きっとマリア様はどこにもいない

第1話

 季節は既に半分をめぐっていた。

 春から夏を経て、それから秋へと姿を変え、そして冬は近づいていた。

 窓から吹き込む風は涼しく、机を挟んで向かい合うように座っている二人の間を通り抜ける。


「好きってね、どんな気持ちなんだろうね?」


 目の前にいる空澄そらすみメイがふと呟いたその言葉。それは薄雪奏うすゆきかなでの頭の中を反芻していた。


 『好き』、その感情はいったい何なのだろうか。例えば、粘膜面を擦りつけあうことによって生まれる快楽のための感情、人間に組み込まれた、子孫を残すための本能そんなものでいいのだろうか。

 快楽を得るための感情ならば、別に男女である必要はない。女性同士でも男性同士でも一人でも可能だ。そもそも、セックスなんて何のために行うものなのだ。

 もし、自分自身が同性同士でしたいかって聞かれたなら、首を横に振るだろうけども――――多分。

 奏はそっと、自分の考えに推量の語を付け足す。その視線は、真っ直ぐにメイを捉えていた。


 奏はいまだ恋をしたことなかった。


 多くの人たちはそれを直感的だとか運命的なものだと言うけれども、彼女にはそれを信じられなかった。恋や愛はきっと綺麗で、甘くて、美しい、人間だけの感情だと、彼女はそう信じたいのだ。

 だから、物鬱げに恋とはいったい何なのか、と呟いたメイに上手く答えることができなかった。恋を知らぬ者に、いかに恋が語れよう。奏は口を噤んだまま、儚げに呟く彼女を見つめるだけだった。


 窓から差し込む光のせいか、彼女はわずかに発光しているように見えた。もし、人が恋をすれば光る生き物だったなら、こんなに難しいことじゃないのに。

 奏はため息をつく。もし想像通り、人間が恋愛で光る生き物ならば、自らが彼女に抱いている感情も明白にわかるはずなのに。

 奏はとくとくと脈打つ心臓を手で押さえる。だから、これは勘違いだ。そう自分に言い聞かせる。ただ、女の子らしいメイのようになりたいという、自分の憧れがそうさせるのだ。恋なんかじゃない。女の子が女の子を好きになるなんてきっと、きっと間違っている。生産性のない行動はただの自己満足で、それはヒトという種族においては間違っている。


 空澄メイ。高校生になっても幼さが残る彼女の顔立ちは、その純真さをより強調させる。

 自らもメイのような心でいられたらな、と奏は自分を呪う。ドロリと頭の奥隅に溜まっている腐った液体が、脳漿へ流れ出す。そんなイメージが彼女の心を弱気にさせる。

 細くて白い、硝子細工のように簡単に壊れそうな腕で頬杖をついているメイ。開け放った窓の外を見つめているその大きな黒色の眼。その眼はまるで世界の中心を覗いているようで、曇り一つない彼女の眼差しに、奏は強く惹きつけられた。

 メイと同じ方向を見れば、世界の中心を覗くことができるだろうか。そう思った奏は窓の外を見てみるが、そこにはただ、校舎裏の平凡な空しかなかった。


 時計の長針が半円を描く。時折、ゆるやかな風は二人の間を潜り抜け、どこか遠くの空へと駆けていく。いつのまにかオレンジになった空に、飛行機雲が出来ていた。

 メイが外を見続けるように、奏はメイを見つめていた。長い睫や、柔らかそうな頬にその手を伸ばし、触れたかった。許されるなら、奏はきっとそうするだろう。なぜなら、自身の思い描く理想の女の子が目の前にいるのだから。

 薄雪奏という女の子は、美少女と呼ぶよりも美少年と呼ばれる方がしっくりくる女の子だ。そのためか、女子校であると言うのに、学内の子からしょっちゅう告白されるのだ。そのせいで、この学校でも嫌な目にあっている。

 奏にとっては自分の顔は多大なるコンプレックスだった。奏は心から願う。もし、許されるなら、少女漫画のヒロインに――目の前の彼女のような女の子に生まれ変わりたいと。


「メイ、窓の外になにかあるの?」

 奏は、虚空に目を馳せている彼女に声をかけた。

「うーんとね、日嗣先輩がいるよ」

「……げ、あの人か。 私、苦手なんだよなー」

 ある記憶。春、学校に入ったばっかりのころのその記憶が、奏の脳内に流れ出す。

 空へ向けていた視線を地に落とすと、そこには肩まで伸びた黒髪の女性から煙があがっていた。いくら校舎裏で誰もいないとは言え、学内で煙草を吸うのはどうなのだろうか、奏はメイに聞こえないようにため息をついた。

 奏はもう一度、メイの様子を観察する。緩く歪んだ口元に、煌めいた瞳。やはり少し上気している頬に、メイの先輩を見る姿はまるで恋する乙女のようだった。

「日嗣先輩かっこいいのになー」

「大人びているって感じだね。 煙草……吸っているし」

 奏の言葉に対し、そう呟くメイ。奏は心の中で何かがざわつくのを感じた。

 カッコいいだけなら、自分のこともそう見てくれてもいいのにな、と奏は少しムッとなる。

 あのね、メイ。私、あの人と話したことも、頬にキスされたこともあるんだよ?なんて言葉を彼女はぐっと飲み込む。

 ただの――、ただの嫉妬心からくるものだろうか。奏が憧れたメイの憧れの人。どこにも通じていない三角関係。奏の中の胸のざわつきはもう止められない。


「あの場所ね、日嗣先輩のお気に入りみたい」

「へー、いつもいるんだ」

「この窓際の席からだけね、あそこの様子がよく見えるんだ。 授業中でも放課後でも先輩はあのハナズオウの木の下にいるんだよ」


 それだけ彼女がいつも見ているということだろう。奏はそのことを面白くないと思ったが、彼女のことを話すメイの姿はとても可憐で、楽しげで、心中複雑だった。


「ハナズオウの木、ね。 なんか思い出しちゃうね」


 入学式の日、奏はあの木の下でメイと出会った。いや、見つけた、もしくは目を奪われたと言うべきか。

 木漏れ日を浴び、桜の花びらに紛れながら、あの木を見つめる彼女の姿を奏は本気で春の妖精だと信じていた。だから、メイと初めて言葉を交わした日のことを彼女はとても印象深く覚えている。


「先輩ってそんなにいい人なのかな?」

「きっといい人だよ。 でも、いつもどこか悲しそうに空を見上げているんだよね」

 なんとなく投げかけたその質問も、メイは熱い視線を校舎裏に送りながら答える。

「あー、憧れちゃうな。 なんだか、大人の女性って感じなんだよね」


 そう言いながら、メイは胸をさすった。奏の視線も自然とそちらの方向へと自然と向いてしまう。意識せず、奏はゴクリと生唾を飲む。

 体型からして幼さを保つ彼女の胸は絶壁と言っていいほど山がなかった。華奢な肩や、細い腕に、メイはまるでお人形のようなかわいらしさをもつのだ。そんな彼女が、自身の外見がコンプレックスのように捉えているのは明白だった。

 その仕草に見られていることに、気づいたメイの顔が発火したみたいに真っ赤になる。


「そそそういう意味じゃなくて、雰囲気とか!」

 焦るメイの姿に、奏は思わず吹き出してしまった。なんて可愛いのだろうか。赤らめた顔のまま、慌てて開け閉めするメイの唇に、奏は思わずキスしてみたくなる衝動にかられた。

 そんなことを考えてしまう自分にゾッと恐怖し、背徳感が胸を一杯にした。その胸中を誤魔化すように、大きく口をあけて言う。

「大丈夫だよ、あたしもあんなボンキュッボンになりたいから」


 奏がそう笑いながら言うと、メイはうーっと唸りながら、赤い顔を伏せた。赤くなった顔は見えなくなったが、代わりに耳がその紅潮具合を強調した。

「うう、酷いよ奏ちゃん。 奏ちゃんは手足も長くてすらっとしているのに……」

「ごめんて、メイがあんまりに可愛いから、ついね」

 本当に、彼女は可愛かった。同性の奏からも見てもそう思う。中性的な奏から見てこそそう思わざる負えなかった。

 メイへのときめきは奏の胸の中でぐるぐると渦巻く。もし、女の子同士でも好きであれば関係ないのではないかと思うほどに。


 だけれども、きっとメイに恋しても叶わない。奏は遠い昔のことを思い出しながら感じた。


 好きな男子の好きな女子が、奏のことを好きだと言った。子供のころの記憶は、奏にとってとても苦い。

 奏は鞄を持って席を立つ。いつからか夕日に染まった空を背景に、彼女はメイに手を差し出す。

「もうそろそろ帰ろ?」

 きっと電車も空いている。学校近くに駅が一つしかないせいか、下校時間の電車は東京のラッシュアワーのようだ。乗車率なんて軽く百パーセントを超えるだろう。

 奏はあまり部活動が活発ではないこの学校を恨む。その反面、こうやって、空くまでの待ち時間をメイと過ごせることは、大きなメリットだろう。奏はこうやって親睦を深めることができるのがとても嬉しく思った。


 いつまでも、この時が続けばいい。関係性も気持ちも何も変わらずに、ずっと、いつまでも……。

 奏はそう、心の底から願うのだった。

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