遡行するドゥームズデイ・クロック
Sanaghi
1章
第1話
世界は九十八パーセント平和になった。だが、二パーセントが紛争状態の最中にある。
二パーセントの紛争はワインに忍ばせた毒のように人類に対して害を為す。たかが二パーセントだ。たかが二パーセントのために彼らは汗水を流し、褒賞を求め、貪り喰らうかのように働き続ける。ゆえに犬と呼ばれた。忠実で、誇り高い、畜生であると。
ほら畜生。瞳を開けよ。
彼は誰かの声で目を覚ました。眼前に広がる光景はあまりにも見慣れた景色だった。低い天井、青く光る照明、俺の動きをセンサーで感知し、ディスプレイからニュースが届く。仕事内容、トレンド、ハピネス、天気予報、くだらないモラリスト、ジョージ・ファーディーによる今日の一言。それから犯罪組織、アンセムのリーダー格である、ジャック・ルイスリーの逮捕。世界平和指数。
「おはようございます。ランクトンさん。就寝から六時間三十五分。脳波の乱れを感知しました。修復プログラムを起動しますか——?」
「結構だ。それより、もう一度仕事について伝達してくれ、聞いてなかった。それから『ハピネス』と『ファーディー』は俺の好みじゃ無い。もう二度と流さなくていい……これを伝えるのは三度目なんだけれどな」
築十五年の古マンションでは、ルームシステムにバカなところの一つや二つ、あるのも仕方ないのかもしれない、とランクトンはため息を吐いた。頭を掻きながら洗面台に向かい、顔を洗う。鏡を見ると、鋭い目つきの男が目の前にいた。
——ああ、これが俺だ。
なぜ急にそんなことを考えたのか、ランクトンにもわからなかった。自分の姿を忘れたことなど、今まで一度もないはずだ。けれども、彼は、ヒビの入った鏡に映る自分を見て、今まで失いかけていたものを奪い返したような感覚に陥った。それは逆説的に、今の今まで無意識のうちに失っているものがあったということを照明しているのだろうか? 彼は思い巡らす。
最近失ったもので、彼の精神的に一番大きかったものは国際民事警察組織、DOGsでバディを組んでいたジェフだ。戦闘中に凶弾に倒れた。いい男だったとランクトンは記憶している。しかし、強く脳みそに刻まれるようなエピソードが何一つないことだけが惜しい。彼は周囲からの評価を気にするあまりに、大胆でいることのできない人間だったからだ。
……それが自分の精神的不調の原因だろうか?
考えながら着替える。歩いている時に散乱した窓ガラスの破片をブーツでいくつか潰してしまう。霧の中に差す細い筋のような太陽は、ガラスを反射させてキラキラと輝かせている。
バディの死など、ランクトンは人生で何度も経験してきた。アフリカの乱戦、元イギリスの市街戦、塹壕戦、拷問、虐殺……世界のたった二パーセントしか残されていない地獄を、深く味わった自分が、今更? 困惑が彼の胸から湧いて出る。
ディスプレイでは三流コメディアンのジョージ・ファーディーがクソみたいに陽気な音楽に合わせて下品なダンスを踊っていた。ランクトンはルームシステムに対して「コメディアン」と「ファーディのコーナー」に関しては、決して自分の目に入らないようにブロックを命じていた……つまり、こいつは「トレンド」の欄から姿を現した、というわけだ。ランクトンは舌打ちをする。嫌いな人間を見たこと、そしてこれが世界の「トレンド」である、という事実に対しても。音楽は彼の頭蓋の内側で反響し、次第に大音量になる。耐えきれない、と思い、ランクトンはルームシステムに命令を入力——しようとしたが、それは叶わなかった。
ディスプレイは突然、コール画面へと切り替わった。発信者は国際警察機関——政府世界の防衛——DOGsの本部からだった。これが現れたということは、そのまま、彼のマンションから車で三十分ほどにあるオフィスビルまで来いという呼び出しを意味している。最悪の気分だった。今日は休日だというのに。
まだ洗濯して生地が固いままのシャツを脱ぎ、制服に着替えた。それからリビングのカウンターに置いてある車のキーを無造作にポケットへ入れると、センサーが反応して部屋のドアが開く。外は霧が漂っていて、太陽の光は乱反射の果てに拡散していた。
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