6-7 意地と爪痕、燃えるは覚悟

 闘技場コロセウムを出ると、街は酷い有様だった。飲食店も武具屋もなくほとんどの建物は瓦礫と変わり、黒く焦げた椅子や鎚がそこかしこに転がっている。火災による煙があちこちから中空に漂い、魔竜の暴れっぷりを生々しく現わしていた。



「皆さん!」



 闘技場コロセウムの入り口でしばし絶句していた3人に、ノエルが大声で呼びかけながら走ってきた。上半身は裸で、ズボンも破れだらけ、左の二の腕には血が滲んでいる。息を乱し、瓦礫につんのめりかける。普段の冷静沈着からは想像もできない彼の姿は、3人に良からぬ事態を予感させた。



「すぐに来てください! 棟梁が――」



 そして、幻導士エレメンターの悪い予感というものはよく当たる。シェラの治療を固辞し、ノエルはそう言って元来た道を案内し始めた。





 戦いの中心地に駆けつけてみると、ナガラジャが瓦礫の上に寝かされていた。満身創痍のアーノルドが服で必死に止血を行っているが、すでにそれは真っ赤に染まり、絞れば滴りそうなほどの水分を含んでいる。

 他にも魔竜に抵抗した者達が救護に走り回っていたり、地面に転がされている。手足がなかったり首だけだったり、まさしく地獄絵図の様相であった。



「クソッ! 何でも良い、止血できるものはないか!」


「アーノルドさん! 連れてきましたよ」


「! 3人とも、無事だったんだな」


「棟梁……」


「こりゃひでえな」


「すぐに治療を! 貴き光よ。甘やかなる癒しを我らに与えたまえ――『治癒キュア』」



 ナガラジャの主な傷は左の脇腹。魔竜の爪で引き裂かれたのか肋骨はむき出しになり、内臓が体外にはみだすほどのものだった。右腕もあらぬ方向に折れ曲がっており、太い尻尾も半ばから千切れ飛んでいる。

 むしろ、どうして生きているのかと言いたくなるほどの容体だった。


 皆が固唾をのんで見守る中、シェラによる必死の治療で傷は少しずつ塞がっていくが……あるところで傷口の再生速度がパタリと止まった。



「な、何で! もう一度――『治癒キュア』! ……あぅ」



 再度詠唱するが回復は進まない。さらに力を込めようとした瞬間、シェラがふらりと地面に倒れ込む。慌てて駆け寄ったテレザが抱き止めるがその体は小刻みに震え、ただでさえ白い肌は一層血の気を失っていた。


 テレザ、オーガスタス、そしてナガラジャ。立て続けに重傷者の治療に当たり、シェラの体は急激な『幻素欠乏イグゾースト』に陥ってしまっていた。幻素エレメント幻導士エレメンターにとって酸素と同義だ。無理をさせれば命に関わる。


 唯一と言っていい医療術者が倒れ途方に暮れた一同に、不意に血の混じった咳とかすれ声が届く。



「無理すんな、シェラ……」


「棟梁! 目が覚めたんですか!?」



 ナガラジャが意識を取り戻していた。ノエルが真っ先に反応し、ナガラジャの耳元にしゃがみ込む。もはや彼の声はそうでもしないと聞き取りづらいほど、か細いものだった。



「しぐじっちまった……ここまでだな」


「何を仰いますか、気を確かに。今、本格的な救護が――」


「この出血……間に、合わねえだろ」



 そう答えるナガラジャの体からは、シェラの術式で一旦は止まったはずの出血が、緩やかに再開されていた。もはやそのシェラは術式を使えない。そしていかに高級な治癒薬ポーションとて、切り裂かれた腹をたちどころに塞げるような都合の良いものではない。


 会話は聞こえないながらも、ナガラジャの醸す空気を察したか。シェラが涙をこぼし、ナガラジャに謝罪する。もっと力があればナガラジャを救えていたのに、と。



「ナガラジャ、さん……ごめんなさい……ごめんなさい……!」


「謝るな。最期に、ノエルと話せた……ありがとよ」



 その言葉でナガラジャ本人も含め、全員が諦める。そして覚悟する。ナガラジャにもはや、救命の見込みは無いのだと。



 ――1



「ったく。何を言うかと思えば……勝手に綺麗に死んでんじゃないわよ。出血さえ止まれば何とかなるんでしょ?」



 シェラを抱えたテレザが言った。シェラをアーノルドに預け、左手に熱を籠める。そしてノエルとオーガスタスにそれぞれ、ナガラジャの手足を抑えるように指示する。



「一体何を……」


「止血よ。ちょっと荒っぽいけど。時間が惜しいからとっとと抑えなさい」



 ノエルの疑問に即答し、テレザはおもむろに炎の灯る左手をナガラジャの患部に押し付けた。



「グッ、ゴぁあ!? あがっ……!」



 ちょっと荒っぽい、なんて嘘八百も良いところだった。傷口を文字通りローストされたナガラジャが身を捩り、暴れる。生死をさまよっているとは思えぬ力を、ノエルとオーガスタスが必死で抑え込んだ。テレザはなおも躊躇なく、黒く焦げ目がつくまで念入りに傷口を焼き潰し、ようやく火を止めた。

 再び意識を失ったナガラジャを、縋るように見つめるノエル。幸いなことにナガラジャは、緩やかに上下する胸板で生存を知らせてくれた。テレザも安心したように息を吐く。



「フー……とりあえず、血は止まったわね。死因が焼死になったかもしれないけど」


「冗談でも笑えませんよ」


「仕方ないじゃない。シェラに治せないなら、私達で無茶するしか。それより、治癒薬ポーションを」


「あっ、ああ!」



 テレザに促され、オーガスタスが筒に残った治癒薬ポーションをゆっくりと、最後の一滴まで丁寧にナガラジャの喉へ流し込む。出血が止まっていれば、治癒薬ポーションの効能である自然回復の増強も有効に機能する。あとは竜人ドラゴニュートの並外れた生命力に賭けるだけだ。



「……お願いです」



 目を閉じ、天に捧げたノエルの祈りが通じたか。ナガラジャが再び咳をして、ゆっくりと目を開けた。濁りきっていた先ほどとは違い、その目の焦点ははっきりと一同に合っている。



「お、目が覚めたわね。気分はどう? 瀕死?」


「いや、そこは『元気?』って聞けよ」



 安堵から、テレザもつい軽口になる。アーノルドのツッコミも、どこか遊びがある。それを見たナガラジャは不思議そうに、ゆっくりと自らの傷に手をやり……傷口に何があったのかを悟った。



「……テレザ。これ、お前の仕業か? もっと優しく焼いてくれよ」


「仕業とは何よ。それが命の恩人に対する態度?」



 テレザから態度についてとやかく言われたくはないだろう。身を起こそうとするナガラジャを、オーガスタスとノエルが慌てて制する。意識が戻ったとはいえ腹を掻っ捌かれたのだ、動いて良い体ではない。

 顔をしかめて身を起こすのを諦めたナガラジャは、しかしテレザをしっかりと見て礼を言う。



「助かった。腹が黒いのも、トップには必要な要素だ。な、ノエル?」


「冗談を言うより、先に寝てください」



 つい先ほどまで心底ほっとして、涙さえ浮かべん様子のノエルだったが、いつの間にか冷静な仮面を被り、普段通り意見する。苦笑いするナガラジャだが、既に喋るだけで体は一杯一杯だったのだろう。すぐにいびきをかき始めた。



「……執務長、アーノルド。何があったか、聞かせてもらえる?」


「魔竜が飛び去って行くところは、俺たちは見たんだが……」


「そうですね。今はとにかく、情報を共有しましょう」



 テレザとオーガスタスに頷き、ノエルが襲撃の一部始終を語り出した。








 ――歯が立たないとはこのことだ。


 自らの代わりに破壊されていく街並みと人々を苦々しく見つつも、どこか冷静に戦況を見ている自分をノエルは自覚していた。アーノルドを筆頭に、援護に駆けつけた者達も勇敢に戦ってはいるものの魔竜への有効打は未だない。

 このまま続けても、いたずらに犠牲者を増やすだけだろう。正直に言って、最初の火球を凌いだだけでも人間にしてはよくやったと思う。



「ノエル! 無事だな?」


「勿論ですとも」



 名を呼ばれた。ナガラジャが頭から流血しつつ、ノエルと同じ見立てを述べる。



「これじゃじり貧だ、どっかでデカい1撃を見舞ってやる必要がある」


「私も同感です。問題は、そんな時間を与えてもらえないということですが――」



 言い終わる前に振り下ろされた右前足を2人揃って避ける。それは折り重なった瓦礫を紙細工のように押しつぶし、理不尽な威力に辟易する。



「これが魔竜。俺のご先祖様が戦ったっていう化け物か」


「森で話だけは聞いていましたが……もう少し、可愛らしいものを想像していました」



 直撃すれば即死の攻撃力に加え、その黒い鱗は鍛えた刃も術式も容易く弾き返す。さらに優れた飛行能力まで備えているとなれば、はっきり言ってノエルには打つ手が浮かばない。



「こっちを舐めてるのか知らんが、奴は翼を使ってねえ。仕留めるなら今だ。どっか……『眼』って弱点だよな?」


「間違いではないと思いますが。当てられたら苦労しませんよ」



 今ここにいる者は戦慣れしている。大きな相手に対して眼を狙うのは定石で、遠距離から散々狙い撃った。だがまるで射線を予測でもされているのか、魔竜は頭を巧みに振って当てさせない。


 が、ナガラジャは何か考えがあるようだ。



「俺が直接狙う」


「は……? これに接近戦を挑む気ですか!? 無謀です!」



 あまりに無謀な策に声を荒げる。いかにナガラジャが剛力と言えど、それはあくまで人型の種族としてだ。魔竜との差は大人と子供どころではない。



「じゃあどうすんだ? このままあいつらが死んでいくのを黙って見てんのかよ」


「……それでも、です」



 ナガラジャの鋭い視線にたじろぐ。現在進行形で暴れ回る魔竜により、既に多数の死者が出ている。が、それで勝算ゼロの策を通すほどノエルは情に脆くない。



「棟梁が魔竜に勝てる可能性は、ゼロです。ここで棟梁を失えば、それこそ戦線が崩壊します」


「『俺が』勝つとは言ってねえよ」



 予想外の答えだった。



「魔竜を叩き出すこと。それがこの都市の勝ちで、ひいては俺の勝ちだ。違うか?」



 違わない。違わないが……ノエルの脳は必死で理解を拒んだ。待ってほしい、その先は言うな、という願いはあっさりと砕かれる。



「奴の目を潰すためだけに俺の全てを賭ける、お前らが仕留めろ」


「――」



 絶対に止めたいはずなのに、作戦を提示されたノエルの頭脳は優秀だった。引き止める言葉よりも早く、その成功率を見積もり始める。

 ナガラジャが命まで天秤に乗せ、魔竜の目玉を狙えば――――恐らく、トレードは成立するだろう。その後ノエルたちが魔竜を仕留められるかには疑問符が付くが、この場で魔竜を退けるための策としては決して悪くない。


 そこまで計算して、ノエルは自分が嫌になる。100年以上付き合ってきた友人。それを使い潰す演算を、何の躊躇もなく実行できるとは。そんなノエルの自己嫌悪を知ってか知らずか、ナガラジャは純粋に聞いてきた。



「どうだ?これならいけそうか?」



 棟梁の右腕として、鉄血都市の執務長として、そこに嘘はつけなかった。



「目を潰す方は、概ね大丈夫だと思います」


「じゃあ、決まりだな。後の指揮は任せるぜ」


「ちょっと、待ってください! そんな急にいかれても」



 やっと言えた。ノエルの引き止めに、ナガラジャは兄のように優しく微笑んだ。



「大丈夫だ。お前はいざって時に、最適な手札を切れる奴だ。今だって俺を止めるより先に、策の成功率を計算してただろ?」


「……分かってたんですね」


「何だよ、そりゃお前の良いことだぜ? 俺はこう思うんだ。この都市に俺の代わりは、またどっかで来る。けどお前の代わりは、もう一生来ねえってな」


「そ、そんなこと」


「あるさ。ベラの姐さんから、俺が棟梁を継いだように」


「違うっ!」



 最後の最後、別れの際でノエルは駄々をこねてしまう。その顔は泣き崩れ、周囲から何事かと視線が送られる。しかし彼らは何か大事な話をしているのだろうと察し、魔竜の注意を逸らすのに全力を挙げてくれた。



「都市じゃない。私にとって、あなたの代わりはいないんです……! どうして、どうして勝手にっ、私にとって自分の代わりがいるだなんて思えるんですかっ!?」



 非常時でも冷徹に頭を回せる奴だからか? だから、後はノエルに任せて、逝っても大丈夫だと思っているのか。自分は勝手に死んでおいて、ノエルには思い出だけ背負わせて生きろと強いるのか。

 思いのたけをぶつけられたナガラジャは少しバツの悪そうな顔をした。



「……悪かったよ。じゃあお願いだ。棟梁としてこの都市を、お前を、守らせてくれ。俺がやらなきゃ、お前も死んじまうんだろ。それは御免だ」



 棟梁として、カッコつけさせてくれ。ナガラジャはそう言った。



「……それは、卑怯です」


「そりゃ言い負けたってことで良いんだな?」


「必ず、無事で帰ることくらいは条件として出しても良いですか?」


「無茶言うねえ。まあ……頑張ってくらあ!」



 『強い者に従う』――――それが鉄血都市のルールだ。



「棟梁が魔竜と衝突します、総員援護を!」


『あいよぉ!』




 灼熱揺らめく瓦礫の上を幻素エレメントで形成した鎧を纏い、ナガラジャが疾走する。無謀な挑戦者に歪んだ笑みを浮かべ、魔竜は迎撃の構えを取った。


 体力差は圧倒的。それでもナガラジャは都市を背負い、挑む。


 

『何かと思えば、ただのトカゲではないか』



 魔竜の右爪が薙ぎ払われる。その太さからは信じられぬ速度で地面を抉り、ナガラジャに迫った。



「っしゃあ!」



 跳んで躱し、魔竜の右腕を駆けあがる。今度は左の爪が襲う。再び跳んで躱そうとしたが、足場にした右腕が動いて中途半端な高さに浮く。右半身に衝撃が走って姿勢が崩れたが、幻素エレメントで硬質化させた爪をどうにか鱗の継ぎ目に立て、今度は左腕にしがみつく。



『チッ。離れんか!』



 苛立った魔竜が巨大な牙を剥き出す。これはチャンスだ。噛みつきを躱せば顔に手が届く――そう思った瞬間。



「……おい、さっさと仕留めろ」



 小さな声と共に、右腕が弾かれた。ゆっくりと落下し始めるナガラジャ、その目に魔竜の背後の屋根に立つ、小さな人影が映る。そして魔竜がゆっくりと咢を開き、ナガラジャを食いちぎろうと迫る。


 やばい。死



「棟梁!!」



 ナガラジャの下の地面が突如としてせり上がる。ノエルが必死の形相で術式を編んでいた。魔竜の牙は足場を抉り九死に一生、そして千載一遇の好機を得る。牙を空振りした魔竜の顔が目前にあった。


 右手は折れて使えない。まだ動く左手を魔竜の目の前にかざし、叫ぶ。



「――『銀大径弾ミスリルスラッグ』!」



 銀貨ほどの直径を誇る銀の銃弾が撃ちだされ、魔竜の目を直撃した。



『ぐっ――ぉぉおおおお!!!』



 絶叫が轟き、魔竜がのけ反る。いかに化け物といえど、目を突かれれば痛がるらしい。だが致命傷には程遠く、手当たり次第暴れだした。どうにかもう1撃、と立ち上がろうとして、ナガラジャはひどく体が重いことに気づく。魔竜の叫びも、駆け寄ってきたノエルの声も、どこか遠くに聞こえる。



「棟梁! しっかり!」


「あ? ああ……そうだな。あいつに、トドメを」


「この怪我で何を言ってるんです!」



 怪我?そう思って視線を下げたナガラジャの目に、無惨に切り裂かれた自分の体と、自らの作った血だまりが飛び込む。最初に爪を喰らった時には、もうこの状態だったのだろう。そりゃ意識も遠のく、と納得がいった。


 魔竜はひとしきり暴れると、怒りに燃える目をナガラジャへ向ける。ノエルが咄嗟に岩石を飛ばすと鬱陶しそうに頭を振り、翼を広げた。風圧と共に土ぼこりが舞い上がり、思わず目を閉じる。瞼を開けると、既に青空高く舞い上がった魔竜はどんどんと小さくなっていた。退いた……のか?



「敵は撤退しました――我々の勝利です!」


『おぉーーっ!!』



 ノエルの声に、生き残っていた者が雄たけびを上げる。やはり、ノエルならば安心して都市を任せられる――そう安堵して、ナガラジャは意識を手放した。









「――ということです」




 ノエルが話を終える。もちろん棟梁との詳細なやり取りは伏せているが。テレザとオーガスタスが腕を組み、頭をひねる。




「うーん……目を潰したってことは、当面はここを襲うことはないと思って良いの?」


「分かりません。正直、極めて強大であることと外見の情報以外は私達にも何とも……」


「やっぱり、そうよね……」


「どこに飛び去ったかでも分かれば良いんだが……難しいよなあ」




 相手の目的は不明だが、こちらに敵意を持っている以上放置はできない。が、相手がどこにいるのかすら分からないのでは手の打ちようもなかった。ひとまずナガラジャとシェラを医者に預け、全員で怪我人を運び出したり、遺体を拾い集めて弔いの準備を進める。


 魔竜との戦闘に参加した者は、ナガラジャやノエルも含めて総勢10名。内5名が死亡、棟梁・ナガラジャが意識不明の重体、残る4名も漏れなく重傷。勝利と呼ぶにはあまりにも苦い結果であった。








竜人トカゲは確かに引き裂いてやったが。他の者は見逃して良かったのか?』



 鉄血都市を飛び立ってしばらく。休める場所を探しつつ、魔竜は問う。鉄血都市を急襲したものの、別に滅ぼしたわけでもない。ナガラジャとかいった、あの都市の頭らしきトカゲは助かるまいが……。



「良かったも何も。お前が片目を潰されて、引かざるを得なくなったんだろう」



 痛いところを突かれる。確かにあのトカゲを侮ったが故に、不覚を取ったのは否定しようもない。潰れた目はいずれ再生されるだろうが、屈辱は中々癒えそうになかった。

 流石に1000年以上も眠っていたブランクは大きかったか。にしてもこの魔竜の爪を受けて、なお反撃してくるとは……1000年経てば劣等種と言えど、骨も出てくるということか。



「……何を笑っている?」


『存外この世界、滅ぼし甲斐があるやもしれんと思ってな』


「フン。化石からすれば、どんな世界でも楽しいだろうさ」


『それは然り。この大空を自由に舞える。今の我には、それだけでこの上ない充足感だ』



 適当なポイントを見つけた。付近に少々大きめの生き物の気配がするが、片目がないとはいえ魔竜の敵ではない。雲間から大きく螺旋を描くように降下し、着地地点にいたフォレストベアを尾の1撃で葬り去る。久々に噛みしめたはらわたの味に、彼は感動を覚えた。



『在りし日の人の娘ほどではないが、貴様から得る魔属性幻素イビル・エレメントよりも上等だな』


「そりゃ良かった。拾い食いで腹を壊すなよ」


『……そこな品のない痩せ犬と、同列に見られるのは心外だぞ』



 魔竜の視線の先では、食べ残しにあずかろうとフォレストウルフの群れが草陰に隠れている。彼の眼は光だけでなく、幻素エレメントを筆頭に、様々な力ある物質の流れを見ることができる。そちらへ向かい、魔竜は柔らかい内臓部分しか食べていない熊を投げて寄こした。

 彼は大変な美食家であり、気に入った部位しか口にしない。そして残った部位はこうして無造作に、動物、魔物問わず下々の者へ分け与えるのが常だった。だがその癖は、森に重大な変化をもたらす。


 熊に群がった狼どもが、突如として苦しみだした。大半はその場でぐったりと動かなくなるが、群れのリーダーと思しき1頭だけは苦しみながらも熊を、そして死した仲間をも喰らい続け、やがて巨大な狼型の――人間からはジェヴォーダンと呼ばれる魔獣へ変貌した。魔竜の唾液に含まれる膨大な魔属性幻素イビル・エレメントが通常の生物としての枠を破壊し、ただの動物を魔獣へと変貌させた。



『ほぉ? 精々マーブルウルフ止まりかと思えば……見込みがあるな。ちこう寄れ』


「おい。妙なものを増やすな」


『我が眷属だ、大目に見よ。……よしよし。あやつはライン・ニールベンゲル。退屈で狭量な男だが、我らの味方だ』



 ファフニールの目の前で腹を見せ、恭順を示すジェヴォーダン。それを眺める魔竜はこの上なく上機嫌で、現世を満喫していた。

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