[1-1]檻の中の『あの子』
診療所の朝は早い。この
多忙な上に引きこもりがちな名医こと父の代わりに買い出しへ行くのは、アサギの役割だった。それでも普段は、この辺にまで足を伸ばすことはないのだけれど。
自宅兼診療所のあるティーヤ地区と周辺は基本的に小綺麗で、治安も悪くない。少なくとも、日中に繁華街を一人で歩いて襲われることはまずない。しかし、アサギが向かう先には大きめの川があり、その向こう側にはスラム地区が広がっている。
川向こうに立ち入ることは禁止されていて、アサギのような自衛力のない者は近づくことも禁止されていた。
なぜ朝からこんな場所まで来る羽目になったかといえば、昨日、診療所へ納品にきた業者のせいだった。頼んだ品物と届いた品物が違っていたという、初歩的なミスだ。
「だからさー、
「そうなんだけど、それを話しに行って戻って待つくらいなら、取りに行ったほうが早いよねって話だよ」
「アサギは人がいいんだからさ」
「そう言いつつつき合ってくれるスイだって、お人好しだよね」
隣を歩く親友とやり取りを交わしながら、アサギはずしりと重い袋を抱え直す。それほど重量のあるものではないが、非力な自分には結構な重労働なのだ。
隣の親友はそれをちらりと見、無造作に手を伸ばして袋をひょいと取りあげた。
「持ってやるよ」
「え、悪いよ」
「いいんだって。それより買い物、まだあるんだろ?」
屈託なく笑う親友の
同性の自分から見ても格好いいと思える彼の名は、ティスレイト。幻獣グリフォンに姿を変えることのできる、
彼に比べて、とアサギは思う。自分は小柄で
まあ、でも、無いものねだりをしても仕方がない。
親切な親友の好意に甘え、必要なものをさくっと買って早々にこの地区からおさらばしよう、と考える。
「ありがとう、スイ。じゃ、向こうの魔道具店で魔石をいくつか――……」
言葉を最後まで言いきれずに、アサギは目を向けた店の軒先に視線を奪われた。
疑問に思ったのだろうスイが、不思議そうに深紅の目を瞬かせて覗き込んでくる。
「ん、どうしたんだ? アサギ」
「……スイ、大変だよ。あそこに、あの子を見つけた」
「え、あの子?」
だれ、と問いたげなスイに、しかしアサギは答えられなかった。頭の奥で、何かがわんわんと響いている。耳鳴りのような頭痛のような違和感に、ぐらぐらと視界も揺れているような気がした。
店の入り口付近、安物の
困惑したように自分を呼ぶスイの声を背中に聞きつつも、なぜか足を止めることができない。
「おい、アサギ! 大丈夫かよ!?」
不意に耳許で叫ばれたスイの声に、びくりと肩が跳ねる。その声に驚いたのはアサギだけではなかったようで、檻の中の獣が顔を上げてこちらを見た。
狼科っぽい細い鼻面と、アーモンド型の青い瞳。ふぁさ、と軽い音がして、獣の身体から鳥のような翼が持ちあがる。
青く滑らかな獣毛に覆われたその獣は、狼などではあり得なかった。
「あ、――見つけた、ようやく君を守ってやれる。遅くなってごめんな、ロウル」
「……は? ロウルって誰なんだよ、アサギおまえ大丈夫か――……」
誰なんだろう、ロウルって。
自分でもわからないままアサギは、口が勝手に紡ぐ声を聞く。
青い獣はアサギとスイのやり取りを
『……ぼくを、呼んだ?』
「え、えぇぇえ!? 今あいつ喋ったぜ!」
「ちょっと、スイ、声が大きいっ」
アサギもびっくりしたが、それよりも、親友の大声で我に返った。親友の口を軽く叩いて黙らせ、急いで檻へと駆け寄る。
青くて鳥系の翼がある狼っぽい獣なら、風精霊である可能性が高い。
店主に見つからないうちに檻を開けて、もし枷をつけられているなら何とか壊して、逃してやらねばならない。
幸いにも檻は普通の金属製で、鍵もごく一般的な小型の錠前だった。アサギに鍵開けの
「待ってて、すぐに助けてやるからな、ロウル!」
ガツンと鈍い音を立てて檻が開く。自分の口を通して喋る誰かの意志を感じながら、檻に手を差し入れて獣を引っ張りだした。
奇妙な魔法文字のような模様が刻まれた首輪を付けられているが、鎖やそれに類する拘束はされていない。ほっと
『……だれ? ぼくを、知ってるの?』
「……僕、は――……」
――俺は、ずっと君を捜していたんだ。
「アサギ! 店主来たから早く逃げるぜ!?」
「え、えぇあぁ!? うん、逃げよう!」
自分の中の得体のしれないだれかに意識を引きずられる。でも、ここで捕まってしまうとあとが面倒くさいし、何よりこの精霊が危ない。
精霊は魔法的な存在だから、見た目が大きくても重さはない。だから、非力な自分でも問題なく運べるはず――だったのだ、が。
「……重ッ!?」
抱えたまま立ちあがろうとして、腰が砕けた。見た目どおりほどではないが、重さが……質量がある。非力なアサギでは抱きあげられないほどしっかりとした、生身の存在感。
身
アーモンド型の目をきゅっとつりあげ、少しばかり怒ったような気配を漂わせて、獣が言った。
『助けてくれたのは、感謝する。でも別に、運んでなんて頼んでない』
「……あ、えっと、ごめんなさい」
「アサギ早くしろって! そいつ歩けないんだったらオレが運んで――」
『歩けるから』
子供のような高めのトーンだが、口調は淡白で大人びている。スイの申し出に強くかぶせて黙らせると、獣は背の翼をふわりと広げた。キラキラと淡く光る魔力の破片が周囲を取り巻き、その姿を変容させてゆく。
わずかの間に青い獣は、薄藍の髪と翼を持つ少女へと姿を変えていた。
「……へ、
「――違う、ロウルは、」
「詳しい話はあとでするから。今は、逃げるんだよね」
吹き抜ける風を思わせる声で少年二人の言葉を止め、少女は――ロウルはふんわりと微笑む。
「ぼくも、あなたがなぜぼくを知っているのか、聞きたい。一緒に、連れていって」
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