小説 新型コロナ肺炎

ヤギサンダヨ

第1話 ホットライン

 ヤベノミクスと呼ばれた株式の上昇相場は、年末になってやや勢いを失いかけていた。そのきっかけが10月に導入された2パーセントの消費増税によることは明らかだったが、政府としてはそれを認めるわけにはいかない。何か他の理由をつけなければ、首相のみならず、民自党そのものの支持率すら危うくなる。民自の他の議員も、口にこそ出さなかったが、消費増税がやはり大きな誤算だったと悟り始めた。そもそも増税については、若手議員や明公党からは反対の声があったのだが、それを無理に押し進めるよう導いたのは前首相の財務大臣だった。「いずれにせよ、判断の責任は自分にある」と、矢部首相は官邸のリビングのソファーで愛犬を抱きながら呟いた。以来毎日のように、「何か策を練らねば・・・。」と真剣に考えるようになった。

 ちょうど同じころ、似たような課題に直面していたのがアメリカのスランプ大統領だった。幸い米国株式市場では、年末になってもその勢いは衰えず、ダウ平均もナスダックも上昇を続けていた。ただ、彼にしてみれば、株が上がればあがるほど不安が増すばかりなのだ。というのも、就任して以来ほぼ右肩上がりで今日まで株価を吊り上げてきたものの、これがバブル相場であることは誰の目にも明からで、多くの投資家がまもなく大暴落することを予想していたのだ。来年は大統領選を迎えるというのに、ここで大暴落されては影響が大き過ぎる。しかし、政府による株の買い支えも、金融緩和策ももう限界だった。ちょっとしたきっかけがあればリーマンショックなみの大暴落になることは間違いない。そのきっかけが何なのか。EUの崩壊か、ドイツ銀行の破綻か、原油の暴落か。いずれにせよ今度の株価大幅下落が、空前の大不況を引き起こすことは確実で、そうなればリーダーたる大統領の舵取りが批判の矛先になることは明らかだ。何とか国民の目を逸らさねばならない。「何か策を練らねば・・・。」

 もちろん、両国とも無策というわけではなかった。いくつかの取りうる方法については、二人とも複数のシュミレーションを報告するよう側近たちに命じていた。その中には、日米が協調して行うべき案件もいくつか存在していた。ただ、この窮地を乗り越えるためには、どれも効果が期待できそうにない。

 「所詮、役人たちが考えるようなことは、平凡で通り一遍のアイデアばかりか・・・」両国の首脳は、このような落胆においても、「完全に一致した」のだった。そして矢部首相はあくびをしただけだったが、スランプ大統領は次のように考えた。

 「少なくとも国民の目を他へ向けさせるしかない。これは政治の常套手段でもあるし、今までの大統領もそれを踏襲してきたではないか。対日赤字を不景気の要因だと国民たちに刷り込み、ジャップだのエコノミックアニマルだのという言葉を、マスコミに連呼させた時代もあった。もっとも現在の我々の脅威は、堕落しきった日本ではない。国際的な情報網が発達し、まもなく5G社会を迎えようとする今、我々の敵は中国だ。この点においては、多くの国民の支持も得ている。カナダでHuameiの副社長を拘留したときも、グルグルをその製品に搭載させなかった時も、我が国では誰も文句をいう者はいなかったではないか。いやむしろ、通信技術の進歩という意味では、中国は我が国を凌駕しかねない勢いになっている。Huameiの締め出しに成功したところで、Uppo だのXiumiだのと次々と優秀な技術を持つ新興メーカーが現れ、ヨーロッパやアジアの市場を席巻しているのだ。手ぬるいやり方では、かつてGNがトヨパに食われたのと同じ結果になってしまう。そうだ、国民の目をそらすには中国しかない。実際に中国経済の息の根を止めておくことは重要なことなのだ。多くの歴史がそうであったように、閉塞状況を打開できるものは、戦争以外にはないわけだが、いよいよ中国と・・・。」

 ここまで考えたところでちょっと頭を冷やすことも必要かと考え、秘書にコーヒーを持ってくるよう内線電話で命じた。

 5分ほどして、入れたてのコーヒーの香ばしい香りが、執務室に満ちた。テーブルに置かれたのはもちろん、「アメリカン」だ。

 「そうだ。アメリカファーストだ。この際、一石二鳥と行こう。中国の息の根を止めると同時に、国民の目をそちらに逸らす。やはり、戦争しかない。」

 執務室に置かれた電話機は、同盟国とのホットライン回線も兼ねていた。大統領は電話機の液晶表示で相手側の時刻を確認すると、JPNと示されたボタンを押した。

 「チンゾー、朝早くすまないな。実は相談がある。これから『洞窟のコウモリ作戦』の実行について、部下たちと会議を開くつもりだ。」

 ホットラインには自動翻訳機が搭載されているため、大統領のこの単刀直入な提案が、日本の首相にそのままダイレクトに伝えられた。

 「何ですって、あの作戦を実行ということは、いよいよ戦争に踏み切るということですか。しかしながら・・・。我が国には諸刃の剣という言葉があります。相手を切ることができても、自分も傷つく可能性が大きいという意味ですが、あの作戦がまさに諸刃の剣であることはご承知の上で、ですか?」

 「もちろん、承知の上だ。ただ、β案で行く。」

 「β案・・・といいますと?」

 「細かなことは貴国の防衛大臣に渡してある機密資料を見ていただきたいのだが、我々は中国国民を殺戮しようとは考えていない。叩くのはあくまでも経済だ。したがってα案を用いる必然性はない。それに、君が懸念するとおり、1日に何十便もの旅客機が米中の間を飛んでいる現代では、中国のダメージは少なからず我が国にも飛び火する。したがって『洞窟のコウモリ作戦』をα案のままで実行に移すことは、極めて現実的ではない。だが、βならば、安全かつ確実にかの国を混乱に陥れることはできる。一時的に中国の経済活動を停止させて、その間に5Gの覇権を奪うのだ。そしてこの経済衰退にともなって各国の株価も下落する。」

 「なるほど、今起ころうとしている経済破綻を中国に押しつけて国民の目を逸らす、ということですね。」

 「そこで必要なのが日本の協力なんだがね。」

 「大統領は我々がNOと言えない民族であることを知っていてそのようにおっしゃるのでしょうか」

 「私は君と冗談を言い合うために電話したのではないよ。君にとっても悪い話じゃないと思うのだがね。昨日も日銀がだいぶ買い支えたようだが、それでも日経平均は下がる一方だ。違うかね?君はこの責任をどうとるつもりなんだね?いつ大暴落が起きるか分からん状態なんだぞ。」

 「ですから、NOとは言ってませんよ。具体的に何をどう協力すればよいのです?」

 「細かなことは両国の部下たちに任せるつもりだが、私から君に頼むのは一点だけだ。はっきり言おう。散布をお願いしたい。ウィルスの搬送までは我が国が責任を持って行う。貴国の大使館までだ。その先は我が国の諜報員では無理だ。」

 「確かに。髪の色も肌の色も違いますからね。それに、我が国には中国で育った工作員もたくさんいます。ただ、彼らの命を軽くは考えておりません。」

 「だから、β案なはばその心配も皆無だ。万が一のミスで工作員が感染したとしても、死に至ることはないんだからな。」

 「分かりました。β案の詳細を至急確認し、明日までにお答えしましょう。」

 「まあ、いいだろう。君がNOと言えないことは分かっている。いいか、これは、戦争なんだよ。」



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