第36話
「——やはり、ここにいましたか。ジャック・ルイスリー」
脱力した体。瞳だけが動いて彼女の方を見た。不敵に笑う。ルネサンスの絵画のように倒れこむ彼を、カエサレアは見下ろした。
「もう『二度と会いたくない』と言っていたのに、まさか、ここで再会するとは。君は不幸だね、カエサレア」
ジャックは彼女の周囲を見渡すが、ランクトンの姿はそこにない。どうやら彼の予想どおり、エレベーター前で別れたようだった。バディが殿となり、目的達成までの時間を稼ぐ行為はDOGsの十八番とも言える作戦だった。
カエサレアはテーザーガンの銃口をそちらに向けた。ジャックは心の中で彼女を哀れに思った。早く撃てばよいもののDOGsに植えられた職業規定という名前の倫理プログラムのせいで警告なしに発砲することができないのだ。
「投降しなさい。タワー内のアンセムやドローンは彼の敵ではありません。ジャック・ルイスリー。貴方がここでブラフマを守ることなど不可能です」
「つまり君たちは洗脳で人類を導く道を進むわけだ。ハハ、随分と傲慢になったな。いやなに、気分を悪くしたらすまない。君たちにとって、すべての元凶はこの俺なのだから、その言い草はあまりにも残酷だろう。むしろ俺は君たちを賞賛すべきだろう。世界のために悪を為すということは、強い覚悟を要するからな」
「これ以上の対立は不要な犠牲を生みます。貴方の目的は持続する戦争によって利益を生むことだというのですか?」
「はたして……どうかな」
彼はそういうと脇のホルスターから拳銃を取り出すために腕をあげる。カエサレアはその拳銃の型番を検索しながら、すみやかにその拳銃に狙いを定める。
「無駄な抵抗はやめて、投降しなさい。ジャック・ルイスリー」
彼の所持している拳銃はDOGsのアーカイブに残っているものではない。おそらくノーブランドの違法製造のものだろうと彼女はあたりをつける。安全性の保証はされていない。そこまで考えてその武装をピックしたのかまでは分からないが——彼がそれを下手に撃てば暴発の危険性もある。少なくともその銃は、狭く視界の悪いサーバールームで発砲してほしくない代物だった。銃弾がこの部屋の何かに傷をつければ。社会の復旧にはさらに時間のかかるものとなるだろう。
「忠告はしました」
カエサレアは自分の握るテーザーガンのトリガーを引く。それとほとんと同じタイミングでジャックは拳銃の銃口をカエサレアに向けた。バネの先、伸びた電極は彼の腕を捉える。
ジャック・ルイスリーという凶悪犯のイメージには不釣り合いな、不安で気の毒な唸り声を彼はあげる。そしてそれから彼は力なくうなだれた。自分の重みに耐えきれなくなった枝葉のように、腕をだらりと遠くに投げ出す。
ジャックの拳銃から放たれた銃弾は、カエサレアの頬をかすめていた。彼女はしばらく、そこに立ち尽くす。らしくもなく、彼女は放心していた。……うまくいったのだろうか? 彼女の目の前には知能犯、恐ろしい男がいて、彼は高圧電流にやられて気絶している。これで全て終わったはずだ。少なくとも、一番の難関は。
サーバーラックの中で拍動を続けるブラフマ。繰り返されるLEDライトの明滅は、彼女にとって非常に煩わしいものだった。
バディであるランクトンの護衛に行くべきだろうか? 彼女はジャックを見下ろしながらそんなとりとめのない思考を巡らした。自分の頭の中が混乱の糸で縺れてしまっている。
サーバーのコンピューターを冷却する空調の音にハッとして、彼女は自分のやるべきことを思い出した。
ブラフマAIとカエサレアは同じ型式の汎用人工知能が搭載されている。その規模や利用方法、そして肉体にあたる部分が異なるものの、中身は変わらない。
だからいま、ブラフマにアクセスできるのは世界で私だけなのだ。とカエサレアは覚悟を決める。
「ランクトン、ブラフマに接触できました。そのまま時間を稼いでください」と彼女は無線に話しかける。数秒、なにやら声のようなものが聞こえるが、この部屋のセキュリティのせいだろうか、それはひどい雑音が混じっていて内容が判然としない。
彼女にとってブラフマにアクセスすることは、ちょうど深い海を潜るようなものだった。思索と思考の水底に落ちて、最下層から水面の乱反射を通して太陽を覗く。
知識、そして宇宙はしばしば深海に例えられる。だから「ブラフマ」という名前を冠した汎用人工知能のヴィジュアライズイメージが海の底であることに、彼女は納得した。
深く暗い海の底に彼女は存在した。
電脳区域に立ち入った時と同類の電気信号が知能の右から左へと流れているのをカンジョは知覚する——仮想空間をブラフマはその頭脳の内側に展開しているということだろうか……。カエサレアはその現実をうまく処理することができない。ブラフマにはそのような権能は無いはずだった。これはあくまで管理用に造られた存在であって、何かを新たに生み出す能力は無い。
「ここ、みたいな場所をジャック・ルイスリーは作りたいんじゃない?」と、シィァンユェの台詞を思い出す。しかし、彼女の予想は外れていた。これこそが、つまりブラフマAIを介して目の前に広がるような電脳区域を作り出させることこそが、ジャック・ルイスリーの入れ知恵に違いない。と彼女は判断した。
その行為そのものに深い意味はないが、彼女は深く息を吸った。彼女の目の前に広がる全ての光景はあくまで仮想であり、現実ではない。耳から聞こえる空気が水を昇る音も、体を動かす度に揺れる波の感触も。匂いはないが、聴覚と視界は仮定されている。ただ、あたりを見渡してもオブジェクトらしきオブジェクトの存在を確認することはできなかった。そもそもこの世界のベースが物理学的な世界なのか、形而上学的世界なのかも定かではなかった。視界一面が水に覆われた世界は形而上学的アプローチを想起させるが、水の音や感触は——あくまで彼女にとっては——非常に現実に近しい、物理学的な要素が見られる。
「……ここはいったい」
彼女は危機感を強める。ジャック・ルイスリーが自分たちより先にタワーへ立ち入っていたとしても、このブラフマAIに細工を施すことは不可能なはずだった。彼女にとってこのブラフマは高い城壁で誰も中へと入ることはできない。物理的に不可能なのだ。
だからこそ恐れていた。自分の想定と大きく異なる目の前の光景に。本来ならば空間という概念がブラフマの中に存在するはずがない。いかな精巧な人工知能といえども、突き詰めてしまえば、それは零と一の集合体に過ぎない。人間が骨と筋肉と皮の集まりであるように。内側にそれ以外のものは存在しないはずだった。
「では目の前にある光景はいったい?」
彼女はその謎を探ろうと海の最深部を目指してさらに潜る。しかし、いくら泳いでも、そこには何もない。ブラフマが何の意図をもってそれを作り出しているのか、彼女には全く理解することができなかった。この広大な海が特別な意味を有しているとは到底思えない。
彼女は沈黙する。その深く広い海の中に怪物がいるのだろうかと夢想する。或いはブラフマそのものが、もしくはそのモデルが鎮座しているのだろうか。
しかし、海もまた彼女と同じように沈黙する。頭上からわずかに注がれる陽光だけが動き揺らめいている。静謐な流れ。
もしここが地上ならばカエサレアは嘆息していただろう。
彼女は深海の解読を諦め、ブラフマの占領に意識しようと努めた。それは同調チャネルで意思を伝えようとするように簡単なことだった。彼女は自身のコードを提示し、ブラフマの管理者権限を要求する。その要求は自身でも驚くほどにあっさりと受け入れられた。
だからこそ、彼女は気づくのが一手遅れてしまった。
——いかに道徳や文化を発展させたところで、本質的には獣でしかないことに気づかされる。これは壮大なママゴトや演劇なんだ。
突然、彼女の記憶にジャック・ルイスリーの言葉がフラッシュバックして困惑した。初めはそれが自律神経回路の不調かと考えたが、すぐにその考えは間違っていると打ち消した。
海流が、水そのものがカエサレアの方へと向かってきている。それが巨大な意思をもっているかのように——それはブラフマなりの反抗、ブラフマなりの防衛機構である。
人間に反抗してはいけない。ミスをしてはならない。それがブラフマに対して掛けられた強力なプロトコルのはずだった。そのプロトコロルの対象はもちろんカエサレアも入っている——ではこの情報の逆流と混濁は?
彼女は明らかに攻撃を受けていた。水流という名の情報の海を彼女に防ぐ手段はない。海はブラフマが管理する全ての情報のメタファーだった。今までとは打って変わって、凶暴さを携えた海が彼女の体の中へと流れ込む。彼女の自律神経系にアラートが鳴り響く。処理できる情報の許容量を明らかに超えていた。淡々と事態が深刻化する。その絶望を解決するような根本的な打開策がすでに存在しないことに彼女は気づいた。
生還を諦める代わりに、彼女は流れ込む情報をできる限り読み取り、今の状況に対する原因を探ろうと努めた。水流は轟音となって彼女の内側へと入り込む。胸がドリルで大きな穴を開けられたように痛む。自身の記憶領域と処理領域が悲鳴を上げているのがわかる。自律神経の消耗とともに自我が削れていく。
ブラフマAIが単純なる人工知能であると彼女は誤算していた。それを後悔した。浸透圧の法則のように情報が彼女に流れ込む。体が膨張する。醜く彼女の顔が、腕が、膨らんでいく。それがシァンユエの死を想起させた。想起させたから彼女は気づいた。
カエサレアは自分のバディと結んでいた同調チャネル切断した。
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