第20話

「老板、周小鈴チョウ・シャオリンと台湾の除の家族が消えました。何処を探しても全く手掛かりがありません。こうも見事に姿をくらますには、誰かの手引きがあったはずですが、除は現在、留置所です」

 報告を受けた老人の額に、薄っすらとあざのような模様が浮かび上がる。それは彼のおでこの右側に位置する、星型を崩したような三センチ程度の赤黒い模様だ。台湾組織の頭目である郭協志グオ・シェーチーは、頭に血が上ると血圧が上昇し血行が変わるせいか、普段皮膚の下に隠れた古傷の痕が額に浮き出す。老板が、本気で怒っている証拠だ。この模様を出した者は、生きて彼の前から帰ることができないと言われている。

 歳は五十を過ぎたばかりだが、痩身で、皺の多いうりざね顔と白髪の混ざる逆三角形の顎髭が、彼を年齢以上の老人に見せている。しかし、表情のない一重の細い目は異様な光を放ち、これが対峙する者に、いつでも強烈な威圧感を与える。

 除が逮捕された日、郭協志グオ・シェーチーは部下に、家族と周小鈴チョウ・シャオリンを押さえておけと静かに命じた。郭協志グオ・シェーチーは、除が組織の掟を破り、店の女とできていることを知っていたのだ。本来なら見せしめで腕の一本でも献上してもらうところだが、老板はそれを見て見ない振りをしていた。元々男女のことはビジネスに支障をきたさない限り多目に見ていたし、郭協志グオ・シェーチーの為に懸命に働く除を、この老人は内心可愛がっていたからである。しかし、可愛がっていた分、裏切り行為があれば決して許せない。もし除が家族や女を事前に隠していたとすれば、それだけで除の郭協志グオ・シェーチーに対する背信を疑わなければならないのだ。

「除に連絡は取れるか?」

 腹心の一人、王宗憲ワン・ゾンシェンが答える。

「確実にとはいきませんが、やってみます」

 それに黙って頷いた郭協志グオ・シェーチーは、カーテンの仕切りの奥にある自室に姿を消した。

 郭協志グオ・シェーチーは普段、ほとんどこの自室にいる。怪しげな女が出入りする以外、部下がこの部屋に入ることはない。他に人が入るとすれば、執事のように郭協志グオ・シェーチーの身の周りを世話している老人だけである。

 新大久保の目抜き通りと並行し、一本奥まった通り沿いに、この本拠地のビルはある。八階建ての、古びた雑居ビルだ。郭協志グオ・シェーチーが使っているのは、五階のフロアである。

 エレベーターで上がり、ドアが開いたそこは、いきなり組織の人間の詰め所になっている。そこから一つ奥に入った部屋が、郭協志グオ・シェーチーと幹部たちが顔を突き合わせる部屋で、ソファーや大型テレビ等が置かれている。薄暗く、中華系の装飾で統一された部屋だ。更に奥に郭協志グオ・シェーチーの部屋に通じる部屋があるという造りだが、その奥には部屋がいくつかあり、しかも迷路のようになっている。

 郭協志グオ・シェーチーが過ごす部屋はときどき変えられ、万が一他者から襲撃を受けても、余程運が良くなければ、一度で彼の部屋に辿り着くことはできない。部屋の場所は腹心の幹部さえ知らず、そのことは、郭協志グオ・シェーチーが如何に用心深い男であるかを物語っている。


※※※


 除は取り調べ室へ移動中、意外にも廊下で一人の顔見知りに出会った。彼はすれ違いざま、台湾語の小さな声で素早く言った。

「組織を裏切るな。家族や周小鈴チョウ・シャオリンを何処へ隠した」

 老板の指示を受けた王宗憲ワン・ゾンシェンは、新宿署で馴染みのある刑事に一つの頼み事をした。配下の若造を喧嘩で捕らえ、取り調べ室に向う除と廊下ですれ違うように仕向けることである。

 普段から持ちつ持たれつの関係にあるのだから、刑事がそれしきの依頼を実行するのは他易かった。簡単な依頼事で貸しを作っておくのは、地元刑事としてもやぶさかではないのである。

 除は、警察内部にまで伝令を飛ばす組織を恐ろしいと思ったが、家族や周小鈴チョウ・シャオリンの件は不可解だった。小鈴が消えたという話は刑事に聞いていたが、除はそれを、組織が彼女を人質として押さえたと思い込んでいたからである。彼女の身の上にかかる仕打ちを心配していた除は、それでは小鈴は何処へ消えてしまったのかと、また別の心配が頭をもたげた。しかも家族まで消えていたのは驚きだった。

 小鈴は日本で、組織以外に頼れるところはないはずだ。客の誰かを垂らしこんでも、最後まで逃げ通すには無理がある。なにせ国に残した家族のことが、組織に全て把握されているからだ。

 取り調べ室に入り、池上は開口一番、除の女のことに触れた。

郭協志グオ・シェーチーも、小鈴のことを探しているみたいにじゃねえか」

「俺には関係ない」

「しらばっくれなくてもいいじゃねえか。さっきの奴が、あんたに彼女の行方を訊いたんだろう?」

「彼女が何処にいるかなんて、俺は本当に知らないんだ」

 そこでヤスが口を挟んだ。

 ヤスが取り調べに加わったのは、除の勾留期限を延長しながら、取り調べ開始五日後のことだった。

「彼女が何処にいるか、あんたは知りたいか?」

 除は、虚をつかれたようにヤスをじっと見る。

「知ってるのか?」

「ああ、知っている。ついでに、あんたの家族のこともな」

 除は目を見開いて、あからさまに驚いた表情をヤスに向けた。

郭協志グオ・シェーチーはな、あんたが警察に捕まると、直ぐに小鈴やあんたの家族を押さえようとした。その意味するところが何か、あんたなら分かるな?」

 除はためらいがちに頷く。

「しかし日本には奇特な人がいてな、ある人があんたの女や家族を心配して、郭協志グオ・シェーチーに捕まる前に、みんなを安全に匿ったんだ」

「そんなのは、嘘だ。適当なことを言って騙そうとしても、俺は喋らないぞ」

 ヤスはむきになる除を観察するように見つめてから、無言で彼の前に一枚の写真を放り出した。除はそれを手に取り、食い入るように見つめる。

 写真の中には、目の前にいるヤスと一緒に、紛れもない自分の家族が写っていた。

「俺はあんたのお袋さんと会って話しをしたよ。随分あんたのことを心配していた。お袋さんは、あんたがヤクザの仲間になったことを知っていた。だからあんたのことが、心配で仕方ないんだ」

「それで、お袋は今、何処にいるんだ?」

「日本にいる。この東京に来ているんだ。あんたに会いたいが、居場所が分からず連絡先も知らないから、どうしようもないと言っていた」

 除は、ヤスが渡した写真を食い入るように見つめていた。写真を持つ両手が、心なしか震えている。

「東京の何処にいる?」

「それは言えない。あんたの家族を助けてくれた人の許可がないとな」

「それは誰なんだ?」

「それも言えない。その人は、ある目的があってあんたの家族を助けた。それに小鈴もな。昨日警察に郵便が届いてな、封筒にその女の写真が入っていた。写真以外は何も情報がない。だから正直に言うと、俺は彼女の居場所は知らないんだ。随分綺麗な女じゃないか」

 ヤスはその写真も、除の前に滑らせた。

 そこには、ホテルらしい場所で、コーヒーカップを前に微笑む小鈴が、自分の家族らしき人間と一緒に写っていた。部屋は広く豪勢で、どこかの安ホテルに監禁されているという雰囲気ではない。写真の中の彼女は、微笑んで安心し切っている。

「あんたの大切な人を助けた人は、おそらく俺の知っている人だ。もし俺の考えが正しければ、彼はあんたの家族や女を酷い目にあわせることはしない。あんたが何も話さなくてもな。彼はあんたが、あんたの知っていることを自由に話せるようにそうしただけだ。決してあんたを脅迫するつもりはない。俺があんたに言いたいことは、あんたは家族や女のことを心配する必要はない、ということだ」

 除は取り調べ机の上で顔を伏せ、無言になった。

 池上とヤスは、それをじっと見守った。除は葛藤を抱え、どうすべきか迷っている。

 ようやく除が顔を上げた。

「なあ、家族も女も、本当に安全なのか?」

「ああ、少なくとも家族の方は、民間の最強チームと警察の両方が護衛しているからな。それでも駄目なら、運が悪かったと諦めるしかないくらい厳重だ」

 除は再び呆然として、思案を巡らせた。そしてしばらくしてから、弱々しく口を開いた。

「俺も組織の残忍さは良く知っている。俺が組織を売れば、俺と俺の大切な人たちが、みんな血祭りにあげられる。俺自身は仕方ない。しかし家族は関係ない」

「その通りだ。しかしあんたは、全てを承知して郭協志グオ・シェーチーのふところに飛び込んだんじゃないのか?」

「そうだ。全てを知っていた。けれど、自分は直ぐに出世して、組織を使う側に立ってやると思っていた。そうなれば、怖いものなんてなくなるはずだった。しかし組織は、全てボス一人の物だったんだ。幹部さえ、小さなミスで粛清される。だからたった一人のボスが怖くて、誰も逆らえない。何かを命じられたら、それは絶対だ。決して嫌とは言えない。失敗も許されない。だからいつでも気持ちが張りつめている。恐怖とプレッシャーで、気が狂いそうになる。それでも逃げられない」

「八方塞がりってやつか」

「そうだ。どこにも行けない。それでも救われたいのが、人間ってもんだろう? それで俺たちがどうするか、あんた知ってるか?」

「薬でもやるのか?」

「そうじゃない。薬に嵌まった奴の末路は散々見てきた。だから俺たちは、薬なんて絶対にやらない。楽になるために、俺たちはヤクザになり切るんだ。非道の限りを尽くしてでも、どうすればボスが喜ぶかを考え実行する。それで安心できる」

「それじゃあ、ただの操り人形だ」

「そうさ。しかしそれが嫌でも、それしか道がない。袋小路にいると気付いたときには、もう手遅れだ。もし自由が欲しければ、死ぬより他に道はない」

「なるほど、そうやって、みんなが筋金入りになるわけだ」

「そうだ。筋金入りになって、ますます組織からは抜け出せなくなる。組織の裏をたくさん見ているからな。そんな奴が仲間の輪からはみ出せば、組織にとっては危険だろう。だから組織は足抜けを許さないし、どうしてもと言われたら消す」

 はっきりとした言葉で確認を取りたいヤスは、ここで聞き直した。

「消す? 消すとはどういう意味だ?」

「ここから先は、まだ言えない。俺が語れば、報復があるからな。ただし、一つ困ったことがある。既に組織は、俺を疑っている。女や家族が消えたからだ。まずはそれを解決しなきゃならない」

「なるほど、確かにその通りだ。だったら女や家族を、元の場所に戻せばいいのか?」

 ヤスはわざと、脅しとも取れないことを言った。案の定、除はそれに反応を示す。

「馬鹿な。そんなことをすれば、もっと酷いことになる。後戻りはできないんだ」

「なら、どうすればいい?」

「女や家族を、ボスの目が届かない安全な場所に逃して欲しい」

「残念ながら、警察はそれを約束できない。しかし、個人的にだが、そのことをある人間に相談できる」

「みんなを匿ってくれた人か?」

「そうだ」

 除が身を乗り出した。

「そいつは信用できるのか?」

「少なくとも、俺は信用している」

「だったら話してくれないか。詳しい話はそのあとだ」

 ヤスは渋い顔を崩すことはなかったが、除の依頼に手応えを感じ、黙って頷いた。

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