安芸平定(大内派一掃という意味で)

第59話芸南への道

SIDE 3人称


1524年(大永4年)5月


 白井光胤が所有する仁保島城が、3隻の関船、20艘の小早からなる水軍によって攻撃された。攻撃したのは倉橋の多賀谷興重、蒲刈の多賀谷景時、能美の能美仲次、呉の山本房勝からなる大内水軍である。

 白井は元々は安芸武田、もっと言うと近隣の三入高松城の国人であった熊谷元直の影響下にあったが、有田中井手の戦いで安芸武田の頭領である武田元繁が討たれ、三入高松城の国人である熊谷元直が捕縛されて城から去ったことで親大内派に寄っていた。

 しかし、近年は毛利支配下の三入高松城から経済圏の浸食を受け、軍事的な圧力を受け毛利側に傾きかけた。この動きが大内義興を怒らせたようだ。

 すぐさま白井光胤は毛利元就に救援を求め、毛利元就は三入高松城の坂元貞に命じて白井光胤の救援に向かわせる。

 坂元貞の軍は白井の出張城から船で仁保島城に向かったが、遊撃してきた大内水軍に攻撃されて少なからず被害が出たという。幸いなことに援軍は間に合い、大内水軍を撃退することに成功するが、早急に水軍を持つ勢力を取り込むか手前の水軍を設立する必要があることを毛利元就は痛感する。

 まずそこで打診をしたのが白井の従属だ。これは、これまでいろいろ工作していたこともあり程なく受け入れられる。

 白井の従属が決まると、毛利氏から多額の資金が提供され、関船や小早の造船が始まった。一際大きな造船所が建造され、大量の材木が運び込まれたのは言うまでもない。

 つぎに毛利元就は、矢野城の野間興勝、竹原木村城の小早川興平に対しても圧力をかける。ただ、諱に興の字があるように、彼らは親大内派であった。特に野間は、近隣の白井を従属させたこと、毛利が圧力をかけてきたことに対し猛烈な反発を見せた。


「白井領を海と陸から攻められてはかなわない。野間興勝を討つべし」と毛利元就は坂元貞、白井光胤。それに近隣の国人である鳥籠山城の阿曽沼弘秀を誘って、兵2000をもって野間の矢野城攻めを開始する。

 これに対し大内義興が、配下の羽仁源七と小幡弥十吉に兵200をつけ、周防から海路をつかい呉を経由して後詰めに入れる。これを知った毛利元就はさらに野間に対する警戒を強める。

 配下の畝方元近が、石見(島根西部)での毛利・尼子軍の大進撃を海運で支えたことが記憶にあったからだ。また矢野城は、眼下に安芸の湾岸を望むことが出来て、航行する船の動きを監視できる要地だとも聞いていた。

 「出来れば矢野城は無傷で手に入れたい」という毛利元就の意向を受け、坂元貞軍は矢野川から矢野城へと至り包囲を完了させる。


「これ以上の戦いは無謀である」


 吉川家の宮庄経友の家臣である熊谷元直が近隣の三入高松城の城主だった頃の縁で降伏勧告を行ったが無視された。阿曽沼弘秀は門前で城兵によって追い返された。白井光胤に至っては軟弱者と謗られて矢を射掛けられ負傷したという。この行為に毛利元就はこれ以上の降伏勧告を諦め力攻めを命令する。


「攻め込め!」


 一抱えある丸太を数人の雑兵が抱えて、門に突撃を敢行する。

どごん。

 どごん。

  どごん。

 鈍い破壊音が辺りに響き渡り、ついに門が破壊される。怒号が響き渡りたちまちのうちに矢野城は炎に包まれた。煌々と燃え上がる矢野城を見た、矢野城本丸にあたる発喜城から降伏の使者が訪れる。坂元貞は降伏を認めたが、頭領だった野間の一族はことごとく斬り捨てたという。

 最後に残った命乞いする野間興勝に、「我らは三度降伏の使者を送った。いまさら降伏されてもな」と坂元貞は笑って野間興勝を切り捨てたという。

 発喜城は破却され、簡単な見張り台と監視小屋が設置され僅かな兵が駐屯するだけの場所となった。


 そして、野間の矢野城の陥落と前後して、大内義興が兵2万を率いて安芸侵攻してくる。大内義興は厳島に本陣を構える。後に第2次佐東銀山城の戦いと呼ばれる戦いの火蓋が切られようとしていた。

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