優しい人
やっぱり高校生だった、と思う。私たちはあの頃、二百四十円のファミレスのドリンクバーで狭いテーブルを貸切り、怒鳴るように、夢を理想を語っていた。
「人ってね、話し合えばわかるものだよ。」
それが彼女の口癖だった。
「わかりあえない人なんて、いないの。だって人間だもん。みんな、優しさを持ち合わせているんだよ、本来。歳をとるについて、忘れちゃう人が多いだけで。だから私は、みんなにそれを思い出してほしいの。思い出させたいの。そうすれば、世界はもっと優しくなるよ、絶対。」
彼女は早口でまくしたて、コーヒーを啜る。甘いことを言うわりに彼女のホットコーヒーはブラックで、食べ物の好みは漫画のようにいかないなぁ、と思ったことをよく覚えている。
「ねえ、世界平和に必要なものって、なんだかわかる?」
頬杖をついて、彼女は悪戯に微笑んだ。私は首を横に振った。
「愛だよ。愛しかないよ。必要なのは愛だけ。平等に、愛すること。すべてを等しく愛すること。ねえ、だと思わない?」
私は曖昧に頷いた。彼女の瞳と唇は熱っぽく潤んでいた。夢を見るって、理想をかかげるって、つまりはこういうことなのかもしれない。夢を見れなかった自分が少し悔しい、そう思ってはみるけれど、結局はそれこそが誇りなのだ、嫌な奴。
そんな彼女が恋をした。彼女は恋愛には奥手で、だいたいにおいてクラスではとても静かだったので男子との接点がろくになく、まあ言ってしまえば、初恋だった。
相手は、同じクラスのバレー部の男子。冗談を言って、クラスを沸かせるのが得意な奴だ。私には寧ろ、みんなを笑わすために学校に来てるんじゃないかと思えるくらいだった。
私だったら多分あいつには恋しない。おどけてはいるけれど、あいつの芯は、なんだか脆い気がする。たまに見せる媚びたような笑みが、そのことを如実にあらわしているじゃないか。
「どうしてあいつのことがいいの?」
いつものファミレス、喧騒の中で、私はたずねてみた。
「えー、うーん、難しいこときくなぁ」
彼女ははにかんだ。唇を噛んで、少し考え込んだあと、うん、と一人で頷き納得し、彼女は話し始めた。
「ほら、あの子ってなんだか、いつも楽しくしてるでしょ。でも、だからさ、だからこそ、人の痛みがわかるんだよ、きっと。」
ひっかかった。彼が大声で人をネタにして、まわりを笑わせていることを知らないのか。
「どうして?」
「どうして、って?」
「どうしてあいつが人の痛みわかると思うの?」
「ええっ」
彼女は笑った。そして窓の外を見つめた。等間隔で、車が行きかっている。空は青い、けれど少しだけ夕方の匂いがする。日は毎日暮れるんだ。なんだか不思議なことだけど。
「なんとなく、だよ。いつも笑ってるから、きっと、心には傷があるんだよ。だいたい、ほら、小説とか漫画とかってそうじゃない? 笑顔の裏の傷。その傷を癒せたらいいな、なんて思って。」
なんて彼に失礼な恋だろう。
言葉が見付からなかったので、私は彼女の飲み物を見つめた。やっぱりホットコーヒーだった。カップは無地の白。でも、ところどころ茶色くくすんでいた。もう少し、ましなのがなかったのか。私なら多分、このカップは選ばない。
彼女は、自分の恋愛は特別だと思い込んでいるようだった。
「よく、なんていうのかな……体目的とかで、恋愛する人とかいるでしょ? ああいうの、信じられないなぁ。なんだか、汚れてる感じがする。恋愛って、そういうののためにするものなのかなぁ。」
彼女は唇をとがらせて、首をかしげる。
「私は、彼にそんなの求めない。何も求めないよ。私はただ、愛するの。私が求めるとしたら、愛だけだよ。愛で世界は結びついているんだから。」
すっかり陶酔した彼女は、やっぱり傲慢だった。
夕暮れが黒く染まるころ、私たちは別れた。道路沿いの道を歩きながら私は、恋人に電話をかけた。
「ねえ、今日そっち行っていい?」
私の声は、友人と話すときとは違う。甘ったるく、女らしくなっている。
「どうした? いきなり。」
電話の向こうで、彼は笑う。実際の声と電話越しの声って雰囲気違うのはなんでだろう。
「ううん、別にどうもしないんだけど、友達と話してたら、なんだか会いたくなっちゃった。」
「いいよ。今から?」
「うん。」
「じゃあ片付けてるから。気をつけて」
そして電話を切った。
汚れてる、か。確かにそうかもしれない。そう思いながら、薄い暗闇の中、急ぎ足で彼の家に向かった。
彼女がクラスメイトに恋をしてから、半月ほど経った。相変わらず私たちは、毎日のようにファミレスで話をしている。どうしてなのか、これは何回か自問したけれど、惰性だとしか言いようがない。彼女がどう思っているかは知らないけれど。
私は日々を漫然と過ごしていた。あの日からだ。恋人の、恋人だった彼の家に行った日から、現実の景色は遠くのものとなった。
「私と彼なら、きっと真実の愛を見つけることができると思うのよ。」
彼女の手元には、相変わらずのホットコーヒー。もしかしたら、中毒なのだろうか。コーヒーに含まれるカフェインにも中毒性がある、と聞いたことがある。それを教えてくれたのはおそらく恋人だったはず。
「世の中の人たちって付き合ってすぐに別れちゃったりするでしょ? あれは多分、真実の愛を見つけられなかったからだと思うの。優しさが足りなかったのかな。みんながみんなに優しくすることって、やっぱり大事だよね。」
私はグレープジュースを口に流し込んだ。ぼんやりとした酸味が広がる。飲み物の好み子供っぽいんだね、とからかったのは誰だっけ。恋人だったかもしれない。
「うん、やっぱりそうだよ。優しくすること。それが大事。だってみんな平等だから。」
話のネタが尽きたのか、彼女は何か言葉を続けようと考え込んでいるようだったが、諦めてホットコーヒーを飲み込んだ。いつ見ても上品な飲み方だ。躾がなっているのだろう。
そして話題を思いついたらしかった。
「でもさ、やっぱり平和に大事なのって愛だよね。私今回あの人に恋してはっきりわかったもん。愛だよ。愛しかないよ。愛こそすべて、って歌った人だっているでしょ? そういうことだよね、つまりは。」
満足しきった顔でコーヒーを飲む彼女の背後には、ぎゃあぎゃあとうるさい中学生の集団、けたたましく笑う金髪と赤髪の男女、机を叩いて何かを早口で語る眼鏡の青年、そして幸せそうなカップル、彼女は見事に、この安っぽい喧騒に馴染んでいた。
彼女はまだ何かをまくしたてていた。でも何だかどうでもよくなってしまって、私はグレープジュースを飲み干し、ドリンクバーからりんごジュースをとってきた。手に持って歩くと、オレンジがかった黄色が揺れる。
そうだ、確かに、お前は子供だなぁと私の頭を撫でたのは、恋人だった。遊びだなんて知らなくて。馬鹿みたいだ。私みたいな青臭い高校生が、本気にされるはずがないのに。
テーブルに戻るなり、彼女は話を再開した。
「さっきの続きだけど、つまり真の平和ってね、」
「ねえ。」
私は彼女が語ろうとするのを遮った。彼女は明らかに不服そうな顔をして、「何?」とぶっきらぼうに言った。
「
「うん、そうだよ。それでさ、」
「おかしくない?」
「何が?」
彼女は訝しげに私を見ていた。私はいつも、うんうんと話を聞くだけだ。こんなに強い口調でものを言うこともない。だから戸惑うのも無理はない。
「だって赤奈、あいつに恋してんじゃん。」
「うん。それが?」
「恋愛って一種の差別だよ。」
彼女はきょとんとしていた。
「だって、もし船が溺れて、あいつと赤の他人どっちかひとりだけボートに乗せられるとしたら、あんたあいつのこと選ぶでしょ?」
喧騒がまとわりついてくる。うるさい。私のまわりを音が飛ぶ。
「それとこれとは別だよ。」
「別じゃないよ。」
「だって私が彼を愛するのは平等から出でる愛によってで、」
なんだか面倒臭くなったので、私は二百四十円を置いて席を立った。こういうところが子供っぽいと言われるのだろう。でも、今はなんだか気分が悪くて話したくない。馬鹿みたいな話は聞きたくない。
恋人は、別れるときに言った。
「もちろん、
とても残酷な台詞を吐いて、私を部屋から追い立てた。
みんな平等だなんて、ありえない。そんな世界があったとしたら、そこに恋愛は存在しないだろう。私は、容姿、性格、センス、さまざまな点で天秤にかけられた。そして、捨てられた。
それだけの話だ。
その後も彼女との付き合いは慢性的に続いたが、私は進学し、彼女は就職してしまったので、高校時代のような密接な関係はなくなった。それでも二十五になる今まで、年賀状のやりとりが続いている。
今年の年賀状には、きれいな建物と、彼女を中心とした五人の男女が写った写真と共に、このようにプリントされていた。
「『人々は皆同じ。世界は優しさに満ち溢れている——』
この度、『優しさ平等友の会』が誕生いたしました。
人々は本来、優しさをもっているものです。
興味がある方、是非一度、ご連絡を。」
そこに書いてあったホームページにアクセスすると、入会に関するあれこれが記されていた。
入会金は五千円。入会すると、ありがたい像や数珠が、特別価格で購入できるという。何百万円が何十万円に、今ならお安くなっています、といったレベルの特別価格だ。
彼女も少しは賢くなったのかもしれない、と甘ったるいジュースの味を思い返した。
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