In The Cage
にゃご
第1話
雨上がりの空気は透明に澄んでいる。比喩ではない。水滴が空気中の細かな汚れを吸着して落ちるから、実際、雨上がりの空気は普段よりも格段に透明なのだ。透明な空気の中、光の粒子がいつもよりも元気よく跳ね回っている。粒子の話をすると皆一様に怪訝な顔をすることに気づいてから、深澤はその話をするのをやめたが、今もちゃんと見えている。透明な中を、はしゃいだ子供のように跳ね回る光の粒子。一つ一つはとても小さい。その小さな粒子が、あるものはもみくちゃに跳ね回り、あるものは重力の糸に惹かれてゆっくりと落下し、自由気ままに動き回るのだ。ランダムなその動きが面白くて、一度眺め出すと目が離せない。
「深澤さん、昼」
作業着姿の松尾が不意に、視界を遮った。光を遮る体が行き過ぎる一瞬、踊り回っていた粒子が消える。昼。松尾の“昼”は、昼飯のことを言っているのだ。昼飯を食べに行こうと誘われている。これも、ここ数日のルーティーンだ。深澤は足元に置いた補修用のモルタルの缶をひっさげて、松尾の後を追った。
「……お疲れ様です」
地上三階の足場から地面に降りると、ビルの逆サイドの補修を進めていた沖田は先に一区切りつけていたようで、防塵マスクと頭に被ったタオルを外した根暗な男は、光の粒子とは対極にある、暗く淀んだ目でこちらを向いていた。
「お疲れ」
松尾は声に出して言い、沖田に負けず劣らず根暗な深澤は、軽く会釈をして彼に応じた。そうしておいて、乗ってきた車にモルタルやら何やらの道具を積み込み、三人で連れ立って飯屋に向かう。
「……玄関から普通に入るのが良さそうです。あの鍵なら、10秒あれば開きますよ」
おもむろに、沖田が口を開いた。ふうんと松尾が応じる。
「動作感知式の明かりは」
「普通にスイッチで消せますよ。場所確認したんで、昼間のうちに止めときます」
「金庫はどうだよ、深澤さん」
「どうって?」
ひょいとこちらを向いた松尾に問い返すと、松尾の向こうから、沖田がどんよりと暗い目をこちらに向けた。
「開けるのにどのくらい時間かかります?」
「20分」
ごく普通の古いダイヤル式金庫だ。指先の感覚に意識を集中して、一つ一つ数字を合わせてやれば良い。噛み合うと、かちりと僅かな振動が指先に伝わる。あの震えが好きなのだと、深澤は思う。あの隠微な震えは、光の粒子を見たときと同じような心地よい感動を胸に生む。自身の指先の毛細血管を流れる血潮の振動すら邪魔になるほどの、微かな震え。息を詰めて、目を閉じて。薄い手袋越しの振動を追う、あの瞬間。急いた松尾の浅い息と、犯罪のスリルのもとでだけ輝く沖田の目と。それぞれがそれぞれに興奮している。静かな興奮の中にいる。深沢自身も例外ではない。毎日、毎日、毎日。ギア1のままヴーンと低音を唸らせている脳が、その時だけは、キーンと耳鳴りのような音を響かせて、フルスロットルで回転する。普段は煩わしい外部の雑音が、内部の唸りに掻き消される。
「……法律相談所の金庫って、幾らくらい入ってるもんなんすかね」
ここ数日通い通しの蕎麦屋の看板をちらりと見やって、沖田は僅かに砕けた口調で言い、松尾はさァと応じながら暖簾をくぐり、立て付けの悪い古びた引き戸をガラガラと開けた。店内に片足を踏み込んだとき、いらっしゃいませと言う枯れた親父の声を聞きながら深澤は、大した額は入っていないだろうと胸の内に独りごちた。今時報酬は振り込みが普通だろうし、額が大きくなれば余計にそうだ。小売業ですら日々の売り上げは通帳に振り込む時代、夜中、無人の事務所に残される現金などたかが知れている。
昼時にもかかわらず店内に人影はなく、寂れた店の寂れた店主は暖かなおしぼりを差し出しながら、いつもありがとうございますと言い、下びた笑みを浮かべた。
「深沢さんは盛り蕎麦だろ」
差し出されたおしぼりを受け取った松尾はメニューも見ずに言い、自分はカツ丼を頼み、沖田は天ざると聞き取りにくい声で言った。座ってしまえば話すことなど何もなく、後は昼飯が届くまで、店の隅でじりじりと焼けるような音を発する骨董品のブラウン管テレビのざらついた画面を無為に眺めるだけだった。
『……景気は右肩下がりで……』
上半期の決算期だ。景気は悪い。ニュースを読む彼らが想像する以上に、この国の底辺は泥沼だ。ここですらまだ、底辺ではない。
金などたいして入っていない。ここにいる全員、それを知っている。だから、金が欲しくて盗みに入るわけではない。ただ、スリルが欲しい。薄ぼけたリアルを吹き飛ばすような興奮が欲しい。それだけなのだ。
今夜、現場の隣の法律相談所に忍び込む。先ほど沖田が作業していた壁側に隣接する建物だ。今の現場に入った初日の夕方、作業を終えて車に乗り込んだ時、隣のビルからスーツ姿の男が出てきて車の前を横切った。20代半ばと見えるその男は、携帯を耳にあてて何やら楽しげに会話をしていて、彼が過ぎるのを暗闇で待つ、淀みを乗せたハイエースには一切気がつかなかった。男が行き過ぎたのを確認し、ハンドルを握った沖田がゆっくりとアクセルを踏み込む。車が動き出しても松尾の目は未だ男を追っており、じっとりと一人を見据えるその目はどこか濁って、腐っていた。男が道を一本曲がり込み、その姿が完全に視界から消えると、松尾はがたりと音を立てて、硬い背もたれに身体を預け、機嫌良く言った。あの若いの、スーツ、オーダーメイドだぜ。そうして松尾は、片頬を歪めて笑った。一瞬間をおいて、稼いでるんですかねと沖田が言う。この言葉のやりとりに意味がないことを深澤は知っていた。知っていたから、金庫はあるかなと呟いた。松尾のこの顔が合図だった。歪んだ笑み。スリルと興奮のスターター。じりりと体の芯がしびれる。エンジンのうなりが半音上がる。沖田がアクセルを踏み込んだのだ。多分、無意識に。
テレビを見ていた松尾が不意に、満面の笑みで振り返った。
「不景気だってさ」
「でしょうね」
つまらなそうに沖田が応じ、やり取りの意味が分からない深澤は口を閉じていた。後ろ暗いばかりで中身のない男三人、寄せ集まったところで話す事があるでもなく、盗みの話をする時以外、ありとあらゆる言葉は記号にすらなりきらない無意味綴りだった。今更続かない会話に気落ちするような情緒も持ち合わせておらず、瞬間、松尾の表情がすとんと抜け落ちたのはだから、それこそが、薄っぺらな笑みの仮面の下の素顔だったことの証でしかなかった。
「……面白ぇ事がしたいんだよ、俺はさ」
のっぺりとした無表情で、分かるだろと松尾が言い、それには二人共深々と頷いた。面白い事がしたい。頭のギアがぶっ飛ぶような、面白いこと。
無為な時間を消費するこの一瞬一瞬が牢獄だった。この息苦しさから解放される術を、誰も教えてはくれなかった。誰も。誰一人として。だから、ここにいる。ここにはほんの一瞬、牢獄から逃れることのできるエンジンがある。ブースターがある。金庫を開けた瞬間の、あの爽快感。なんだよ、これっぽっちかよと毒づく松尾の、酷く愉快そうな声音。その隣で、ヒャホウと叫んでアクセルをベタ踏みする沖田の、度を越したはしゃぎ様。脳の中で回転するモーターが、キーンと甲高い音を立てる。
その時、確かにそこは檻の外だった。その瞬間、人通りのない薄暗がりのそこここに、自由は確かに息づいていた。
In The Cage にゃご @Nyago2
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