第82話続く訃報。今川修理大夫逝く
1526年(大永6年)8月
- 京のとある屋敷 -
「我が主の父である今川修理大夫が先月頭に身まかられました」
「それはご愁傷様です」
俺を訪ねてきた九英承菊さんが頭を下げ、俺もそれに応える。駿河(静岡中部から北東部)、遠江(静岡大井川以西)を支配した今川氏親さんがこの世を去った。
今川氏親さんとは、5年前に顔繫ぎとして刀を一振り献上してから、ちょくちょく手紙と季節の物を贈る程度の付き合いはあった。2年前に脳卒中で倒れたけど、事前の警告が功を奏したのか、後遺症は残ったけど史実とは違い晩年の生活はチョット不自由の程度だったと聞いている。
心臓を押さえて倒れたという事だから死因は心筋梗塞あたりだろう。しかし、こんな情報を俺なんかに教えてもいいのだろうか?
「今川修理大夫より預かってきたものがあります」
そういって九英承菊さんは手紙と包みを俺に差し出す。包みの中身は今川仮名目録を記した書物だった。
今川仮名目録は、今川氏が領国内を統治するために取り決めた領民が守るべき事柄を体系的に記述した33ヶ条からなる、戦国時代の東国最古の法典である。
東国と注釈するのは、西国には大内家壁書、朝倉孝景条々、相良氏法度、大友義長条々といった法令集が既にあったから。西国のこれら法令集は現時点で条文の数が少ないので、毛利仮名目録を作る参考になり辛い。33ヶ条もある今川仮名目録は取り寄せるに値するものだ。
え?【ノセタラダマクラカス】で調べれば良かったのでは?そこは、俺が素で忘れていたので追及はしないで欲しい。
「
九英承菊さん上目遣いに聞いてくる。俺は禅僧ではないのだが・・・
「
そう。法令集を制定し裁判基準を設けるのは裁判の簡素化である。いまの裁判判断の基準は領主の胸先三寸。相手次第では真逆の判断が下されることもある。
これではいつまでたっても領主の負担は軽減できないし、賄賂の温床にもなる。挙句あちらこちらに要らない恨みを買うことにもなるのだ。
「裁く側の負担を軽減は判りますが、今川である必要はあるのですか?大内家壁書のでも良いのでは?」
「大内と尼子で旗を代えることが多い毛利で大内に偏る訳にもいかないでしょ?それに人は権威に弱いものです東国の凄い大名が採用する法令というのはハッタリにちょうどいい」
俺の言葉に九英承菊さんは納得したのか大きく頭を下げる。そうそう。九英承菊さんには氏親さんへの香典の心付けとして茶釜銀貨を渡しておいた。
1526年(大永6年)10月
尼子経久さんによって傀儡となっていた伯耆守護職の山名澄之が、南条宗勝を含む東伯耆(鳥取西部)の国人と組んで反乱を起こした。
「攻撃開始!」
尼子国久さんが一際体格の大きい馬の上で叫ぶ。この馬は、久が俺の元に嫁いだ時に頂いた贈り物のお返しとして義父である尼子国久さんに贈ったものだ。
法螺貝が鳴り響き、兵3000が前方に陣を展開する山名澄之軍、兵2500に向かって突撃を開始する。
「義父殿」
俺の声掛けに尼子国久さんが笑顔で「おお、三四郎殿」と応える。義父と呼ばれることに抵抗があるのか、若干顔色がおかしい。
なので尼子国久さんは俺のことを「義息」とか「元近」とか「石見介」とかでは呼ばない。
「南条宗信は山名軍から離反することを承諾しました」
「そうか」
尼子国久さんは口の端を上げる。ちなみに南条宗信は南条宗勝の末弟である。
故あれば寝返るのは戦国の習い。今回は裏切りではなく逃亡の指示なので。ほどなく山名軍の左翼が崩れ始める。
「掛かれ!掛かれ!!」
尼子国久さんが周りを鼓舞するように叫ぶ。
一時間もかからず山名軍は潰走し、山名澄之は居城とする倉吉打吹城に逃げ込む。
尼子国久さんは兵1000で倉吉打吹城を包囲するのと同時に、今回の反乱に参加した東伯耆の国人衆の駆逐を開始する。
半月もせず東伯耆は尼子氏の支配下に入ることになる。
1カ月後に山名澄之は尼子国久さんに降伏し、倉吉打吹城を明け渡すと備後(広島東半分)甲山城の山内直通を頼って落ち延びていった。落ち延びる途中で山名澄之は行方不明となり、備後甲山城にたどり着いたのは息子の山名豊興、山名豊隆を含む僅か16人だったという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます