第25話
康夫に台湾へ出張中の猪俣から、国際電話が入った。
猪俣は、挨拶もそこそこに、弾んだ調子で切り出す。
「若旦那、
「ということは、
「へい、何もかも順調に事が運びました」
「除さんの件は、どうです?」
「それも大丈夫です。
それを聞いて、康夫はようやく肩の荷を降ろす。
「それは本当によかった」
彼の大切な人たちの安全を約束していた康夫は、そのことをずっと気に掛けていたのだ。
「それにしても、随分と上手くことが運んだようですね」
「なに、
そこで猪俣は大きな声で笑った。機嫌のいいことが、声の調子で伝わってくる。
「申し訳ありやせんが、どうせ潜伏中なんで、もう少し台湾を満喫してから帰国したいんですが、若旦那は大丈夫でやすか?」
猪俣は、敢えて重要な
「せっかくですから、是非ゆっくりしてきて下さい。こっちは何とかなりますよ」
「申し訳ありやせん。それではお言葉に甘えさせて頂きやす。若旦那も
「食事の前に、先ずは大切な用件をすっきりさせておこうかのう」
そう言った
繋がった電話を受け取ると、
「そうか、分かった。お前は五所川原組と直接会って、きちんと話をつけるんじゃな。除はわしが預かる。お前は一切手を出すな」
短い会話だった。電話を置いた
「奴はもう、お前さんたちに一切ちょっかいを出さんそうだ。これまでのことについては、けじめをつけると言っとるから心配ないじゃろう。聞いての通り、除という若いもんはうちで預かる。まあこれで、今日は食事を存分に楽しめるということじゃ」
大きな口を開けて天真爛漫な笑いを見せる
「何から何まで、ありがとうございます」
言うまでもなく、その日の
※※※
二日後、猪俣が言った通り、
約束の時間は午後七時。食事に招待したいという
念の為、五人の腕利き護衛を伴った。それは猪俣の指示である。康夫は電車を使い一人で新宿まで行こうと思ったが、特にその日の会合は、周囲が康夫の単独行動を許さなかった。
護衛の二人は康夫の車に同乗し、三人は別の車に乗るという具合に、二台に別れて本部事務所を出発した。
駒形から首都高速六号線に合流し、環状線から四号線に抜ければ、新宿はそれほど遠くない。高速道路では防弾用のガラスや鉄板が埋め込まれた重量級ボディを、メルセデスの大排気量エンジンが軽々と引っ張り、加減速の多くなる首都高速にはうってつけの車だ。車両の重量化に伴い、サスペンションまで強化された特別仕様車である。
レストランへ到着すると、先ず別の車に乗った護衛の三人が先に車を降り、レストランの中へ姿を消した。その五分後、戻ってきた護衛がレストラン内部に問題ないことを伝える。これでようやく、康夫が乗る車のドアが開かれた。
康夫が車から降りると、初老の小柄な人物がレストランのエントランス前に立っていた。
「今日はわざわざ足をお運び下さって、ありがとうございます。私が
彼は日本風に腰を降り、深々と頭を下げる。まるで服従を誓う儀式のように、うやうやしい挨拶だった。
「坂田康夫です。臨時で若頭代行をしています。今日は猪俣が不在のため、代理で参りました」
そう言った康夫は、差し出された
握手を交わしたとき、
この戸惑いは、食事が始まってからも続いた。
康夫はただ、いつもの通りにしているのである。彼にしてみれば、見栄や虚勢は不要なものであり、
円卓には、
康夫の護衛二人は、テーブルから少し離れた位置で、個室の壁を背に手を前で結んで立っている。背筋をぴんと伸ばした身だしなみのよい護衛は、威圧感を放っていた。残りの三人は部屋のドアの外に、
しばらく差し障りのない会話の中で会食は進行したが、
次第に
「台湾の
「実は僕はその方に会ったことがありませんし、何も知らないんですよ。台湾では随分凄い人だと聞いているのですが、そうなのですか?」
例え彼を知らなくても、普通は親しいことを匂わせたりするものだろうと思う
「
そこで康夫は切り出した。
「上手くやるとはどういうことでしょう。具体的におっしゃって頂けると助かるのですが」
突然人が変わったように、康夫は
「つまりですな、友好的な関係を維持するということですよ」
康夫は
「我々も無駄な争いはしたくありません。組織の人間が傷付いたり命を落とすのは、本当に避けたいと思っています。しかし、はっきりさせておかなければならないことを曖昧にしたまま、友好的な関係などあり得ないのではないですか?」
「はっきりさせなければならないこと? それはどういったことですかな?」
「あなた方が陰で画策していたことです。もっと分かり易く言った方が宜しいですか?」
ここで
「中国人娼婦殺人は、あなたたちの仕業です。そして現場に一円連合の幹部バッチを置きました。兵庫の酒井さんと一緒に、何を企んでいましたか? 鬼瓦組や銀友会、そして海外の他組織まで巻き込んで、随分大掛かりなことをやろうとしていたようですが」
康夫の言葉で、円卓を囲む空気が凍りついた。同席している
一発触発の事態に見えたが、
「いやいや、参りました。何もかもお見通しのようですな。噂通り、怖いお方のようだ。確かにおっしゃる通りです。我々は、五所川原親分と猪俣さん、そして追加の依頼であなたの命を狙っておりました」
その言葉で、護衛の二人が銃を抜き
「もちろん今は、そんなだいそれたことは考えておりません。それにたった今、私はここで命を取られても仕方ないと覚悟しましたよ。どの道あなたが本気を出せば、我々は虫けらのように消されるのでしょうからな。全て言いましょう」
歌舞伎町再開発は、台湾組織に関わらず、香港や中国マフィアにとっても共通の死活問題なのだ。
親玉を取り襲撃を終わらせれば、実行犯は直ちに地元の国へ高跳びさせ、後始末を鬼瓦組、銀友会、極西連合が引き受けることになっていた。
「つまり、一円連合壊滅作戦ですか」
「その通りです。民民党の国会議員が出てきて、わしもあとへは引けなくなってしまった」
康夫は水上の存在に気付いていた。酒井を調べているうちに、酒井が水上と深く繋がっていることを知ったのだ。
「水上さんですね」
「そこまで分かっておられるのか。大したもんだ。日本で活動するためには国会議員の力が有力な助けになるが、今回は厄介な足枷になってしまった。わしは今、奴にこの件から手を引くと申し出ている。
康夫は黙って頷いた。
「一つだけ分からないことがあります。なぜ中国人の女性を殺す必要があったのですか?」
「
「それでも現場に一円連合のバッチを置く意味が分からない」
「酒井がこの騒ぎを嗅ぎつけ、私が彼にことの成り行きを告げたのですよ。酒井は、女を殺害するなら、現場に一円連合のバッチを置けと言いました。運良く猪俣さんが警察に捕まれば、この計画は進めやすくなります。バッチを置いたら、あとは水上さんが警察上層部へ働きかけると言われました」
康夫は、注意深く
「しかし今度あなたは、我々と友好な関係を維持することにしたわけですね?」
このとき
「先ほども申し上げたように、我々にとって
康夫は腕を組み、
一分もそうしただろうか、康夫は閉じていた目を開き、
「辻褄は合うようです。あなたの言葉を信じましょう」
康夫は後ろへ立つ護衛に向いて、冷静に命じる。
「例の件を、実行に移して下さい」
護衛は無言で頷くと、その場でどこかへ電話を掛けた。
「若旦那より指示が出ました。すぐに始めて下さい」
それだけの言葉だった。しかしその短い言葉に、
「
「それはどういう意味ですかな?」
「状況が色々変わります。一つだけはっきりさせておきます。女性を殺した実行犯を、新宿署に自首させて下さい。それで一円連合は、
「それはそのままの意味に受け取って構わないのですか? 正直私には、まるで理解できないのですが」
康夫の顔には、いつもの無防備な笑みが宿っていた。
「最初に言ったはずです。僕は無駄な争いをしたくありません。
「あの水上も?」
康夫は笑顔で頷いた。
しかしそうだとしても、
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