第4話 森の魔女①

「あ・・・う・・・生きてる?」


 暗い崖下に横たわりながら、マリアンヌは重い瞼をゆっくりと開いた。

 ずいぶんと長い間、気を失っていたような気がする。いつの間にか日は暮れていて、辺りは夕闇に覆われていた。


「ここは・・・そうです。私は騎士に襲われて崖に落ちて・・・」


 ギシギシと痛む身体を起こして周りを確認する。

 崖下には森が広がっていて、どうやらマリアンヌは丈の低い木が生い茂っている部分に落ちたようだ。

 木がクッションとなったおかげで、辛くも転落死を免れることができた。


「レイフェルトさま・・・」


 先ほどの騎士との会話を思い出すだけで、マリアンヌの目に悔し涙が浮かぶ。

 自分はこれまで、聖女として、次期王妃として、国とレイフェルトのために尽くしてきた。

 にもかかわらず、王国はあっさりとマリアンヌを捨てて新しい聖女を選び、レイフェルトは自分のことを殺害しようとした。


 生来、大人しい気質のマリアンヌであったが、この仕打ちはとてもではないが許せるものではない。

 ふつふつと怒りが湧いてきて、知らず知らずのうちに地面の草を握り締めていた。


「許せない・・・このまま死ぬなんて、絶対に認めない・・・!」


 全てを奪われたまま、崖下でひっそりと死んでいく。

 そして、自分をこんな苦境に追いやった人間は、マリアンヌの気持ちなど知らずに笑って生きていくのだろう。


 そんな現実を受け入れられるわけがなかった。


「私は、死にません。絶対に生き残る・・・!」


 痛みと疲労に侵された身体を無理やりに起こして、マリアンヌは一歩、二歩と歩き始めた。

 マリアンヌの命を狙った近衛騎士は、はたして崖下まで彼女の死を確認に来るだろうか?

 来るかもしれない、来ないかもしれない。

 楽観することなどできない。すぐにでも、この場所を離れなければ。


「はあ・・・はあ・・・はあ・・・」


 マリアンヌは荒い息をつきながら、夕闇の森を進んでいく。

 今はうっすらと木の輪郭が見えているが、あと半時もしないうちに森は完全な暗闇に支配されるだろう。

 それまで、せめて寝床にできる場所を見つけなければ。


「痛い・・・足が・・・」


 崖から落ちたときにケガをしてしまったらしい。足だけでなく全身がズキズキと痛んでいた。

 侯爵令嬢として、聖女として、多くの人に守られて生きてきたマリアンヌにとって、こんなふうにケガをすることも、森の中を独りで歩くことも初めてのことだった。

 騎士に襲われたときとは別種の恐怖が押し寄せてきて、胸がつぶれそうな心境だった。


「だけど・・・諦めてなんて、あげませんから・・・!」


 マリアンヌを動かしているのは自分を捨てた者達への憎悪であった。

 かつて聖女と呼ばれた少女は、親しい者達への憎しみを糧として生にしがみついていた。

 もしも、人間の意志に現実を変える力があるのであれば、マリアンヌの灼熱の憎悪は確実にレイフェルト達を焼き尽くすだろう。


「あ・・・」


 しかし、現実は意志だけでは変わらない。

 必死に足を動かすマリアンヌの前に、巨大な影が立ちふさがった。


「そんな・・・嘘でしょう?」


「ガアアアアアアアアアアアアアアア!」


 頭から黒い角を生やした巨大な熊が、マリアンヌを見下ろして高々と雄たけびを上げた。


「魔物ッ・・・!」


 魔物というのは魔力を持つ獣の総称である。

 人間が魔力によって魔法を使うのとは違い、魔物は魔力を使って自分の肉体を異形へと変異させる。

 5メートルほどの丈があり、頭から角を生やした目の前の巨熊は明らかな魔物であった。


「ガアアアアアアアアア!」


「くうっ・・・!」


 巨熊が振り下ろした前足を、マリアンヌは転がるようにして避けた。

 黒い体毛で覆われた腕が、マリアンヌの身体の上を風を巻き起こしながら通り過ぎる。

 避けることができたのはマリアンヌが俊敏であったからではなく、彼女の身体が巨熊と比べてあまりに小さく、狙いが狂っただけだろう。


 奇跡は何度も起こらない。

 次は確実に殺される。


「お願い、もう一度だけっ・・・!」


 マリアンヌは地面を転がりながら、右手を巨熊に向けてかざす。

 崖の上でクライアに雷を放ったときのことを思い返し、体内に魔力を練り上げる。


「雷よ、この手に顕現せよ!」


 生まれてからかつてないほど強く祈り、マリアンヌは魔法の詠唱をする。

 すると・・・祈りが何者かに届いたのか、白い手の平から青白い雷光が放たれた。

 巨熊の全身が火花に包まれて、苦し気な叫びが森に響き渡る。


「グガアアアアア!?」


「やった・・・! 使えた!」


 偶然ではなく、本当に魔法の力が戻ってきたようだ。

 失ったものを一つ取り戻した実感から、マリアンヌの顔が喜色に染まる。


「グギャ、ガアアアアアアッ!」


「えっ?」


 巨熊が両手を振って身体に巻きついた火花を振り払い、マリアンヌに向けて頭上の角を大きく薙いだ。

 真っ赤な血が飛び散って、マリアンヌの細い身体が吹き飛ばされる。

 クルクルと空中で何度か回転をして、マリアンヌは太い木の幹に叩きつけられた。


「かはっ・・・あっ・・・かっ・・・」


 木の幹に背中を預けて自分の胸元に触れる。ドレスがべっとりと血で濡れていた。

 素人目にもはっきりとわかってしまう。これは致命傷だと。


「いや・・・こんな、ところで・・・」


 ヒュー、ヒューと荒い呼吸を繰り返しながら、マリアンヌはか細くつぶやく。


 死にたくない。

 こんなところで、独りぼっちで。

 誰にも知られることなく死んでいくなんて、あんまりだ。


「グウウウウウッ・・・」


 そんな祈りを断ち切るように巨熊がマリアンヌへと近寄ってくる。雷を警戒しているのか、その足取りは緩慢である。


 一歩ずつ近づいてくる死神の足音をはっきりと聞いて、マリアンヌは涙を流して首を振った。


「いや・・・誰か、助けて・・・」


「いいわよ、助けてあげる」


「え・・・・・・?」


 答えなど期待していなかったつぶやきに、鐘が鳴るような高い声音の返事がした。

 今際の幻聴かと疑ったのも一瞬、次の瞬間には天から降ってきた炎の槍が巨熊の身体を貫いた。


「ガアアアアアアアアア!」


「うっとうしいわね・・・強引な男がモテるのはベッドの中だけよ!」


「ガア・・・ア・・・」


 真っ赤な炎に包まれた巨熊が、見る見るうちに焼き尽くされた黒い炭に変わっていく。

 マリアンヌの雷とは比べ物にならない威力の魔法であった。


「死んでないわね? うん、よかった」


「あ、あなたは・・・?」


 いつのまにやら、マリアンヌのそばに背の高い女性が立っていた。

 長い黒髪を背中でくくった女性は天を衝くほどの火柱になった魔法を背にして、にいっ、と唇を釣り上げた。


「生きた人間と会うのは50年ぶりね。私の名前はラクシャータ。この森に棲んでいる魔女よ」


 よろしくね、と魔女は場違いな明るさで言い放つのであった。

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