【7】
「これ……どうぞ」
突然出されたティーポットに、池永さんはとろんとしていた目をきょとんとさせた。私は気付かないふりをした。
「マスカットティーです。香りがとてもさわやかで、気分がすっとするんです。私からのサービスです」
「……ありがとう」
池永さんはおぼつかない手つきで紅茶を注ぎ、顔を近づけて香りを嗅いだ。そして、一瞬目をきりっとさせた。
「どうですか」
「確かに、爽やかだ」
そのあと彼は、一杯目を一気に飲み干した。嬉しい飲み方ではないけど、飲んでもらえたことが嬉しかった。
「温まって、落ち着いて、紅茶ってちょっとした魔法なんですよ」
「魔法……」
我ながら恥ずかしいことを言ったと思ったが、池永さんは真面目に受け取ってくれたようだ。隣で父は含み笑いをしているが。
そのあと二杯目はゆっくりと飲み、少し残った三杯目を更にゆっくりと飲んで、池永さんは立ち上がった。
「ご迷惑おかけしました」
「いや、全然。いつでも飲みに来てよ」
「ありがとうございます」
会計を済ませた後、池永さんは思い出したように振り返った。私の顔を見ている。
「紅茶もおいしかった」
ふらふらとした足取りで、店を出ていく彼。そして、私の脇をつつく父。
「なに」
「粋なことするなぁ」
「お客さんに対する先行投資です」
「つーか、彼、紅茶飲んだことなかったのか」
「いつもコーヒー」
「あの不味いのを?」
そう、あの不味いのを。彼は本当に、あれのことを美味しいと思っているのだ。
そういえば、池永さんに次に会った時、言おうと思っていたことを言えなかった。「今度、将棋を教えてください」とてもそんなことを聞ける雰囲気ではなかった。そして一つ、後悔もしていた。
こういう時は、ジンジャーティーの方がよかったな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます