第20話
「老板、
報告を受けた老人の額に、薄っすらとあざのような模様が浮かび上がる。それは彼のおでこの右側に位置する、星型を崩したような三センチ程度の赤黒い模様だ。台湾組織の頭目である
歳は五十を過ぎたばかりだが、痩身で、皺の多いうりざね顔と白髪の混ざる逆三角形の顎髭が、彼を年齢以上の老人に見せている。しかし、表情のない一重の細い目は異様な光を放ち、これが対峙する者に、いつでも強烈な威圧感を与える。
除が逮捕された日、
「除に連絡は取れるか?」
腹心の一人、
「確実にとはいきませんが、やってみます」
それに黙って頷いた
新大久保の目抜き通りと並行し、一本奥まった通り沿いに、この本拠地のビルはある。八階建ての、古びた雑居ビルだ。
エレベーターで上がり、ドアが開いたそこは、いきなり組織の人間の詰め所になっている。そこから一つ奥に入った部屋が、
※※※
除は取り調べ室へ移動中、意外にも廊下で一人の顔見知りに出会った。彼はすれ違いざま、台湾語の小さな声で素早く言った。
「組織を裏切るな。家族や
老板の指示を受けた
普段から持ちつ持たれつの関係にあるのだから、刑事がそれしきの依頼を実行するのは他易かった。簡単な依頼事で貸しを作っておくのは、地元刑事としてもやぶさかではないのである。
除は、警察内部にまで伝令を飛ばす組織を恐ろしいと思ったが、家族や
小鈴は日本で、組織以外に頼れるところはないはずだ。客の誰かを垂らしこんでも、最後まで逃げ通すには無理がある。なにせ国に残した家族のことが、組織に全て把握されているからだ。
取り調べ室に入り、池上は開口一番、除の女のことに触れた。
「
「俺には関係ない」
「しらばっくれなくてもいいじゃねえか。さっきの奴が、あんたに彼女の行方を訊いたんだろう?」
「彼女が何処にいるかなんて、俺は本当に知らないんだ」
そこでヤスが口を挟んだ。
ヤスが取り調べに加わったのは、除の勾留期限を延長しながら、取り調べ開始五日後のことだった。
「彼女が何処にいるか、あんたは知りたいか?」
除は、虚をつかれたようにヤスをじっと見る。
「知ってるのか?」
「ああ、知っている。ついでに、あんたの家族のこともな」
除は目を見開いて、あからさまに驚いた表情をヤスに向けた。
「
除はためらいがちに頷く。
「しかし日本には奇特な人がいてな、ある人があんたの女や家族を心配して、
「そんなのは、嘘だ。適当なことを言って騙そうとしても、俺は喋らないぞ」
ヤスはむきになる除を観察するように見つめてから、無言で彼の前に一枚の写真を放り出した。除はそれを手に取り、食い入るように見つめる。
写真の中には、目の前にいるヤスと一緒に、紛れもない自分の家族が写っていた。
「俺はあんたのお袋さんと会って話しをしたよ。随分あんたのことを心配していた。お袋さんは、あんたがヤクザの仲間になったことを知っていた。だからあんたのことが、心配で仕方ないんだ」
「それで、お袋は今、何処にいるんだ?」
「日本にいる。この東京に来ているんだ。あんたに会いたいが、居場所が分からず連絡先も知らないから、どうしようもないと言っていた」
除は、ヤスが渡した写真を食い入るように見つめていた。写真を持つ両手が、心なしか震えている。
「東京の何処にいる?」
「それは言えない。あんたの家族を助けてくれた人の許可がないとな」
「それは誰なんだ?」
「それも言えない。その人は、ある目的があってあんたの家族を助けた。それに小鈴もな。昨日警察に郵便が届いてな、封筒にその女の写真が入っていた。写真以外は何も情報がない。だから正直に言うと、俺は彼女の居場所は知らないんだ。随分綺麗な女じゃないか」
ヤスはその写真も、除の前に滑らせた。
そこには、ホテルらしい場所で、コーヒーカップを前に微笑む小鈴が、自分の家族らしき人間と一緒に写っていた。部屋は広く豪勢で、どこかの安ホテルに監禁されているという雰囲気ではない。写真の中の彼女は、微笑んで安心し切っている。
「あんたの大切な人を助けた人は、おそらく俺の知っている人だ。もし俺の考えが正しければ、彼はあんたの家族や女を酷い目にあわせることはしない。あんたが何も話さなくてもな。彼はあんたが、あんたの知っていることを自由に話せるようにそうしただけだ。決してあんたを脅迫するつもりはない。俺があんたに言いたいことは、あんたは家族や女のことを心配する必要はない、ということだ」
除は取り調べ机の上で顔を伏せ、無言になった。
池上とヤスは、それをじっと見守った。除は葛藤を抱え、どうすべきか迷っている。
ようやく除が顔を上げた。
「なあ、家族も女も、本当に安全なのか?」
「ああ、少なくとも家族の方は、民間の最強チームと警察の両方が護衛しているからな。それでも駄目なら、運が悪かったと諦めるしかないくらい厳重だ」
除は再び呆然として、思案を巡らせた。そしてしばらくしてから、弱々しく口を開いた。
「俺も組織の残忍さは良く知っている。俺が組織を売れば、俺と俺の大切な人たちが、みんな血祭りにあげられる。俺自身は仕方ない。しかし家族は関係ない」
「その通りだ。しかしあんたは、全てを承知して
「そうだ。全てを知っていた。けれど、自分は直ぐに出世して、組織を使う側に立ってやると思っていた。そうなれば、怖いものなんてなくなるはずだった。しかし組織は、全てボス一人の物だったんだ。幹部さえ、小さなミスで粛清される。だからたった一人のボスが怖くて、誰も逆らえない。何かを命じられたら、それは絶対だ。決して嫌とは言えない。失敗も許されない。だからいつでも気持ちが張りつめている。恐怖とプレッシャーで、気が狂いそうになる。それでも逃げられない」
「八方塞がりってやつか」
「そうだ。どこにも行けない。それでも救われたいのが、人間ってもんだろう? それで俺たちがどうするか、あんた知ってるか?」
「薬でもやるのか?」
「そうじゃない。薬に嵌まった奴の末路は散々見てきた。だから俺たちは、薬なんて絶対にやらない。楽になるために、俺たちはヤクザになり切るんだ。非道の限りを尽くしてでも、どうすればボスが喜ぶかを考え実行する。それで安心できる」
「それじゃあ、ただの操り人形だ」
「そうさ。しかしそれが嫌でも、それしか道がない。袋小路にいると気付いたときには、もう手遅れだ。もし自由が欲しければ、死ぬより他に道はない」
「なるほど、そうやって、みんなが筋金入りになるわけだ」
「そうだ。筋金入りになって、ますます組織からは抜け出せなくなる。組織の裏をたくさん見ているからな。そんな奴が仲間の輪からはみ出せば、組織にとっては危険だろう。だから組織は足抜けを許さないし、どうしてもと言われたら消す」
はっきりとした言葉で確認を取りたいヤスは、ここで聞き直した。
「消す? 消すとはどういう意味だ?」
「ここから先は、まだ言えない。俺が語れば、報復があるからな。ただし、一つ困ったことがある。既に組織は、俺を疑っている。女や家族が消えたからだ。まずはそれを解決しなきゃならない」
「なるほど、確かにその通りだ。だったら女や家族を、元の場所に戻せばいいのか?」
ヤスはわざと、脅しとも取れないことを言った。案の定、除はそれに反応を示す。
「馬鹿な。そんなことをすれば、もっと酷いことになる。後戻りはできないんだ」
「なら、どうすればいい?」
「女や家族を、ボスの目が届かない安全な場所に逃して欲しい」
「残念ながら、警察はそれを約束できない。しかし、個人的にだが、そのことをある人間に相談できる」
「みんなを匿ってくれた人か?」
「そうだ」
除が身を乗り出した。
「そいつは信用できるのか?」
「少なくとも、俺は信用している」
「だったら話してくれないか。詳しい話はそのあとだ」
ヤスは渋い顔を崩すことはなかったが、除の依頼に手応えを感じ、黙って頷いた。
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