第12話 空気を読むということ

「遅刻せずに来れたようだな」

「おかげ様でなー」

 総合研究棟の五階。講義室Aの入り口に時田はやってきていた。

 昨日は本当に鷲津が泊まりに来た。そしてその鷲津に朝六時に叩き起こされ、ぼーっとしながらボードゲームを一時間遊んでいたところで南雲からのモーニングコールを受けた。

 ——おはよう時田! ちゃんと起きていたか! 絶対に遅刻するなよ!

 朝っぱらからやかましい声を聞かされ、完全に目が醒めた。

 ——アイツと同意見なのは不服だが、その授業には遅刻しない方が良い。プロの教えを存分に吸収してくるべきだ。九十九を打ち倒すためにもな。

 お節介な同級生二人に後押しされたのもあり、いつもギリギリセーフか三十分以内の遅刻を繰り返していた時田は、始業時間の十分前に講義室に辿り着いた。すでに他の学生達もまばらに席について談笑していて、室内はガヤガヤと賑やかだった。

 どっかりと南雲の横に腰を下ろし、ムッとした顔を向ける。

「なんで最前列なんだよ。俺達以外、誰も座っていないぞ」

「当たり前だろ馬鹿者。仰ぐ者には熱意を。尊敬の念を。こちらが積極的な姿勢を見せれば、自ずと語ってくれることも増える。俺たちはそうして、他の誰よりも多くのことを享受せねばならん」

 そして南雲はアッパーをするように胸の前へと握り拳を振り上げ、こう言った。

「最高の物語を書くためにな」

「最高の物語ねぇ」

 頬杖をつき、まっさらな上下スライド式の黒板を眺める。時田はしばしそうやってぼうっとしていた。

 ⋯⋯ガサゴソと音がする。

 なんだろうと思い、南雲に目を向けると、なにやら細長い小型の機械を取り出していた。

「おい南雲。なんだそれ」

「ボイスレコーダーだ」

「ああ、声を録音するやつな」

「そうだ。授業の内容を毎回録音しておくつもりだ。ラジオのような感じで、執筆中に聴きなおそうと思ってな」

「へぇ⋯⋯周到だなお前は」

 その言葉を聞き、南雲は時田をキッと睨んだ。

「俺が周到なわけじゃない。周りが腑抜けばかりなんだ。お前は俺のライバルなのだから、もっとしっかりしろ馬鹿者」

「しっかりしてるつもりだけどなあ」

 と、時田が両手を頭の後ろに回したところで初老の男性が講義室へやってきて、教壇の前に立った。凛とした歩き方といかめしい顔立ちを見るに、相当気位が高い人物なことが伺えた。

「南雲。あれが大葉洋司先生か?」

「お前⋯⋯! 『インフィニティグングニール』を知らんのか!?」

「いや知ってるよ。俺たちがちょうど生まれた頃に流行ったファンタジー小説だろ? 辛辣で有名な文芸評論家達が皆揃って舌を巻いたという至高の傑作で、ファンタジーの金字塔として名を馳せたっていう」

「そうだ。なんだ詳しいじゃないか。その金字塔を作り上げた方が目の前にいるんだぞ。もっと驚け」

「うえぇ!?」

 脇に抱えていたノートパソコンを教壇に置き、慣れた手つきでセッティングをしていた大葉先生が時田に目を向けた。

「君、少し静かにしなさい」

「え、え、だって⋯⋯あの“イングル”を書いた人でしょ!? 大声も出ますよ!」

「それだけ驚くなら、名前ぐらいは覚えておけ馬鹿者」

 やれやれと首を振ってから、南雲は大葉先生に手を挙げた。

「先生。講義を録音しても良いでしょうか? このような貴重な機会を一時のものにはしておきたくないもので」

 南雲の態度に好印象を持ったのか、大葉先生は柔らかく笑った。

「ああ。かまわないよ。君、名前は?」

 ツートーンカラーのシャツをはためかせ、南雲は勢いよく立ち上がった。席に座っている他の学生達が面白くなさそうな顔で南雲の背中を見やる。

 あいつまた出しゃばってんぞ。

 そんな目立ちたいかねぇ。

 イキがっててムカつくよね。

 わざと聞こえるような声で複数人の男女が南雲への不平を投げつける。その不平に同調するかのような笑い声も聞こえてきた。

 しかし当の本人は、はなから聞こえていないような態度で声をあげた。

「南雲統と言います! そしてこいつは時田時宗。俺のライバルです。大葉先生に講義をしてもらえるなど、まるで夢のようです。沢山学ばさせていただきます。御鞭撻よろしくお願いいたします」

 彼の辞書に臆するという言葉は存在しない。取るに足らない批判など、ひたすらに喚き立てる鳥達の鳴き声も同然だった。

「ああ。こちらこそよろしく。至らない部分もあるだろうけど、精一杯その気持ちに答えるとしよう」

「ありがとうございます。ほら、お前もちゃんと挨拶しておけ!」

「よ、よろしくお願いします」

 時田はおずおずと立ち上がり、小さく頭を下げた。すると南雲に向けていた笑みは影を潜め、いかめしい顔に戻ってから「よろしく」と大葉先生は短く挨拶を返した。

 授業開始の意を込めているのか、大葉先生は入り口の壁側にある電源スイッチの元まで颯爽と歩いていき、蛍光灯の明かりを消した。

 室内が暗くなったことで、ガヤガヤしていた声は次第に薄れていく。再び颯爽と壇上に戻った大葉先生は天井からスクリーンを引っ張り下ろし、プロジェクターでPC内の画面をスクリーンに投影した。

 そして大葉先生がマイクのスイッチをオンにした頃には、室内はしんと静まりかえっていた。

「結構。ここにいる君たちは実に空気を読むのが上手なようだ」

 そこで一度言葉を区切り、大葉先生は席に着いている生徒一人一人の顔をじろりと見回した。

「——だが。空気を読むことが全てではない。空気を読むということは、周りに合わせるということだ。協調、同調、互譲、妥協⋯⋯それらも過ぎたものになれば、進歩を阻害する枷に他ならない」

 唐突な大葉先生の説教じみた演説に、学生達は不愉快そうな態度をとった。こちらは気分が悪いぞ。察しろよ。そう言わんばかりに。

「単刀直入に言うが⋯⋯出しゃばって何が悪い。目立って何がいけない。粋がって何が問題なんだ?

 周りに合わせることが正義だと思っている者達は、早々に出て行ってもらって構わない。時間の無駄だ。なぜなら私の講義は個を重んじる。出席数や正解を書き写した答案で単位を取ることはできないからだ」

 ざわざわひそひそと場が静かに荒れた。しかしどれだけ待っても誰も立とうとはしなかった。

 それも当然。空気を読める者は、この空気の中で抜けることは出来ない。

 再び室内は静まり返った。

 それを見て取った大葉先生は再び口を開いた。未だ不愉快そうな態度で席に着いている学生達を見ながら。

「すでに取っている科目だからね。この時期に抜けるのも厳しいだろう。

 ⋯⋯だが、良く言えば腹をくくるいい機会だ。君達の目的は単位を取ることではなく、面白い物語を作れるようになることなのだから」

 大葉先生はちらと南雲に目をやり、小さく笑った。それからすぐにまた他の学生達へと視線を戻す。

「私は大葉洋司。かつて最高かつ最強のファンタジー小説を書き上げた男だ。さあ⋯⋯ノートを取る準備は出来たかな?」

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