イノウ探偵神宮寺那由多の冒険 ニュートンの林檎
白鷺雨月
第1話林檎はなぜ落ちる
とあるビルの屋上に少年はいた。
右手には赤い林檎がにぎられていた。
このビルに来る前にスーパーで買ってきたものだ。
空は青く、吹き抜ける風は心地よい。
屋上には誰もいなかった。
この世界には自分だけなのだろうか。
そう思わせるほど、この場所には人の気配というものがなかった。
フェンスを乗り越え、屋上のギリギリのところに立つ。一歩でも足を踏み外せば、地面に激突し、命はないだろう。
少年は頭を左右にふった。
いや、自分は死ぬためにここに来たのだ。
屈辱の日々から別れをつげるために。
今の状況から抜け出すのにはこれしかない。
冷静に考えればそれ以外の選択肢はあるはずであったが、蝕まれた少年の精神ではこの方法以外の考えが思い浮かばなかった。
少年は彼が通う高校でひどいいじめを受けていた。
なぜそうなったのかよく分からない。気がつけばそのような事態になり、誰にも相談できず、このようなところまできてしまった。
その日々は思い出すだけでも身の毛もよだつ毎日だった。
無限に続くかと思われた。
そこから解放するには、たった一歩足を踏み出すだけでよい。
こんなに簡単なことはない。
少年は右手にもつ林檎を手放した。
音もなく林檎は落ちていき、地面に衝突し、砕けちった。
その姿はほんのわずかな先の未来の姿だった。
少年は笑った。
高笑いとはこのことだ。
誰もいないのだ。
誰はばかることはないだろう。
笑いながら、少年はなにもない空間に飛び出した。
ニュートンは林檎が落ちるのをみて、万有引力の法則を発見した。その果物が林檎ではなくオレンジやブドウであってもニュートンはその法則を見つけ出しただろう。
偉大なる人物とはそのようなものだ。
きっかけはなんであれ、彼らはこの世の真理にいずれたどりつくのだ。
それに比べてなんと自分は愚かで惨めなことだろうか。
落下しながら、なぜ、ニュートンの物語を思い出したのか彼は分からなかった。
だが、彼は見た。
ニュートンの法則を無視して浮かぶ林檎の姿を。
その林檎は砕けちったはずなのに。
空中に浮かぶ林檎には傷がついていた。その傷はまるで人の顔のように見えた。
「君はこのまま屈辱にまみれたまま死ぬのかね」
と語りかけた。
林檎が話すなど奇妙でしかたがなかったが、死の間際であり、思考する力はそれほど残っていなかった。
「私を受け入れれば君にこのような目にあわせたものたちに復讐するに余りある力を授けよう。無論、代償はいただくがな」
林檎に刻まれ傷が広がった。
それはまるで笑っているようだった。
復讐という甘い言葉を聞き、彼はこのような異常な状態にありながら、生を渇望した。
自分が死んだところで、彼らは毛ほどの感傷も抱かないだろう。
やつらに思い知らせたい。
自分以上の屈辱をやつらに与えたい。
そうすればどれほどの快楽であるだろうか。
歪んだ欲望の種火が産まれ、一瞬にして身体中にひろまった。
「僕は生きたい‼️」
彼は叫んだ。
心の奥底からの悲痛なる叫びであった。
「よかろう。契約は交わされた。新しき王権の守護者の誕生である。君に王の力を授けよう」
と林檎は言った。
次の瞬間、少年の視界にはいったのはぐちゃぐちゃに砕かれた林檎とその横に転がる、引きちぎられた自身の左腕であった。
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