっと彼女は今、闘争心よりも恐怖心が勝っている。
ここでゴングが鳴った。助かった。グローブを合わせ、まだ余裕ような工藤とは対照的に大きく息切れをしながらコーナーに戻ってくる。
「あの強いパンチは思い切りがないと出ません……自信もって1発ぶつけてみましょう」
「でも……最初の、当たらなかったですわ……」
「それは反応が少し遅れただけだから仕方ないです、ジャブで畳みかけてから打ってみましょう」
「…………」
長谷川さんの口に水を少し入れる。
肩を揉み、硬直した体を少しでも和らげる。
「長谷川さん……」
「…………」
戦意を喪失している。度重なる連打の苦しみに恐怖感が芽生えるのは痛いほど気持ちが分かる。あの気迫迫った形相で低い声で唸りながら殴られ続けるのは気が滅入るだろう。
しかし……このままでは……。
ここでインターバルが終了してしまった。当たれば……当たればなんだが……。
「ファイッ!」
ゴングが鳴り響く。指示通り、長谷川さんはジャブを数発放って先手を打った。
相手が少し後ずさる。ここでプレッシャーをかけるしかないか。
「…………ッ!」
俺が言う前に、彼女は理解していた。大きく1歩を踏み出し、左フックを打ち放つ。
今日1番勢いのある左フックだ、これは当たれば――
「えっ……」
刹那、長谷川さんの頭がリングへと真後ろに落ちていく。
鈍い音を立てて、長谷川さんの頭と体はリングに叩きつけられた。
「長谷川さんッ!!」
急ぐようにゴングの音が鳴り響き、レフェリーが工藤の体を制した。
俺と五十嵐はリングに上がり、長谷川さんの元へと駆け寄る。
――左フックが工藤の顔面に届く前に、右ストレートが長谷川さんの顎を突き刺した。
後ろに下がりながら強烈な右ストレートを放った。右の拳が突き刺さった長谷川さんは、そのまま真後ろへと倒れていきリングに沈んだ。
失神KOだ。
動かない長谷川さんの顔を覗く。会場が騒然としている。
「…………」
数秒は反応がなかったものの、徐々に瞼が開いていく。
「長谷川さん、俺が見えますか?」
リングに俺の汗が滴り落ちた。瞼が開き切った彼女は、小さく頷いた。
「わたくし……何もできなかったですわ……」
その声に抑揚はなかった。彼女は、無表情でぼんやりと天井を見つめていた――。
「長谷川さん、控室にマットを敷いたので寝転がりましょう」
「あら、ミスター拳弥……もう大丈夫ですわ」
リング付近のベンチにて、長谷川さんは座っていた。
目を開いたあと、長谷川さんは特に問題なさそうに立ち上がることができた。幸い、倒された時の衝撃にしてはダメージは少なったようだ。
「はぁ……わたくしもびっくりしましたわ」
ペットボトルの水を一口飲み、溜息をつく長谷川さん。
「麗ちゃん……本当にどこか辛かったら言ってね」
「爆乳……わたしもできることはするから」
「しっかし強烈だったな……大きな怪我がなくて何よりだぜ」
3人もベンチの前で長谷川さんを心配そうに見つめていた。俺と目が合うと、彼女は呆れたように笑った。
「はは……いやぁ、インハイはなかなか難しいですわね!」
「…………」
「笑い話ですわよね、こんなの。ミス風音は優勝してくださいね」
「おうよ!」
「はーっ、わたくしは肩の荷が降りましたわ~、ねえミスター拳弥?」
「…………」
あなたは……。
ずっと呆れたように笑っている。心配そうな輪島さんを「大丈夫ですわよ~」とむしろ笑顔で励ましている。
あなたは。
「長谷川さん」
「…………」
「ちょっと、長谷川――」
正直、俺は体が固まった。
長谷川麗は。
「こんなに悔しいなんて、思わなかったですわ……ッ!」
大粒の涙を、膝の上に落としていた。
目から溢れて止まらない涙を、赤く腫れた腕で拭う。くしゃくしゃになっている顔は、紅潮していた。
「うっ……うあぁっ……怖かったですわ、とても……怖かった……ッ!」
「麗ちゃん……」
「初めてですわ……わたくしは、ボクシングを何も分かってなかったかもしれませんわ…ッ!」
涙が止まらない。俺は、彼女の肩をさすることしかできなかった。
長谷川さんは、花火の下で、ボクシングが好きかどうか「分からない」と言った。この場所は好きだからボクシングをやるんだと。だから、本当は向上心なんかなかったのかもしれない。
でも、それでも彼女はここまで戦ってくれた。そして、初めて「悔しい」という感情に直面して涙が溢れて止まらないのかもしれない。
これがインハイの壁。そして、彼女の今の実力。予選を優勝したからこそ、待っている地獄がある。
「麗ちゃん! 一緒に……一緒に、強くなろうね」
「……勿論ですわ」
二人の目は真剣だった。二人とも、絶大な苦痛と悔しさを背中に背負った。
長谷川さんはなかなか本心を見せてくれない人だ。だから、俺は少し嬉しかった。
「長谷川さん」
「また、みんなで頑張りましょう」
「あんただけをみんなが見てたあの光景、最高だったでしょ。来年、もう1回見に行きましょう」
「…………はい!」
涙を流したまま、彼女は目を細めて笑顔を見せてくれた――。
――長谷川さんが涙を流したKO負けの後日、五十嵐は2回戦、3回戦と実力を発揮して勝ち進んでいった。
「判定の結果をお知らせします……10対9、赤……相楽高校、五十嵐選手」
「よっしゃあッ!」
五十嵐がグローブを高く掲げた。
こいつは本当によくやっている。あの輪島さんとの試合から、集中力が違う。きっと、本当の意味で本気になれたんだ。
「ナイスだ、五十嵐」
「あいつぶっとばさなきゃいけねーからな!」
準々決勝を勝利した五十嵐の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「そーいうのは、ちょっと照れるからやめろ」
「え……?」
ちょっと触りすぎたか?
頬を赤らめる五十嵐を見て、俺は不意にも"江ノ島でのキス"を思い出してしまう。
――あの時の五十嵐……マジで可愛かった。
いやいや。
「そ、そういうつもりじゃねーだろ!」
思わず、俺は五十嵐の頭をペシッと叩く。すると、彼女は頬を膨らませて俺を睨んだ。
「テメー!試合終わったばっかのボクサー叩くとかボクシングやめちまえよ!」
「ごめんて」
「…………」
突如、無言になった五十嵐の視線の先には、例の女が立っていた。
八重樫杏子だ。ウェーブしているピンクがかった赤髪を掻き上げた。
「あたしは勿論この準々決勝あがるから、次で当たるってことよね」
「ああ、そうなるな」
「よくここまで来たじゃない。また、ハエが止まりそうな贅肉ギャル女のパンチを受けるのね~」
「テメェ……ぶっとばしてやんよ……!」
「できるならやればぁ?」
「…………くそっ!」
五十嵐は目線を外し、リングを後にしていく。俺もその後ろを付いていった。なんでかは分からないけど、八重樫に会釈をしてしまった。本当なんでだろう。俺。
「え、ちょっと待ってイケメン」
「は?」
「は?」
俺と五十嵐が共鳴した。八重樫は俺に近づき、目を輝かせた。
え、なにこれ?
「さっきは気付かなかったけど……めっちゃイケメンじゃないの……付き合ってください」
「付きあって……え?」
唖然とする。視界の端で、五十嵐が鬼の形相にみるみる変わっていくのが見えた。
「えっと……八重樫さん……?」
「だ、か、らぁ……」
グッと顔が近づく。
あ、可愛い……。
じゃなくて。
「あたしと……付き合ってください」
八重樫杏子。
お前も。
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