第3話

 温い日だまり。スケッチ板をこする音が温室の中に木霊する。

 庭園の中で、隣に座っているメイを横目で眺めた。


 二人が通っている蘇芳ヶ花女学院には庭園という名の温室がある。普段は園芸部ぐらいしか居つかないものだが、奏とメイは美術の課題のためにこの暖かな場所へ訪れていた。

 春にはハナスオウが見ることができるらしいが、今の季節は生憎の晩秋である。そんな冬の寒さも温室には関係なく、奏は二人で暖かい場所でいることができるのが嬉しかった。


 秋に咲いた花がまだ残っているのか、美しく開いたバラがぽつぽつと目に入った。題材にはピッタリなそれを、奏とメイはせっせとスケッチする。

 音がすべて吸い込まれてしまいそうな静寂の世界。まわりすべてを緑に囲まれる秘密の世界。今、この瞬間の二人を誰も見つけることができない。

 奏は息をのむ。感じることのできるメイの体温と息遣い。早くなる鼓動と同じように、手を動かす速さも上がっていく。

 目の前のそれぞれ三色のバラを見つめるメイ。奏も同じように題材を見つめた。

 書き写す。書き写す。

 時が止まった世界にいるような錯覚が奏には感じられた。


 かわいい女の子。自分の理想で、憧れで、彼女のようになれたらな、なんて何度も思った。

 しかし、現実は何も変わらない。鏡の前に立つのはヒョロリと長い美少女というよりも男のような自分だった。

 フワフワひらひらのかわいい服なんて絶対に似合わない。長い髪だって同じだ。自分だって周りの女の子みたいな恰好をしたいのに。

 どうしてこんな風に生まれたのだろう。女として見られない。こんな外見に。

 本当に羨ましい。そうやってメイのことを妬んでしまうことが、奏には何度かあった。好きなのに、触れていたいのに、いつか、自分がメイをグチャグチャに壊してしまいそうで、そんな欲求が胸の奥深くで息づいているのが手に取るようにわかっていて、奏はいつも自己嫌悪に陥る。


 フワフワの髪。メイのそれに触れてみたくなって奏は手を伸ばした。いつもと同じように、メイに触れたかった。彼女に触れて、安息と落ち着きを感じたかったのだ。


「ねぇ、綺麗でしょ」


 突然現れたその音に、奏は慌てるように手を引っ込めた。

 静寂の、二人だけの世界に突如現れた異端者。彼女は奏の背後から、目の前へとぬるりと姿を見せた。

「そんなにびっくりしないで下さいよ。 ほら同級生じゃないっすか」

 赤い眼鏡にフワフワのショートカットを揺らして、異端者は微笑む。

 それよりも見られていた、ということ奏にショックを与える。

 メイに惹かれていた、その時の自分を見られていた、そのことは奏一人の心の内には隠せないことであるということだ。

「あ、林道ちゃん」

「やだなぁメイちゃん。 ハルって呼んでって何回もいってるじゃないすか」

 林道はニッコリと笑い、こちらに向かってブイサインをくりだした。

 そんな彼女にどこか調子はずれな雰囲気を奏は一歩、後ろへと下がった。

「あれ? もしかして薄雪さん。 私のこと誰かわかっていない感じすか」


 当たり前だ。クラスの連中と話し、仲良くなる前にあんな噂が流れたのだから。

 奏は内心、舌打ちする。

 奏にとってクラスメイトなど他人だ。彼女らに悪気があるにしろないにしろ、傷つけられたことには間違いない。噂のせいか、元々のコンプレックスからくるものか、奏は周りの評価を気にしないように過ごしてきた。

 自分の隣にいる優しい人がいれば、彼女は学校に何も求めなかった。噂の収束も、復讐めいたことも、何も求めなかった。


「ごめん、私、人の名前とか覚えるの苦手なんだ」

「あ、そうなんすか。 じゃ、同じクラスメイトの林道ハルっす。 ハルとでもマルちゃんとでも呼んでください」

 以後お見知りおきを、と林道は言って深々とお辞儀をした。

 ニコニコと笑っているその顔の、真っ赤に燃える眼鏡の底にある黒い瞳は全く笑っていないのが、とても怖くて、奏は目をそらせなかった。

 今は笑っていても、次の瞬間には悪魔が顔を出すような、そんな印象を感じた。

「私ね、園芸部なんすよ」

 周りの緑を見渡して、林道は呟いた。

「だから、お二人がここにいるのを見て、自慢したくなっちゃって」

 照れたように彼女は眼鏡をくいっとあげる。

 メイはニコニコしながら、林道に楽しそうに相づちを打った。

「元々、私は薄雪さんと話してみたかったんすけど、薄雪さん、有名人になっちゃったから」

 そう言ってウインクをパチリと飛ばしてくる。

 奏はそれを避ける如く、目と体を逸らした。

「あぁ、うん」

 林道という女子の話には、心底興味がなかった。

 メイとの二人きりの時間を邪魔されたのが奏の機嫌を曲げる。

 速くこの時間が過ぎればいい、奏はそう願った。


「前から、なんとかチャンスを探ってたんすけど、中々見つからなかったんすよね」

「それで今、ちょうどよかったんだ」

 なにも話そうとしない奏の代わりに興味津々に話を聞くのはメイである。ほとんど友達を失った奏に興味を持ってくれる人が現れたことにメイは心から喜んでいるように見えた。


 メイがいてくれるだけでいいのに。


 奏の胸中は秘められたまま、外へ出ることはない。

 たとえ誰に脅されたって口に出すものか。

 奏は表情を変えず、ただ何も考えずに二人の話を聞くに徹した。

「そうなんすよ、ベストタイミングで私のテリトリーに入ったもんすから」

「すごい綺麗ですごいと思う! この温室!」

 目をキラキラさせながら、メイは飛び跳ねる。大きく息を吸い込み、小さな肺を一杯にして、林道を褒め称える。

「園芸部の誇りっすからね」

「本当、こんなきれいな場所初めて見たかも!」


 確かに、この温室は美しい。

もうすぐ冬だと言うのに、未だに緑色を保っているものが多く、所々には先程のバラと同じように花を咲かしている姿が垣間見えた。

 奏はその中でも白く、星形に花びらを広げたものに強く目を惹かれた。

「全部、林道が世話しているのか?」

「全部が全部じゃないっすけど、園芸部員で分担してって感じっすかね」

 はにかみながら林道は答えた。どうやら素直に嬉しいらしく、その頬は僅かに染まる。

「すごい! すごい! 本当にすごい」

 また飛び跳ねるメイを目で追う。

 翻るスカートから覗く白く、華奢な足が奏の動悸を誘った。

「いや、顧問の先生がその筋の人なんすよ。 それに園芸目的で入ってきたひとがいるっすからね。 後は、この部以外の人も手伝ってくれたり」

「へー、そうなんだ。 そんな人がいるんだね」

 メイがそう相槌を打つと同時に、林道の瞳が暗く光ったような気がした。


 嫌な予感が奏の心をなぞる。


 林道は口角をきゅっと上にあげて、ゆっくりと、きちんと聞こえるように、言葉を紡ぎだす。

「例えば、写真部だけど、柊さんとか」

 その名前を聞いた瞬間、ここ半年のことが一気に奏の脳内にフィードバックされた。この温室での出会いから、あの時の大きく見開けれてうるんだ熱い瞳。それから――

 嫌な名前だ。本人に何の悪意もなく、ただ純粋な好意しかなかったとは言え、その名前は心の中で重く後を引いている。

 なるべくこの話題を終わらしたかった奏はぶっきらぼうに、興味なさげに頷いた。

「あぁ、柊さん、ね」

 自分とは何の関係もなく、ただの一人の上級生としか思っていないように見えてくれればいい。

 だけれども、林道のふわふわとしたその髪とは反対に、その底冷えする視線は奏をとらえて離さなかった。

 にやりと、口角を上げ直して林道は言った。

「あとはそう、日嗣ひつぎ青春あおはるさんとかよく見るよ」

 なぜ、ここでその名前を聞くことになったのだろうか。

 柊よりも聞きたくない名前ナンバーワン。日嗣青春。メイの思い人で、気を付けておかないといけない要注意人物。

 どれだけこちらから拒もうとも、メイと自らの間に入り込んでくるその名前に、奏は何も言えることはなかった。

「えっ、日嗣先輩が?」

 奏の思った通りにメイは先ほどの飛び跳ねる勢いよりも強く、その名前に反応する。

「そうっすねー、手伝いはしないんすけど。 あ、もしかして、日嗣先輩のこと好きなんすか?」

 ニヤニヤ笑いを浮かべたまま、林道はメイをからかう。まるでそんなことは分かっているかのように、林道の目は変わらずに暗いままであった。

「え、べ、別にそんなんじゃないよ。 ……気になってるだけで、その」

「なぁ、林道。 この花、なんて名前なんだ?」

 割り込むように、奏は林道に話しかけた。これ以上、メイの話を聞きたくなかった奏は、ひときわ目を引いていた白い花に指をさす。

「あ、奏ちゃん、これはね、エーデルワイスだよ。 でも、あれ?」

 林道よりも早く、メイが答えた。しかし、その反応は微妙なもので、メイは首をひねって唸った。

「気づいたっすか? エーデルワイスの開花時期はもう過ぎているんすよ」

 にこっと笑い、奏の隣に林道が並んだ。

 ふわりとしたその褐色の髪から、甘い香りが鼻をくすぐる。

 同じ短髪でも、その女の子らしさは断然に林道のほうが上だ。

「この温室、温かいっすからね。 遅く咲いたのでこれが最後の一本っすよ」

「へー、誰が植えたんだろうね」

 メイはただ純然たる疑問からか、小さな声でつぶやいた。

 もしかしたら、日嗣が植えたのかも、と思ったのかもしれない。

 もし、自分が植えたものがここにあったとしたら、彼女はどんな顔をするだろうか。

 どうにもそれを考えるのが怖かった奏は、林道の答えを無心で待った。

 横に並んでいるこの位置では彼女の表情は見ることができなくて、黙ったままの林道が少し怖く感じた。


 そして、幾分かの時がたって林道は口を開いた。

「あぁ、それなら柊さんっすよ」

 くつくつと意地悪い笑みを浮かべて、彼女は私へと向き直る。

 体の芯まで凍るような冷たいその瞳に、笑っているはずなのに、とてもとても悲しそうで辛そうな表情。

「つくづく薄雪さんと縁があるっすね」

なんとか顔を彼女から離したかったが、奏はまるで蛇ににらまれた蛙のようにその漆黒の瞳から視線を離すことはできなかった。

「ハルちゃん……」

 静寂なこの区間が張りつめた空気を強調させる。

 心配するように呟かれたメイの言葉に沿うように、奏も口を開いた。

「それはどういう意味だ」

 奏のその問いに答える義務はない。そう言うかのように、林道は二人に背中を向けた。それを直すためか奏が出した手も、一歩の踏込で掴み損ねてしまった。

 それに気づいたのか、やけに明るい声で、林道は笑う。

「まぁ、自分の胸と名前に聞くのがいいっすよ」

 そうして、手をひらひらさせながら、林道は温室の中へ消えていった。


 時計を見ると、もうここに入れる時間はほとんどなく、奏たち自身ももうすでに場所を移動しなくてならなかった。

 しかし、彼女の頭の中は苦悩が沸き上がった。

 名前、自分の名前を思い浮かべて、奏は心中複雑だったのだ。

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